文字データは、テキスト形式に限るッ!(確信)
私だ。校正者の南条だ。
何? 最近社内のネットワークへウィルスに侵入されたせいで、それ以来セキュリティにやかましくなって困っているだと?
ふむ、それはまったく難儀なことだ。
どうせ、どこぞのバカが勤務中に、ネットのエロサイトでも閲覧したのだろう。自業自得もいいところだな。フッ。
――いや済まん。当事者にとっては、笑い事で済まない事態だったな。
今やコンピューターウイルスやサイバー攻撃のたぐいは、重大な犯罪行為だ。国の機関に対して行えば、テロ行為と見なされることになる。
テロ行為に認定されたが最後、もはや犯罪行為の枠を超え、主権国家への敵対行為にもされかねない。単なる売名や出来心のつもりで流したウイルス一個が、取り返しのつかない事態にもなりうる、そんな時代になったわけだな。
だからといって攻撃を受けた側も、被害者づらしているわけには行かないのが現実だろうな。これがこの種の犯罪の特殊なところだ。
本当に許せんのはサイバー犯罪者なのだが、侵入を許した企業や団体の方も、情報セキュリティに気を遣わなかったことがバレた途端、一気に信用を落としてしまうのだ。
そういうわけで、差出人がわからないメールは閲覧しない、変なサイトは見ない、どこの誰が作ったかわからないソフトは入れない。これだけは守るべきだな。
――何? そういうお前も以前、よくわからんUSBメモリを挿そうとして、係長に叱られたじゃないか、だと?
うるさい、黙れ作者。
どこから見ていたか知らんが、あれは同期の斉藤から送られてきたものだ。あいつを信用していたからこそ挿したのだ。何か文句があるのか?
何? そういうのが一番危ない。お前のような奴が一番、標的型サイバー攻撃の犠牲者になりやすいのだ、だと?
――ええいッ、その上から目線はやめろと、いつも言っているだろうがッ!(激怒)
ああ、そうとも。私はそういう世界に疎い、昭和生まれのアナログ人間だッ! 悪いかッ?
校正もこれからはデジタルの時代だと言われて、この歳で正規表現など習わされる身にも、なってみろというのだッ!(白目で落涙)
「……おい、南条。お前、一体誰と話してるんだ? 例の守護霊ってやつか?」
――ぬぅッ! そ、その声はッ?
先日私に、社内便で支給データが入ったUSBメモリを送ってきた、営業社員で同期の斉藤ではないか!
うぬう、不覚……。私としたことが、ついに職場の外でも、守護霊……もとい、作者との語らいを他人に聞かれてしまう事態を迎えることになろうとは!
このままでは私が、守護霊と常日頃会話している危ない変人だという噂が、営業の間にも広まってしまうではないか。ここは何としても誤魔化して、全力で疑惑を払拭せねば……!
「い、いや斉藤。聞いてくれ。私にはどうも、二重人格の……」
「ん? 別に、今さら俺は驚かないけどな。入社した頃からお前は変な奴だったが、それでも立派に校正係をまとめていると思うよ。俺はまだ転属したばかりで、新しい得意先や新しい部下との関係に苦しんでるから、正直、うらやましく思うぜ?」
「……そ、そうか。まあこっちこそ、いつも迷惑をかけて済まんな」
ううむ、何だかうまく丸め込まれたような気がするが、ここは結果オーライとするか。
こういった話術も、今までデザインの分野で顧客の信用を勝ち取ってきた、斉藤の卓越した営業技術なのだろうな。それに敬意を払うからこそ、今夜も相談に乗ってやったのだ。
「それで斉藤、折り入って相談というのは何だ? こんな立ち飲み屋でビールを注文してからでないと、話せないことなのか?」
「あー、その、まあな。部下や後輩には内緒で、相談したいことがあってな」
うむ……。おっと、読者諸君への紹介がまだだった。
いま話している斉藤は、私の残り少ない、同期生のひとりだ。
バブル崩壊後の就職氷河期第一世代として、ともに初めて経験する就職難を突破し、ようやく入社を果たした仲間だ。その当時から懇意にさせてもらっている。
しかし当時、まだバブルの風潮が残っていてな。せっかく狭き門を突破して入社できたにもかかわらず離職が相次いで、三十人近くいた同期が、一年以内で半分になってしまった。
第二新卒などという概念もない時期だ。察するに、再就職も容易ではなかっただろうと思う。去るも困難、残るも困難といった時代だったが、斉藤は苦楽をともにした大事な仲間だ。
そんな彼とは、よく二人で駅前の立ち飲み屋に繰り出しては、ビールを酌み交わして愚痴を言い合ったものだが、彼がデザイン部門へ移ってからは、何となく疎遠になっていた。
しかし、この焼きつくねは美味いな。新メニューか?
このコリコリとした食感は、鶏の軟骨だな。しかも肉汁が半端ないぞ。
何? ゆっくり味わっている場合じゃないだと? うるさいぞ作者、引っ込んでいろ。
「……そうか。そういえばお前はデザインの部門から、書籍印刷の部門へ移ったばかりだったな。やはり、やりにくいのか?」
「まあ、ぶっちゃけて言えばそうだ。上司や部下は何とでもなるが、得意先がねぇ……。何だかよく分からんデータを丸投げしただけで、『これで、前と同じものを作れ』の一点張りさ。打ち合わせの時間すら取ってくれないのは参ったね」
「ううむ。デザイン部門では、ラフの段階から顧客と打ち合わせを繰り返して誌面を作っていくのが普通だが、改版や改訂では、さすがにデザインと勝手が違うというわけだな?」
「まあね。それで営業スタイルの違いに慣れるのに、難儀しているというわけさ……」
ついでに言うと、「改版」というのは印刷用語で、前に作った版を直して、もう一度印刷することだ。直さない場合は「増刷」とか「増し刷り」などと呼ぶ。印刷会社によっては「重版」と言うこともあるな。
そして「改訂」だが、改版とは違って前に作った版を流用し、まったく別の版を作ることを言う。「改訂版」と呼ぶこともあるぞ。
「それで、私に相談というのは何だ? 私にわかることなのか?」
「ああ、そうそう……。得意先からさ、『文字のデータを支給したいが、PDF形式でいいのか、他の形式がいいのか教えてほしい』っていう問い合わせが来てね」
「文字のデータか。それをPDF形式で支給しようというのか?」
「ああ。イラレのAIデータやEPSデータばかりだった俺としては、PDFが最適なのかどうかがわからなくてね。後輩に相談するのも恥ずかしいから、『調べて明日お答えします』って返事しちゃったのさ」
「なるほど、それで私に、会社の外の立ち飲み屋で相談というわけか」
……しばらく会わないうちに、こいつも大人になったのだな。
ううむ。それにしても、この店で出すイカの一夜干しは絶品だな。これで三百円はお得だ。辛子マヨネーズとの相性が抜群だぞ。
これでビールが進まないわけがない(確信)。そろそろ、ビールのおかわりを注文……。
――何? イカの一夜干しはどうでもいいから、AIデータとかEPSデータとかの概要を読者に説明しろだと?
う、うるさいぞ作者! ちょうど私も、そうしようとしていたところだ!(恥)
それに、イカの一夜干しを悪く言うとは何事だ! あれは神メニューだぞ!
……コホン。いやわかった。では、まずAIデータから行くぞ。
AIというのは、描画ツールの「イラストレーター」(略称イラレ)で作られるデータのことだ。拡張子がAIなのでそう呼ばれている。イラレ形式とか、イラレデータとも呼んでいる。
このデータは「ポストスクリプト」という言語で成り立っていてな。ドットで表す画像データとは違って、線の方向や角度、長さなどといった概念で描画する形式だから、とてもきれいだ。その代わり、データ量が大きい。
そこでAIデータを圧縮し、さらにイラストレーターで作ったデータを他のツールでも使えるようにしたのが、EPSという形式だ。ポストスクリプトを圧縮したという意味からして、データ量も若干小さくなっている。
PDFも、その技術を応用したものだ。無料のソフトで開くことができるし、インターネットのブラウザでも開けるのだが……。
「そうだな、文字データを支給する場合に、PDFはよくない。普通の保存方法では改行の情報を残してくれないし、詰め組みが設定されていると、コピーした際に細長い文字が入れ替わることがあるからな」
「ふーん。そうすると、PDFはNGということか。それじゃ他の形式……あ、ビール追加」
「うむ。文字データでオススメなのはテキスト形式だ。何よりデータが軽い。だが特殊文字を含むのであれば、ワード形式や一太郎形式といった、ワープロソフトのデータがいいぞ。おい、オヤジ、イカも追加だ」
「あー、それなんだよね。何だかワードに似たアプリを使ってるらしいけど、ワードじゃない無料のやつみたい。あ、オヤジさん、今の、全部こいつのおごりで」
「うぬう、ワードに似ていて、ワードでない――って、おいコラ! 斉藤!」
「はっはっは、冗談冗談。相変わらずお前のリアクション芸は、秀逸だよな」
……リアクション芸をやったつもりは、ないのだがな(困惑)。
それはともかく、彼が言うワードに似た無料のソフトといえば、やはり「オープンオフィス」しか思いつかないな。
今ではいくつものプロジェクトに分かれて、中には有料で売っているものもあるらしいが、正統後継ソフトの「アパッチ・オープンオフィス」か、元の開発者たちが旗揚げして配信した「リブレオフィス」が無料だから、そのどちらかだろう。
これらはワード形式での保存ができるが、標準では「オープンドキュメント」という形式で保存するようになっている。
その形式も今では一般的なものになったが、ワードや一太郎などで開くと、いろいろと不具合が起こるかもしれない。やはりここは……。
「斉藤、お前が言うのはどうやら『オープンオフィス』というソフトのようだが、特殊文字がないのなら、支給する際にはテキスト形式で保存するようにお願いしてくれ。現場からすれば、それが最善だ」
「ふーん。やっぱりどんなデータも、文字に関してはテキスト形式に勝てないってわけだね。わかった。先方にはそう伝えるよ。それで、さ……」
「何だ? まだ何か相談したいことがあるのか?」
「いや、相談っていうほどのことじゃないけど、お前のところに新人ちゃんが入っただろ」
そういえば、わが校正係にも今年、待望の新人が入社したのだった。
まだ教育期間中の身だ。そういえば来週から、テキストデータの話をする予定だったな。
「新人……ああ、早坂のことか。あの中学生がどうかしたのか?」
「その子が、オタクだけどすごく可愛いって噂でさ。営業に引っ張れないかと後輩どもがうるさくてねぇ」
「それはお断りだ。中二病でオタクだが、あれはしっかりと、志を持って校正係に来たのだと言っていた。志を持って売上に貢献したいと、斉藤、お前もそう言っていたじゃないか」
「うっ……。それを言われると返す言葉がないな。わかった。あいつらには俺が言っておく。今日の飲み代も、俺におごらせてくれ。相談に乗ってくれた礼だ」
――ぬぅッ、斉藤。お前もついに、他人に飲み代をおごる立場になったのか!
私も彼の鷹揚さと貫禄を見習わなくては、重役の椅子は遠いままだな。
「斉藤、お前の心意気、確かに受け取ったぞ。よしオヤジ、軟骨揚げも追加だッ!(笑)」
「――おい南条、待てコラっ!(笑)」




