小説は、縦書きに決まっとる!
私だ。校正者の南条だ。
このところ暑さが厳しくなってきたが、皆は健康を害していないか?
私は不覚にも、体調を崩してしまってな。ゴホッ。まったく、恥ずかしい限りだ。
皆の周囲にも、風邪をひいて咳をしている者がいるだろう。
もし、マスクなどの拡散対策をしていなければ、忠告してやるのも同僚の愛というものだぞ。
何? 私の風邪はどこで、誰からうつされたのか……だと?
フッ、誰にうつされたなど、神ならぬ私にわかるわけがなかろうが。
だがしかし、考えてみれば、私ともあろう者が、不覚にもやや体力を低下させていた時期があったような気がするな。
それがいつかだと? 決まっているだろう。雨が降る中、海岸で走り込みをした日の翌日だ。
雨続きで走れない日が続いたからな。どうしても走りたくて身体がうずくので、ついに我慢できなくなったのだ。フン、悪いか?
おかげで精神的に楽になったのだ。この程度の代償は問題ない。ゴホン。
――なんだと? 風邪がうつるからそれ以上近づくな、だと? ゴホゴホッ!
どこかから作者の声が聞こえたような気がしたが、フン、どうせ貴様は天の声の、高みの見物だろうが。
だが、マスクをしていても他人の前では咳をしないのが、大人のエチケットというものだな。よし、以後気をつけるようにしよう。
むっ、そう言っているところに、後輩の清水君が出社してきたな。
「ちゃーっす。おっ、南条さん、風邪ッスか? へへっ、お大事にぃー」
――前言撤回だ。この男に、私の最強ウィルスをお見舞いしたくなったぞ。
と、まあそれは軽い冗談だが、確か昨日入稿した縦書きの仕事が、こいつの担当になったのだったな。
チラシやカタログなどの商業印刷物ばかり扱っていると、縦書きはなかなか見る機会がない。そういう意味で縦書きは貴重な存在なのだ。
「おい清水、確か昨日、縦書きの校正を始めたな? 何かわからないことはないか?」
「んああ? あ、そうそう。これまた見慣れない用語が出てきちゃったんスよ。こんな古い言葉、知るかっての。南条さん、知らないッスかねぇ?」
自分が知らない古い言葉を、なぜ私が知っていると思ったのだろうか、この男は?
フッ、まあいい。今日の三時休憩は、こいつを給湯室へ拉致することで決まりだな。
「どれ、ゲラを見せてみろ。私が知っている用語だといいがな」
――ぬうッ! こ、これはッ……?
どうやら原稿は、私小説のようだ。定年を迎えた高齢者が、自分史を出版するらしいな。
著者はパソコンを所持しているな。殊勝にも、テキストデータで入稿している。
しかしそれにしても……。文章の作法がかなり悪い。禁じ手ばかりではないか。
段落がないのはまだ可愛い。句読点がまったくない文、読点とカンマの混在、音引きをダーシで代用している、括弧の全角半角混在、英数字を平気で半角にすること、など……。
小説の多くは、出版されると縦書きに組まれる。しかし執筆の段階は、横書きでやっていることが多い。ゆえに縦書きの作法が守られないのだろう。
これは、出版業界にとっても由々しき問題だと言わざるを得ないな……。
投稿される文章をいちいち縦書き向けに編集し直していては、コストがかかってしまう。
――フッ、いいだろう。ここは私が、一肌脱いでやろうではないか。
「いいだろう。清水、この原稿に作業指図書は付いていたか?」
「あー、これッスね? そうそう、ここに書いてあることが、そもそも意味サッパリなんスよねぇ。アハハっ☆」
――「アハハっ☆」は、貴様がやると気色悪いぞ、清水ッ!
それはさておき。作業指図書というのは、書籍編集の世界では一般的なものだ。
カタログなどの商業印刷の世界では、なかなかお目にかかれるものではないがな。
作業指図書には、判型、文字数、体裁、注意事項などが書き込まれている。会社によっては表の形にしているところも多いが、文章になっている場合も多いだろう。
どれどれ、この原稿に添付されていた作業指図書の内容は、と……。
「仕上ガリ四六判、本文組方 縦組十三Q、リュウミンR-KL、四十五字詰×十八行、行送リ二十二H、一段組、ブラ下ゲ組、拡張新字体不可……?」
「あ、ここまでは何となく分かるッス。ぶら下げと、拡張新字体っていうのがよくわかんないスけど」
「ぶら下げは左右の行の下辺よりも、句読点をはみ出させて組むことだ。拡張新字体というのは、戦後、旧字体を俗字の新字体にしたときに、そこに入らなかった字も新字体らしくしてしまったという文字のことだ。覚えておけ」
まったく、このくらい知らんとは世話が焼ける男だ。どれどれ、その先は――。
「句読点ハ『、。』ニテ統一、記号類ヲ全角ニ、数字ハ漢数字(縦中横不可)、『?』『!』ノ後ニ全角空キ、三点リーダー、ダーシハ二個分ニ統一……」
要するに、こういったルールができていないというわけか。編集者も大変なものだ。しかし、その統一作業を印刷会社にやらせるというのは、どうかと思うぞ。
「そう、その三点リーダーとダーシというのが分からないんスよ。もしかして三点リーダーってのは、社内成績が五点満点で三点だったリーダー、とかなんとか……?」
「バカもん! 三点リーダーというのは、小さな点が三個続く『…』という記号のことだ。そしてダーシは『―』のことだ。ダッシュではないぞ。ダーシだ」
しかし言われてみれば、「…」や「―」のことをどう呼ぶかなど、若者の多くは知らんだろうな。だが、先ほど一肌脱ぐと言った以上、この解説もせねばならん。
――と思ったが、ぬうッ! し、紙幅がッ!
うむ、仕方がないな。ここから先は、次に回そうではないか。
縦書き小説の作法を学びたいと思う者は、こぞって私に教えを乞うがいい。待っているからなっ☆。
「――うわ、南条さん……。ここで『☆』はキモいッス」