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ストリートファンタジスタ  作者: 窪良太郎
2/6

日韓W杯前

 フランスW杯の閉幕後。

 日本代表監督の岡畑武史は、日本サッカー協会から続投の要請をされたものの、辞意を表して、ケジメをとって退任した。

 そこで日本サッカー協会は、後任を探さなければいけなかつた。

 そこで白羽の矢を立てたのが、以前、低迷していた名古屋ドルフィンズを、一年で上位チームに押し上げて、天皇杯も制した、フランス人のウェンゲル監督だ。

 日本サッカー協会幹部は、W杯を獲った国の監督を、日本代表監督に選びたがる。


 しかしウェンゲル監督は、イングランドのクラブである、アーセナルの監督に就いていて、世界のサッカーの先端を走っている最中だった。

 だから格が劣る日本代表監督への就任を断った。

 しかしウェンゲル監督は、そのかわりに、同じフランス人で、フランスW杯で南アフリカを指揮していた、トルシエール監督を、日本サッカー協会に紹介したのだ。


 ウェンゲル待望論者の、幹部たちは、ウェンゲル監督に紹介された、トルシエール監督を、日本代表監督として迎え入れる。


 1998年。

 トルシエール・ジャパンの誕生である。

 トルシエール監督は、髪が茶色がかっていて、肌が白い、メガネをかけた理論家の、フランス人である。




 その頃、倉木は、再びあのピッチに立つことを目標にして、戦いの場である横浜に戻っていた。

 日本はまだ、W杯の余韻に浸っている頃です。

 街で、日本代表選手を見ただけで、キャーキャー言われる。

 サッカー日本代表を見ると、ドキドキ、ワクワクして、夢を見ているようである。

 これが俗に言う、W杯症候群だ。


 しかしそれが、あまりJリーグには波及しなかった。

“代表と、Jリーグは違う!” 

 目立つ空席・バラバラな応援・緊張感がない空気。


 倉木は、理想と現実のギャップの中で、闘っている。

 倉木はこう解釈した。

倉木「にわかファンが、勝手に入ってきて、にわかファンが出て行っただけの話。本当のファンだけが残って、にわかファンが去っていくだけのこと。俺は、本物のサポーターだけのために、試合がしたい!」


 横浜ウイングスの倉木飛馬ができることは、サッカー選手として一生懸命にプレーをして、気持ちを伝えること。選手としてできることは、ただそれだけです。




 W杯期間に中断してから、再開したJリーグ。

 W杯症候群に浮かれたサポーターたちが、未来の日本代表候補を見ようと、ミーハー気分の人たちと共に、大挙して押しかけている。

 試合は、横浜ウイングス対、柏ヘリオス。

 ウイングスの監督であるガッツァ監督は、ブラジル代表の準優勝に貢献したザンパイオと、日本代表帰りの、倉木と、山田と、楢浦に喝を入れた。


ガッツァ「わしも命懸けで監督をしている。お前らもこの試合を全力で戦え!」


 柏ヘリオスの要注意人物は、ディフェンダーながら韓国人の、ボン・ミョンボ。

 アジア最高のリベロと呼ばれ、フランスW杯も韓国代表のキャプテンとしてプレーした、アジアのスターディフェンダーである。

 彼の攻撃参加が、要注意だ。


 倉木はこの試合も、3トップの一員でプレーした。

 倉木の動き自体は、良かった。

 しかし柏に2点を奪われて、0対2で完敗する。


 試合後、柏のボン・ミョンボが倉木のもとにやってきて、言いました。

ボン「4年後も、この試合みたいに、僕らの方が勝つよ!」

 このとき倉木は、日本人としてのナショナリズムを掻き立てられて、ライバル心が高まったのでした。



 そんな時である。

 ウイングスのスタッフが、深刻な顔をして、駆けつけて伝えました。

スタッフ「飛馬! 大変なことになった。ウイングスの親会社が、撤退することになった。ウイングスがなくなるかもしれない!?」

 このニュースに、倉木も衝撃を受けた。


 Jリーグが創世期の、1993年。

 Jリーグが開幕してすぐには、スタジアムにお客さんが足を運んでくれて盛り上がった。 しかしその頃に比べて、今は人気に陰りがある。

 これがJリーグバブルだ。


 次第に、各クラブの経営が悪化する。

 スポンサーが、赤字化するJのクラブに魅力がなくなってきた時期でした。

 日本の企業が、代表には金を出せるが、Jリーグのクラブに広告を出しても、宣伝効果が得られないと判断して、企業がJリーグのクラブから撤退していく。


 ウイングスの二つの親会社の一つだった企業が撤退したことで、もうひとつの親会社だった企業は、単独でのクラブ保有に難色を示し、自社だけでクラブを存続させるのは困難と判断し、同じ都市にある、横浜ヴァイキングの親会社に相談を持ちかける。

 そのヴァイキングの親会社も、経営難に陥っていた時期でした。

 そして横浜ヴァイキングも、ウイングスよりも赤字が進んでいた。


 同じ横浜のJのクラブが、いきなり2チームも消滅してしまったら問題だ。

 そこでウイングスの一つの親会社が撤退したということで、残ったウイングスの親会社は、ヴァイキングの親会社と手を組んで、横浜ウイングスを、吸収合併させることを、決定事項として決めた。

 これによりウイングスは、合併して、消滅することが明らかになった。


 それは連日テレビのニュースで取り上げられて、人気がある日本代表はサポートできても、人気が低いJリーグのクラブはサポートできないという企業風土などが、日本の社会でも問題視された出来事でした。



 今でもそのウイングスの親会社は、スポンサーとして、横浜ヴァイキングをサポートしている。

 しかし親会社の都合で、チームが消滅しないために、クラブ名に親会社の名前を入れなくしたのにもかかわらずだ。



 そんな一大事の状況の中で、ウイングスの倉木には、ある別の要請が届けられていた。 この要請を、倉木は受諾していた。

 これに対して、日本サッカー協会からも、問題視する機運が高まっていた。


 これは例外だぞ!

 ルール上は、問題ない!

 出場を認めざるを得ない!


 この要請を知った先輩の三浜淳宏や、長井秀樹は、感情的になって異論を唱えていた。見国の先輩「俺たちのウイングスがこんな大変な時に、お前は、何を考えているのだ!? 俺たちにはまだ天皇杯が残されているのだぞ。お前もプロなら、ウイングスの目の前の試合だけに、全力を尽くせ!」


 倉木に届いた要請とは、見国高校の牧島将まきしま・まさる監督からの、冬の全国高校サッカー選手権への出場依頼だった。

 新監督の、牧島将監督から、要請が届いていたのだ。

 倉木も、その大会に出場する意欲を示している。


 ちょうどそこに、長崎から倉木の彼女の風間あかねと、倉木の母親が、首都圏で開催される冬の全国選手権を、応援するために駆けつけてきた。


 そしてあかねが、倉木に聞きます。

風間「やっぱり都会は違うね…。でも倉木君、全国高校サッカー選手権に出場するって言うけれど、学校は辞めていなかったの?」

飛馬の母「飛馬のためを思って、まだ学校には、退学届けは出してなかったのよ!」



 スケジュール上、天皇杯で優勝するには、年末から元日までかかる。

 しかし冬の選手権は、30日や、大晦日の31日に行われる一回戦を勝ち上がれば、二回戦は1月2日から始まる。


 だから倉木は、元日に行われる天皇杯の決勝を戦っても、見国高校が一回戦を突破したら、二回戦から参加することができる。


 倉木は、今年いっぱいは、ウイングスの一員として全力を尽くすことを誓って、見国高校は自分なしで、一回戦を突破することを祈った。





 1998年のJリーグが終わった。

 横浜ウイングスのセカンドステージの成績は、7位だった。

 ウィングスに残された試合は、天皇杯だけになった。


 ウイングスのサポーターたちも、消滅することを、嘘であってほしいと思いながら、腹の底から、ウイングスを応援している。

 ウイングスは天皇杯の準々決勝の相手は、大野伸二率いる、浦和ブラッド・ダイアモンズだった。

 しかし波に乗ったウイングスは、長井の決勝ゴールで浦和を葬り去る。


 ウイングスの準決勝の相手は、Jリーグチャンピオンシップを制して、Jリーグチャンピオンになった、鹿島ユニコンズだった。

 倉木と、同じ代表のユニフォームを着た春田や、反馬や、奈良橋らが在籍しているクラブだ。

 しかしこれも、勢いに乗ったウイングスは、山田素弘の執念のゴールで撃破する。


 横浜ウイングスは、この快進撃で、19998年度の天皇杯の決勝に勝ち進むことになった。


 そして倉木には、もう一つの吉報が届けられた。

 全国高校サッカー選手権の一回戦が、大晦日に行われて、見国高校が、東京A代表の帝国ていこく)高校に勝利した。

 見国高校は、1月2日に行われる二回戦に進出する。

 これによって倉木は、元日の国立競技場で行われる天皇杯決勝に、全力をかけることができる。



 1999年。1月1日、元日。

 国立競技場で、天皇杯の決勝が行われる。

 横浜ウイングスの対戦相手は、来シーズンの合併先で、同じ都市のライバルの、横浜ヴァイキングでした。

 両チームのサポーターも、一触即発の雰囲気を醸し出している。

 天皇杯決勝の国立競技場は、横浜ダービーの舞台になっていた。


 ウイングスの親会社ふざけんな!

 チェアマンも一緒に、もう一度考え直せ!

 俺たちのウイングスは終わらない!


 試合前に、同じ日本代表として、世界と戦った仲間たちが、天皇杯の決勝まで勝ち進んだことを讃え合う。

 その輪の中に、代表を辞退した横浜ヴァイキングの、真崎秀斗がいた。

 なぜか真崎は、倉木の顔を見て、試合前なのに、何か言いたげな、浮かない表情をしています。


 横浜ウイングスの選手たちが、円陣を組んで集っている。


 キャプテンの山田が、熱く語った。

山田「俺たちウィングスにできることはただ一つ! 試合に勝って、優勝することだ。そうしたらもしかしたらこのチームも、消滅しないかもしれない。だから死ぬ気で行くぞぉー!! オオォォォォオオ!!」


 サポーターが、終わっていないのにもかかわらずに、涙を流している。

 そう、ウイングスの翼は折れてなくて、まだ羽ばたこうと、必死にもがいて、まだ終わっていませんでした。


 ウィングスのメンバーは、今まで働いてくれたスタッフや、クラブ関係者、そしてサポーターのために戦った。

 みんなは一丸になって、ただ勝利のために走った。


 試合終了のホイッスルが鳴った時は、みんなで吠えた。

 見事横浜ウイングスは、天皇杯優勝を成し遂げたのである。


 そして真崎が、倉木に語った。

真崎「よくここまで頑張ったな。なぁ、飛馬。また俺と一緒に、サッカーやらないか?」


 ピーーー! ピーー! ピーー!


 試合終了。ウィングス優勝!

 割れる歓喜。

 その中に、白い翼のユニフォームを着た選手たちが、その翼で、頂点まで羽ばたいた軌跡が映し出されていました。





 倉木は天皇杯決勝直後、そのまま見国高校の合宿所に移動しました。

 見国高校サッカー部の、監督の、牧島将は、倉木を出迎えてくれました。

牧島「よく来てくれた!」

 この非常に穏やかで、冷静な人が、見国高校新監督の牧島将監督である。


 早速牧島は、倉木を入れて、次の試合に向けてのミーティングを行います。

牧島「二回戦の相手が、兵庫県代表の、滝山第二高校たきやまだいに)だ。そこに勝てばおそらく、青森県代表の、青森山畑高校あおもりやまはた)がくるだろう。ほかに上がってくる高校は、静岡県代表の、清水市中央商業しみずしちゅうおうしょうぎょう)や、福岡県代表の、西福岡にしふくおか)だ……。しかし今大会も、千葉県代表の、市立船柱いちりつふなばしら)がくるだろうな。しかし君たちは恐ることはない。長崎県代表の誇りをかけて、自分たちを信じ、見国サッカーを貫こうや!」



 前見国高校サッカー部監督の、大嶺忠敏監督のサッカーは、批判の的だった。

 ボールを短く確実に繋がず、後方から不確実なロングボールを前線に送る。

 しかし前線の背が高い選手に向けて送ることで、不確実なボールが、確実なボールに変わる。

 否定派たちは、『そういうサッカーは、高校年代では通用するが、プロになれば通用しない!』と、その不確実性を問題にしていた。


 それに担当するエリアに入ってきた相手にマークをする、ゾーンディフェンスを採用せずに、岡田監督も日本代表で使った、最初からマークをする相手を決めておく、時代遅れと言われる、マンツーマンディフェンスを採用していた。


 だから見国出身のディフェンダーが、プロに入って、ボールを奪ったら確実につなごうとはせずに、すぐにリスクを恐れて、前線にロングクリアボールを蹴ってしまっていた。

 そして、マンツーマンで、徹底的に決められた選手をマークするのは得意なのだが、Jクラブのプロが採用している、ゾーンディフェンスに対応することができないという面があった。


 それに見国高校は、勝利至上主義のサッカーという、勝負に徹するサッカーをするということで、選手たちが現実的になってしまい、可能性を感じさせてくれるような、型にはまらないような、自由な独創性が、子供たちから失われるという批判があった。



 これらの理由で、見国の選手は大成しないとか、時代遅れのサッカーとか、軍隊のような育て方では栄光を手にすることはない、などと、サッカー評論家や、ほかのサッカーの指導者から言われていた。



 そこで牧島は、見国の選手たちにこう教えることにした。

牧島「短く確実にボールを繋いでいけば、勝利する確率が一番高い。しかし確実なポゼッションサッカーだけがサッカーではない。それに4バック絶対や、ゾーンディフェンス絶対だという人もいるが、サッカーには絶対はない! 4バックは、サイドチェンジされると、逆サイドに大きな穴が生まれるし、ゾーンディフェンスは、1人のゾーンに複数の相手が侵入してくると、とたんに数的同数か、数的不利の状況に陥ってしまう。それならば私が、この見国高校で、優勝することで、絶対ではないということを証明したい。勝利至上主義では、型にはまらないスケールがデカい選手が育たないとか、可能性を感じないというが、何事にも勝負強い選手を育てられると思うし、サッカーは勝負事だから、最終目的の勝利をするということを、何事のプロでも目指さなければいけない。負けても良い、負けなんてない。サッカーは、勝たなければ意味がない。サッカーの世界は、勝ち続けなければ、生き残れないのだ! 強くなりたいなら、向上したいなら、勝ちグセをつけなければいけない。我々が勝ったら、時計の針を巻き戻す結果だとか、我々を倒したら、時計の針を進める結果だとか、言う人もいるが、それならば我々が、時代を進めるような内容で、進化させようじゃないか! さぁ思う存分、緑のキャンパスで暴れてきなさい。」


 牧島将は、大嶺忠敏の、古くても良いところは残して、時代に合わないところは、新しく作り直した。

 これで牧島は、見国に新しい時代を創った。



 見国高校の、二回戦の相手は、滝山第二高校だ。

 試合会場に現れた、見国イレブン。

 全国の本命の登場に、試合会場のサッカーファンも沸く。

 しかし全員坊主の見国のメンバーの中に、ただ一人だけロン毛の選手がいる。

 それが見国の新しい風、倉木飛馬だ。


 見国高校対、滝山第二高校の試合が始まった。

 試合は、見国が後方からでも確実につないで、自分たちでゲームを作る、優勢な展開で進む。


ピーーー! ピーー! ピーー! 試合終了。

 いきなり倉木の2ゴールで、2対0で、見国高校が勝利!


 見国高校は、三回戦に進出。

 見国の三回戦の相手は、東北の青森山畑高校だ。

 見国高校対、青森山畑高校の試合が始まった。

 試合は見国が、激しいプレッシングで、相手にチャンスを与えずに無失点。

 攻撃陣が奮起して、4得点する。


ピーーー! ピーー! ピーー!

 見国が快勝して、準々決勝に進出!


 準々決勝の相手は、サッカー王国の、静岡の、清水市中央商業高校だった。

 見国高校対、清水市中央商業高校の試合が始まった。

 試合はさすがにサッカー王国代表ということもあり、全員が技術が高かった。

 先制点は、清水市中央商業。

 見国は、今大会で初失点。しかも先制される展開。

 しかし見国は、すぐさま倉木の得点で追いつく。

 そして試合終了間際に、お互いの声援が飛び交う中で、オウンゴールが生まれる。

 見国が、2対1で勝利する。

 オウンゴールをしたのは、清水市中央商業だった。

 最後は見国の選手たちの、勝ちたいという執念がゴールに押し込んだ。


ピーーー! ピーー! ピーー!

 見国高校が、準決勝に進出!


 見国は、ベスト4に到達。

 つまり準決勝から会場になる、国立競技場にたどり着いた。

 見国の準決勝の対戦相手は、同じ九州の、福岡県代表の、西福岡高校だった。

 勝った方が決勝に進む。どちらの九州勢が、決勝戦に送り込まれるのか?

 国立競技場に集まった、サッカー小僧達が、緑のピッチの上に馳せた。


ピーーー! ピーー! ピーー!

 試合終了。

 見国が1対0で、苦しみながら辛勝する。

 ここまできたら、チームの動き(戦術)が一体になって、貫いているところが勝つ。

 倉木が前半であげた1得点を、よく耐えて、守り抜いた。

 見国高校が、決勝戦に進出!



 そして見国の決勝戦の相手は、宿命の相手。

 千葉県代表の、やはり守備が強い時の、市立船柱高校だった。

 それが今大会の、見国の決勝の相手でした。



 冬の選手権の、決勝の地の、国立競技場は超満員に腫れ上がっていた。

 高校サッカー界の、名門伝統校の対戦に、サッカーファンが国立を超満員にした。

 しかし大半の客は、首都に近い、首都圏の千葉代表の、市立船柱の応援でした。


 見国高校は、完全なアウェイ。

 そんな中にも、見国の勝利を信じる、倉木の彼女の風間あかねらも応援にきている。

 見国の応援団は、このアウェイの空気に飲み込まれまいと、自分たちも応援で負けないような、気合が入った声を出していました。


見国応援団「関東勢はいつもホームで戦いやがって! よし、俺らにできることは、勝たせるために声を出して、チームをサポートすることだ! 黄色と青のストライプ! 我らが西の雄見国!」


 この後、決勝戦を、成人の日に延期させる日程にしてから、国立競技場で開催される選手権は、関東勢対、その他の地域の決勝のカードになると、その他の地域勢は地元に帰るとか、ホテル暮らしが長引くとかが影響して、国立をホーム化する関東勢が、地の利を生かして、百パーセント勝つのであった。

 しかしそんな地方の声も、首都圏の市立船柱への大声援にかき消されるようでした。


 見国高校対、市立船柱高校の、運命の決勝戦が始まった。

 決勝戦は、開始直後から、両雄の意地がぶつかりあった。

 見国は、3‐5‐2というシステムで、中盤を支配するために、得意なプレッシングサッカーで、激しくボールを追いかけた。


 市立船柱は、4‐4‐2というシステムで、守備を固めて、カウンターを狙う、安定した効率的な、リアクションサッカーで臨んだ。


 この試合は、市立船柱よりも一人多い中盤の人数を活かして、見国のフィジカルを活かしたプレッシングサッカーが中盤を制した。

 しかし肝心なゴール前は、市立船柱は自由にさせずに、固く押さえていた。

 試合はその展開で、前半が過ぎ、もう試合終了の時間が迫っていた。


ピーーーーー!

 試合は白熱したまま、90分が過ぎる。

 このまま0対0で、前後半15分ずつの、延長戦に入った。

 しかし延長戦が始まっても、得点スコアは動かなかった。

 試合はPK戦で決着をつけることになった。


牧島「いいか、PKは技術が必要だ。しかしもっと大事なものはメンタル、気持ちだ。いつものように、ボールをゴールに入れる。それを当たり前に、臆することなく、確実に行うんだ! 自分を信じろ。君たちはどの高校よりも、一番にサッカーに打ち込んできた。練習してきた時間は、絶対にウソをつかない。サッカーの神様は見ていてくれる、さぁ、PK戦の始まりだ!」


 PK戦は、見国が先攻。

 見国は、一人目のキッカーから、四人目のキッカーまで全員成功。

 そして市立船柱の、四人目のキッカーがPKを失敗した。

 さぁ、見国の五人目のキッカーが成功したら、見国が選手権優勝です。

 見国の五人目のキッカーは、倉木でした。


 当たり前のことを、当たり前にする。それが技術。サッカーは努力を裏切ったりはしない。

 最後は、倉木だー! 決めたー!!


ピーーー! ピーー! ピーー!

 1998年度の、全国高校サッカー選手権は、見国高校が優勝した!

 得点王には、倉木が輝いた!

 1998年のJリーグチャンピオンは、鹿島ユニコンズでした。

 そして天皇杯は、横浜ウイングスが優勝。

 しかし横浜ウイングスは、正式に横浜ヴァイキングと合併して、消滅することが決まった。


 ウイングスの三浜淳宏と、長井秀樹と、鳩康弘は、合併先の、ヴァイキングに移籍することになった。


 ウイングスのキャプテンの山田素弘と、楢浦正剛は、名古屋ドルフィンズに移籍することになった。

 楢浦は、横浜ヴァイキングに、日本代表の正ゴールキーパーを争っている河口がいるので、ヴァイキングには行かなかった。


 外国人のザンパイオは、ブラジルに帰った。


 そして後に、日本を代表する逸材と言われた近藤保仁と、足島和希は、京都ミサンガに行くことになった。


 そしてウイングスを吸収したヴァイキングは、クラブの名前を、横浜ユナイテッド(連合)に改称した。



 しかし消滅することになったウイングスのサポーターたちは、サポーター同士で集まって、一致団結して、生まれ変わった自分たちの横浜のクラブを創設することにした。

 そのクラブは、自分たちが会費を払って、そのお金でクラブを運営していくという、ソシオ式のクラブだ。

 サポーターが、親会社に頼らない、新しい球団を誕生させたのだ。


 その名が、横浜フェニックス。

 ウイングスは、不死鳥のように蘇って、新たに産声を上げた。



 同じ年に、ヴァレスト川崎のキング知こと、三浜知良は、クロアチアにあるクラブの、ザグレブに移籍した。

 ヴォレストを生んだ親会社も、なんとヴォレストから撤退したことで、経営陣は高額年俸のスター選手たちを放出せざるを得なかった。

 その方針は、三浜知良も例外ではなく、ヴォレストは契約を結ばなかった。

 そこでキング知は、誘いがあったクロアチアのザグレブを選んだのだ。

 そして後園真聖は、ブラジルで武者修行中です。


 その頃イタリアでは、


司会「えー、我々イタリアのセリエAのクラブである、フィオレンティーナの新しい監督を紹介します。新しくフィオレンティーナの監督に就任いたしましたのが、イタリア人の、ガッツァ監督です!」


 サッカーの本場イタリアのみならず、世界中の報道陣が、注目の人事を取材に、ホテルの会場に集まった。

 フラッシュが眩いように焚かれて、その注目度が、熱を帯びている。


ガッツァ「えー、久しぶりに、わが故郷に帰ってこれたことを、嬉しく思います。わしはこのフィオレンティーナでも、全力を尽くして、試合に勝たせていきたいと思います。そのために、日本から彼を誘って、連れてきました。」


 その連れてきた彼とは、倉木のことでした。

 なんと倉木は、イタリアにいた。

倉木「倉木飛馬と申します。イタリアのクラブに入れて光栄です。」


 フィオレンティーナは、イタリアのフィレンツェにあるクラブで、イタリアの強豪である、ビッグ7のうちの一つだ。

 愛称は、チームカラーのヴィオラ(紫)です。



 横浜ウイングスから、フィオレンティーナに移籍した倉木は、ヨーロッパシーズンの途中である冬からの加入だった。

 それでまだチームにはフィットしていないというガッツァ監督の判断で、ベンチで過ごす日々が長いサブ扱いです。

 先進国のサッカーの本場のイタリアでは、選手や監督などは、厳しい目で見られる。

 良いプレーには大喝采。しかし一度悪いプレーを犯すと、大ブーイング。

 そんな熾烈な環境の中で、倉木は戦っている。


 フィオレンティーナには、FWに、あの日本戦でゴールを決めた、アルゼンチン人のパティストゥータがいる。

 そしてブラジル代表の、エジムント。

 そしてトップ下には、イタリア屈指のファンタジスタである、ポルトガル代表の、ルイ・ゴスタがいて、倉木には出番がなかった。


 その頃、同じイタリアのセリエAでは、ペルージャに移籍した中畑英寿が、一年目で1トップ下のポジションを獲得していた。

 そしてセリエAのデビュー戦で、あのユベントス相手に、いきなり2ゴールをマークするなど活躍して、ペルージャを躍進させていた。



 そんな状況に、倉木は焦っていた。

 そしてガッツァ監督に直談判した。

倉木「まだ今の俺には、パティストゥータや、エジムントや、ルイ・ゴスタには敵わないのかもしれないけれど、俺を攻撃的なポジションで起用したら、遜色ない働きはできるよ!」

 しかし、ガッツァ監督、

ガッツァ「まだお前には、トップ下でも、セリアAの当たりに、負けないような強い体は出来ていない!」

 倉木は、ガッツァ監督に叱咤せれる。



倉木「なんだよ! 俺は日本を代表するような選手じゃないのかよ。トップ下なんて、フィジカルがあるから、ボールをキープすることができるのではなくて、猛プレスを掻い潜れるテクニックがある選手が、トップ下でボールをキープすることができるのに! 強烈なプレッシャーが掛かるトップ下は、人より多少、フィジカルがあるからって、もともとキープできないようなプレスがかかってんだよ。大嶺監督の時もそうだ、俺よりサッカーが下手な人間が指揮をする!」




 ちょうどそんな状況の中で、またあの方から、出場依頼が届きました。

 それは牧島将監督からです。

 今度は、ワールドユースと呼ばれる、U‐20の世界選手権です。

 20歳以下の選手で行われる、国代表のW杯です。


 牧島監督は、見国高校での指導が評価されて、このユース世代の日本代表監督に大抜擢されていたのです。

 ちょうど倉木は、フィオレンティーナで試合に出場させてもらえなかったので、ワールドユースに参加することにしました。

 倉木はフィレンツェから、空路で、ワールドユースの開催地である、ナイジェリアに旅立った。



 日本が世界の舞台で飛躍を遂げる、代表の中心メンバー。

 この大会には、日本のゴールデンジェネレーション(黄金世代)が集まった。

 その世代は、キャプテンの小野伸二筆頭する1979年度生まれ組です。


 同世代の大野がW杯で活躍したことで、「俺たちもできるぞ!」といった夢を見ることができたから、この世代の選手が急激に実力が伸びたのです。



 牧島監督は感じています。

牧島「今年はやれる! この新時代のメンバーのプレーを見ていると、なにか成し遂げられる気がする。」

 その黄金メンバーがこれだ。


      曽ヶ根

加持  足島  中畑浩 古井場

    稲元  近藤保

大笠原          大野

    高丘  本川


 GKの、曽ヶ根準そがね・ひとし)は、守護神として安定している鹿島の選手だ。


 右サイドバックの、加持亮かじ・あきら)は、この時点でザクラ大阪に所属している、不動の右サイドバックである。


 センターバックの、足島和希あしじま・かずき)は、テクニックがあって、スピードがあるタイプのDFで、飛馬と、横浜ウイングスの時の、同期です。


 センターバックの、中畑浩二なかはた・こうじ)は、帝国高校から鹿島に入団した選手で、日本代表監督の、トルシエール監督の秘蔵子です。


 左サイドバックの、古井場徹ふるいば・とおる)は、ヴァモス大阪の選手で、身長があってスピードがある、攻撃的なサイドバックだ。


 ボランチの、稲元潤一いなもと・じゅんいち)も、若手の育成に定評があるヴァモス大阪の出身で、パワフルな攻撃参加が持ち味の選手だ。


 ボランチの近藤保仁こんどう・やすひと)は、横浜ウイングスから、京都に移籍した、倉木の元同僚である。運動量は少なく、がむしゃら心が足らないが、ナイーブながら、ゲームを読む戦術眼に優れた選手だ。


 2列目の大笠原満男おおがさわら・みつお)は、鹿島の選手で、ボランチもこなせる、総合的に高い能力を持った攻撃的な選手です。


 そしてこの世代のキャプテンで、日本代表としてフランスW杯にも出場した大野伸二おおの・しんじ)は、浦和の選手で、他の選手よりも頭一つ抜けた、技術を持った選手です。


 FWの、高丘直泰たかおか・なおひろ)は、日本が待ち望んだ、未来のエース候補で、ヴィバ磐田の選手だ。


 FWの、本川雅志もとかわ・まさし)は、西福岡高校から、鹿島に入団した選手で、ドリブルが得意で、流れを変えることができる選手だ。



 監督の牧島は、このチームは、全て学年で昭和54年度生まれの選手のみで固めた。

 そのメンバーの中に、学年は55年度生まれの倉木も参加させてもらっていた。



 1999年のワールドユースは、ナイジェリアで始まった。

 ナイジェリアにとっては、数少ない娯楽であるサッカーに、国民の熱い視線が注がれる。

 ワールドユースは、4カ国が振り分けられたグループステージから始まる。


 日本は初戦で、アフリカのカメルーンと戦った。

 日本は初戦でつまづき、1対2で負ける。

 しかし2戦目からは本領を発揮して、苦手な相手の北米のアメリカに3対1で勝利する。 そしてヨーロッパのサッカーの母国のイングランドに、2対0で勝って、2連勝でグループステージを突破する。

 決勝トーナメントからは、ノックアウト方式のトーナメント戦になる。


 日本の決勝トーナメント1回戦の相手は、ポルトガルだった。

 そこから日本は勢いに乗り、快進撃が始まった。

 

 日本は、ポルトガル相手にでも互角の試合を演じ、1対1のスコアのまま、決着はPK戦で決めることになった。 日本がPK戦を制す!

 日本が準々決勝に進出する。

 

 日本の準々決勝の相手が、中米のメキシコ。

 日本人と体型が似ていて、筋肉の質も近いメキシコは、日本サッカーが目標にしてきた国だ。

 この年代の日本は、そのメキシコ越えを果たして、2対0で勝利する。

 日本が準決勝に進出する。


 日本の準決勝の相手が、南米のウルグアイ。

 この試合も日本は、波の乗った若い勢いで、ウルグアイを撃破!

 2対1で、日本が勝利する。

 この日本の黄金メンバーは、準決勝の壁を乗り越えた。 



 なんと日本が、FIFA(国際サッカー連盟)が主催する、大会の決勝に、初めて進出したのである。


“日本が、20歳以下のW杯であるU‐20ワールドユースの決勝に進出!!”


 これは世界に驚きをもって伝えられた。


 しかし日本は、準決勝でキャプテンの大野が、警告をもらって、累積警告で決勝には出場することができなかった。

 そのかわりに、大野のポジションに、倉木が入ることになった。



 若き日本代表は、快挙を達成して、少し興奮気味ではある。

 しかし牧島監督は、選手たちに落ち着かせるようにして語った。

牧島「いいか。君たちには才能も、センスもある。しかし相手を敬う気持ちを持たなければ、献身的なプレーはできないぞ! それがのちのち、プレーという動きとして反映される。勝っても、負けても、そのことを忘れるな!」



 1999年の4月。

 ワールドユースの決勝戦。

 日本対、スペイン。


 日本は大黒柱の大野がいなかったことで、戦術を変更せざるを得なかった。

 今まで勝ってきた通りの、良いプレーできない日本。

 点を取るパターンに持っていけない、歯がゆい展開が続く。

 それを王者のスペインがあざ笑う。


ピーーー! ピーー! ピーー!

 試合終了。


 スペインが決勝戦で、日本を圧倒する。

 0対4で、スペインが圧勝して、ワールドユースで優勝する。

 日本は敗退したが、よくやった! 準優勝に輝いた。

 若き日本の選手たちは、この悔しさを、3年後の日韓W杯にぶつけてくれ!


 倉木は、喜び半分。悔しさ半分の気持ちで、戦いの場であるイタリアに舞い戻った。

 倉木はまだ、一ヶ月間残っているイタリアセリエAのシーズンを、フィオレンティーナで戦っていた。

 相変わらず、フィオレンティーナのベンチに座っている倉木。


 ちょうどそこに、日本から風間あかねが、倉木に逢いに、フィレンツェにやってきた。風間「よっ、久しぶり。でも、フィレンツェって、すてきな街ね。」


 美しい色合いの建物、おいしい料理、スラっとした陽気な人々。

 二人はフィレンツェの街を歩きながら、話します。


風間「倉木君、最近全然試合に出させてもらえないから、テレビに映らなくて、今頃どうしているのかな? と思って心配になって、逢いに来ちゃった。」

 しかしあかねは、倉木の顔を確認して、安心します。

風間「倉木君が試合に出てないから、日本のマスコミも、暇でしょうがないだろうね。私ね、倉木君が載っている新聞の記事を、全部切り取って集めているのだよ。」


 二人は、フィレンツェの街を気晴らしに散歩しながら、あかねは倉木を慰めるようにして言います。

風間「倉木君には、倉木君にしかないものを持っている。その武器を錆びさせることなく、周りの人にも感謝して、千載一遇のチャンスがくるのを、待機していたら、監督も使ってくれるかもよ。」


 倉木は、その言葉に反応しました。

倉木「俺にしか、持っていないもの……、感謝……、」

風間「そう、倉木くんにしか持てないもの。それさえ忘れなきゃ良いんじゃない。」


 あかねは、最後にこう告しました。

風間「私ね、倉木君のことが心配で逢いに来ちゃったんだけど、その顔を見て安心したぞ、忘れたならば、イタリアで掴み取れ! 君はまだやれる。」


 あかねとの、束の間の休息は、イタリアで男一人で戦う生活に息吹が吹いた。

 そしてフィオレンティーナのベンチで過ごす現状を、打開するような風となってそっと吹いた。





 倉木は、ふてくされることなく、言われた通りに、当たりに負けない強い体を作るために、筋トレをしています。


 その献身さをチェックしたガッツァ監督は、教えます。

ガッツァ「飛馬、筋肉をつけすぎたら、当たりには強くなるかもしれないが、キレと、柔らかさが消えてしまうぞ。しかしそういう努力をしていれば、ピッチの上での、献身的なプレーに影響して、表れるがな。」

 ガッツァ監督も、牧島監督と同じようなことを言います。


倉木(なんだよ? 自分が当たりに負けないフィジカルを作れみたいなことを言ってたじゃん。)


 しかし倉木は、ここぞとばかりに、監督に対してアピールします。

倉木「監督、確かにイタリアは、日本と比べてゴール前は厳しい。でも意外と中盤は正確性とか、持続力とかが低い。だから俺を中盤で使ってくれたら、今ならセリエAで通用すると思うんです。」


 しかしガッツァ監督は、

ガッツァ「お前なんか使わん!」



 そのガッツァ監督は、自分が指揮するフィオレンティーナの成績不振を理由に、連日イタリアのメディアから騒がれていた。

 ガッツァ監督は、マスコミが生み出す解任騒動の渦中にいたのです。


 そんな中、98‐99シーズンのフィオレンティーナの終盤戦。


 ガッツァ監督は、リードされている試合の途中で、パティストゥータと、エジムントと、ルイコスがいる前線に、倉木を初めてセリエAの舞台に送り込んだ。

 それを待っていたかのように、フィオレンティーナのホームスタジアムのサポーターが湧きます。

「ウオォォォッ、クッ・ラ・キ! クッ・ラ・キ!」

 倉木飛馬は若干18歳で、フィオレンティーナの観客の前でセリエAデビュー!


 しかし試合は、そのまま負けたままで終了する。


 試合後に、途中出場で良い働きをした、新人の日本人の倉木に対しての質問が、イタリアのマスコミから飛んだ。

ガッツァ「飛馬は本物の選手だ。このまま成長すれば、フィオレンティーナを代表するような選手になるだろう!」


 試合後の会見が終わってから、ガッツァ監督は倉木を祝福しにやってきて、託しました。ガッツァ「わしは、お前に変化が起こる時を待っておった。お前はまだ線が細くて、イタリアでは当たりに負ける。しかし自分を犠牲にしてでも、チームのために働ける気持ちが芽生える時を待っておった。その気持ちを持ち併せて、自分を表現してきた時に、使おうと思っていた。『お前なんか使わん!』と言ったのは、まだお前の向上心を伸ばそうとしたからじゃ。」


 倉木は黙って聞いている。


ガッツァ「いいか飛馬、現代のFWにはな、野望と、謙虚さという相反する気持ちが必要だ。エゴイスティックにゴールを狙い続ける意識と、時には状況判断して、良いパスを出して、自分よりも、良い状況の味方を使う力だ。イタリアで成功したいなら、そのことを覚えとけ!」


 ガッツァ監督は告白します。

ガッツァ「わしは以前お前に、『日本を代表する選手になるだろう』と言ったのは、選手のやる気を起こすために、どの選手にも発破をかけて、言ってやっていたことだったんだ。」


 最後にガッツァ監督は、2メートル近い巨漢を揺らして、その長身ながら、そばにあったボールを上手にリフティングして、倉木に小技を見せたのです。

 ガッツァ監督は、サッカーが上手かった。



 その後、ガッツァ監督は、成績不振を理由に、フィオレンティーナの監督を解任されることになった。



 98‐99シーズンのイタリア・セリエAで、フィオレンティーナは7位だった。

 18チーム中、7位でも、失敗と見なされるのが、イタリアのビッグ7の1角である、名門強豪クラブのフィオレンティーナの宿命だ。




 そして中畑のペルージャは、なんとか14位で、セリエBへの降格は免れた。

 セリエAでは、全18チームの中で、下から4クラブがBに降格する。

 ペルージャは、トップ下で使われている中畑の力もあって、ギリギリ残留を決めた。



 98‐99シーズンのセリエAの得点王は、22点で、ウディネーゼのブラジル人のアモローゼ。



 優勝は、イタリア人の、イタリアサッカーの伝道師こと、アルベルト・ザックローニ監督が率いるACミランだった。

 ザックローニは、二年連続で欧州の舞台に出ていなかったチームを指揮した一年目で、ミランを攻撃的なサッカーで優勝に導いた。

 イタリアリーグ戦最強監督の、ファビオ・カッペロ監督から引き継いだザックローニが、スクデットを手にする!

 これで98‐99シーズンの、イタリアの熱いシーーズンが終わる。



 ヨーロッパのクラブの中で一番強いクラブを決める、欧州チャンピオンズリーグでは、イングランドのマンチェスターユナイテッド)が、ロスタイムでの、貴公子ベッカンのコーナーキックから2ゴールを挙げて、ドイツ王者のバイエルンを破って逆転勝利する。 このシーズンの、マンチェスターUは、国内リーグと、国内カップ戦のFAカップと、欧州チャンピオンズリーグで優勝して、3冠を獲得する!



 日本では、三浜知良が、移籍先のザグレブの監督に使ってもらえなかったことで、1年でJリーグの京都ミサンガに戻ってきた。



 これで世界のシーズンが、休憩することになる。

 しかし再び開幕すれば、世界のサッカーファンの熱い注目が集まることになる。

 世界最高峰リーグのイタリアには、ビッグ7と呼ばれる強豪クラブが存在している。


 ユベントス・ミラン・インテル・ローマ・ラツィオ・パルマ・フィオレンティーナである。


 中畑が所属しているペルージャは、プロビンチャと呼ばれる、中小クラブのうちの一つだ。


 そして1999年の夏に、日本代表で磐田の、名並浩が、1年目はレンタル期間で、プロビンチャの一つであるベネチアに移籍してきた。

 各クラブも、新シーズンに向けて、新戦力を獲得して動き出している。


 イタリアで最も人気があるクラブのユベントスは、イタリア人の元スタープレーヤーだった、アンジェロッティ監督が指揮を執る。

 選手では、イタリア代表のイケメン、テルピエロと、イタリア代表の点取り屋の、インサーキが2トップを組み、フランスW杯で自国を優勝させた、フランス代表のシダンらがいる。



 スクデットを取った優勝クラブのミランは、穏やかで、冷静な面持ちの、白髪が目立ち始めた、イタリア人の、ザックローニ監督が引き続き指揮をして、ウクライナ代表の、ジェフチェンコや、イタリア代表のカットゥーゾらを獲得。

 ほかの選手はイタリア代表のDFでもある、イタリアの皇帝と呼ばれるマルティーニや、リベリアの怪人と呼ばれた、ジョージ・ヴェアや、あの鹿島にいたブラジル代表の、レオナルトや、日本と戦ったクロアチア代表のポバンらがいる。



 インテルには、イタリアの名将のひとりである、リッビが指揮をして、選手では、ブラジル代表の怪物である、世界最高のストライカーの、ロナウトや、ラツィオから、イタリア代表のピエリを獲得して、2トップを組ませる。そしてイタリアの至宝と呼ばれる、ロベルト・パッジョもいるが、本来の働きをすることができずに、不遇の時を過ごしている。



 ローマは、イタリアリーグ戦最強監督のカッペロを招聘して、選手ではイタリア代表の10番を背負う男のトッチや、イタリア代表のFWのモンデッラや、ブラジル代表の右サイドバックの、ガフーらがいる。



 同じローマの都市にあるラツィオは、スウェーデン人の、ヘリクソン監督が指揮をして、選手ではアルゼンチン代表の、ペロンをパルマから獲得。

 他には、イタリア人のディフェンスリーダーである、ネズダや、チェコ代表の、ネドベットらがいる。



 パルマは、イタリア人のマレサーニ監督が掌握して、好成績を残している。

 選手は、イタリア代表のGKのブッフォムや、イタリア代表のDFの、ガンナバーロや、フランス代表の、デュラムらがいる。

 このメンバーが待ち構える守備陣は、イタリアでも最強と謳われている。



 そして倉木が在籍しているフィオレンティーナには、ガッツァ監督の後任で、イタリアを代表する名将の、イタリア人の守備的戦術家である、ドラパットーニ監督が、チームの指揮を執る。

 ドラパットーニ監督は、ユベントスを欧州クラブ王者に導いたことがある。

 気難しそうではあるが、厳しい瞳の奥は、実は優しい目をした指揮官である。

 選手では、アルゼンチン代表のパティストゥータや、ポルトガル代表の、ルイ・ゴスタらがいる。

 エジムントは、ブラジルに帰った。




 サッカー世界最高峰リーグの、99‐00年の、イタリア・セリエAが開幕する。

 しかしイタリアの、レーガ(リーグ)・カルチョ(サッカー)・セリエA(シリーズA)が開幕しても、フィオレンティーナの倉木は、監督のドラパットーニ監督に、試合で使ってもらえなかった。


 ガッツァ監督には、シーズンの終盤に使ってもらっていたが、ドラパットーニ監督には、信頼が低かった。

 それは主力に、パティストゥータや、ルイ・ゴスタがいたからだ。

 そのくらい能力が高い選手を揃えていたからこそ、イタリアが世界最高峰リーグとしての実力を持っていた。


 しかしフィオレンティーナの関係者から、こんな話が漏れていた。

チーム関係者「うちのクラブの財政状況は厳しいらしいよ。オーナーの会社も危ないらしい。このクラブが経営難にさえならなきゃ良いがな……。」



 倉木はイタリアで、もがいていた。

倉木「ここ数カ月、試合に出てない。練習をするだけの日々をおくっているから、試合勘が鈍っている。」

 そこで倉木は、フィオレンティーナの監督のドラパットーニ監督に、自分が使われない理由を聞きに行きました。


 すると、ドラパットーニ監督は、

ドラパットーニ「うちのFWには、絶対的エースのパティストゥータがいる。ほかのポジションも埋まっていて、空きがあるのは2列目くらいだ。しかし今の君には、あの猛烈なプレッシャーがかかる2列目のポジションで、ボールをキープすることができるほどの、フィジカルを持ち併せていない!」



 倉木は試合に出れないことで、次第に周りをリスペクトとする気持ちや、献身的に相手をサポートする意識が欠けてきました。

 倉木は荒れていた。

 サッカー選手という人気を使って、未成年なのに、酒や女遊びを繰り返し、その情事が日本のメディアにも取り上げられた。

 日本でも、悪くなった倉木の素行が報じられて、ニュースに流れていた。


 それを日本で見る、風間あかね。

 あかねは、複雑な表情で見守る。


 しかしあかねには、倉木に大事なことを、伝えなければいけなかった。

 胸が高鳴ることを抑えて、あらかじめ言おうとしていた言葉を、慎重に、決めておいた。

 そこであかねは、倉木に電話をかける。


風間「プルプルプルッ、ピッ……、あっ、もしもし倉木君、今日は大事な話があるの。あのね、私、デキちゃ…、」


 しかし倉木は、あかねの告白を聞く前に、ウザがります。

倉木「あーあかねか、悪い、俺忙しいんだ。」


風間「、忙しいって、私たちの大事なことを伝えるために、こうやって……、」


倉木「うるせー! 俺は日本を代表する仕事をしているの。」


 この傲慢な態度に、あかねはイラっときます。

風間「そ、そうね、有名人の倉木君には、凡人にはわからないプレッシャーがかかっているのね! でも、試合に出てないのに忙しいのね。女の子の世話をするのに、困るくらい忙しいのね。ぐすっ、」

 あかねは、完全にキレて言いました。


倉木「チェ、なんだよ! 喧嘩するために電話をかけてきたのか!?」


 しかしあかねは、電話口ですすり泣いていました。

風間「ぐすっ、私、倉木君が成功して嬉しかったんだよ。高校生の時に知り合ってから、今まで、ずっと倉木君のことを心配していたんだよ。こんな私でも、倉木君のサポートをしたいと思っていた。でも、日本代表にまでなった倉木君と、普通の一般人の私とでは、天秤で測っても釣り合わないのね。私たち終わりみたいね。別れましょ。今まで、一緒に夢を見られて楽しかったよ。会いたくなったら、連絡して頂戴。会わせるから。それじゃ。ガチャ」


 倉木は露骨に嫌な顔をしながら、受話器を睨む。

倉木「会わせる? 何、怒ってるんだ?」




 99‐00シーズンのセリエAは、ヘリクソン監督が率いるラツィオと、アンジェロッティ監督が率いるユベントスが、優勝争いを繰り広げていた。


 そしてついに、イタリア・セリエAで、初の日本人対決が見られる。

 それは、ペルージャ中畑対、ベネチア名並の対決だ。

 セリエA初の日本人対決ということもあり、日本から大勢のメディアが、スタジアムに訪れる。

 白熱した試合後、中畑と、名並は誓い合った。

「俺たちが日本を引っ張って、イタリアで良いライバルとして、お互いに選手として、成長しような!」


 イタリアのシーズンも、クリスマスから、正月休みの終わりまでの、ウインターブレイクに入る。



 明けてミレニアムの、2000年。

 日本では、冬の全国高校サッカー選手権で、千葉県代表の市立船柱高校が優勝した。



 そして、横浜ユナイテッドの錠彰二が、スペインのクラブのバジャドリーに移籍することが決まった。


 あのブラジルで武者修行していた後園真聖は、Jリーグの湘南に戻ってきた。

 ケガをしたことでも、キレがなくなっていく後園は、日本に復帰して、かつての自分の輝きを取り戻そうとしていた。



 そして、ペルージャの中畑英寿は、その活躍が認められて、イタリアのビッグ7の一つであるローマに、当時およそ18億円で移籍することが決まった。

 これは中畑が、イタリアで活躍したと認められて、評価されたから、イタリアのビッグクラブに順当にステップアップした成功例だ。


 これはイタリアリーグ戦最強監督の、カッペロ監督の熱望で実現したのだ。


 しかし当時、カッペロ監督は、大事なことを言っていた。

カッペロ「中畑は、ボランチ(3列目)で使いたい!」




 その頃日本では、1999年に代表戦で対戦国に一度も勝てなかった、代表監督のトルシエール監督が、成績不振を理由に、解任論がささやき始められていた。


 トルシエールのフラット3は、世界では通用しない!

 フラット3は、いずれ完成するのです!

 リスクが高いフラット3を止めさせろ!

 攻撃的な戦術に、リスクはつきものです!

 この監督で、2002年を臨むのか!?


 トルシエール監督の代名詞である、フラット3。

 トルシエール監督のフラット3は、役割を決めて動くサッカーだ。

 この守備の方式は、3人のDFがオフサイドのルールを用いるために、1列に並んでフラットな状態にする。

 そのフラット3が積極的に押し上がることによって、オフサイドトラップを仕掛ける。

 それに最終ラインが上がることによって、日本代表チームの全体がコンパクトになる。 その密集したエリアで、相手にプレッシャーをかける。

 そこで奪ったボールを、シンプルに前線(1列目)に送って、ゴールを狙う。


 サッカーは、ボールを奪った地点が、高ければ高いほど、得点につながる可能性が高い。 そのためにトルシエール監督は、前線の選手にも、積極的にプレッシャーをかけさせて、得点チャンスを生んでいた。


 しかしトルシエール監督のフラット3は、味方がボールを保持している時に、積極的に押し上がるのは良いが、相手がボールを保持している時も、積極的に押し上げていた。

 だから日本代表がフラット3を押し上げた時に、必然的に後ろにできるスペースを相手に狙われて、抜け出した相手選手と、味方GKと1対1という絶望的な状況を作られていた。

 だから良いパスを上げられると、失点につながっていた。


 そしてトルシエール監督は、自分が作った3‐5‐2というシステム(器)の中に、日本代表の選手たちを当てはめた。

 トルシエール監督は、基本的に2トップを敷いて、その下にトップ下をおいた。

 そのトップ下に、司令塔を任せた。


 その司令塔に任されたのが、中畑英寿だった。

 日本の攻撃は、中畑を中心にして始まる。

 トルシエール監督の攻めの戦術は、前線の選手たちの創造性に任せた。


 しかしサッカーという競技の司令塔は、ボランチ(3列目)なのだ。

 ボールを一番奪うポジションから、攻撃が開始される。

 つまり、ボランチから、最初の攻撃が始まる。

 そのポジションに、展開力がある選手を置けば置くほど、チャンスにつながる、ゲームの組立が増える。

 そこから素早いボールを出せば、カウンター攻撃につながる。

 つまり、攻撃の起点はボランチで、司令塔の役割をしているのが、ボランチだ。


 そのボランチ(最終ラインの1列前)の前(前線)に、人が多くいたら、司令塔として使いやすい。

 だからトップ下の選手でも、チームにために使われなければいけない。

 しかし日本代表でトップ下を任されている選手が、自己中心的で、『俺が使う側だ!』という意識が強すぎる中畑だった。


 だから彼は、周りを使おうとして、ボールをもらいに下がってくる。

 そうすると、前線に人が少なくなる。

 すると攻撃の成功率が下がり、厚みがある攻撃が展開されなくなる。

 すると、攻めのバリエーションが減ってしまって、日本代表の得点になる確率が下がってしまっていた。



 それに相手にマークをつけられると、一人では局面を打開できない中畑のプレースタイルでは、相手を振りほどけなかった。

 だから相手が研究して、中畑にマークをつけた試合では、日本の攻撃が沈黙していた。 だから日本代表が相手に先制されて、相手がリードを守るために守備を固めて、マークを強めると、中畑が前線に絡まないものだから、数的不利の状況を打開できずに、点を入れ返すことができなかった。


 トップ下に合わない、中畑のプレースタイルと、過大評価されている能力の低さから、日本代表が相手に先制されると、逆転できない理由だった。



 トップ下というポジションは、相手側としたら危険なポジションなので、人数をかけてつぶしに来る。

 だからそんな密着マークされている中で、必要なのはフィジカルの強さではなくて、キレとか、柔らかさとか、かわす能力です。

 人より多少、フィジカルがあるからといって、容易にボールをキープすることができる場所ではなかった。

 中畑程度のテクニックや、あのプレーの硬さでは、トップ下で意外性があるファンタジーを生み出すのができなかった。


 それにトップ下というポジションは、アタッカーとして、FW+αの、αとして、一番最初に攻撃に参加しなくてはいけないポジションです。

 なぜならそれは、トップ下が、前線に一番近いポジションだからです。

 しかし中畑は、自己中心的な性格なので、『全部俺に合わせろ!』といったプレーをする。


 トップ下は、FW+αの、αとして、使われる側の動きをしなくてはならない。

 しかし中畑は、『俺が使う側だ!』という意識が強すぎるために、司令塔気取りで、トップ下から引いてきて、ボールをもらいに下がってきてしまう。

 それでは点が生まれるような、厚みがある攻撃はできない。


 トップ下には、自分の動きが囮になって、自己犠牲をして、味方にシュートチャンスを生み出したり、相手マークを剥がしてあげたりしなければならない。

 それが、使われる側の動きだ。

 相手ゴールを脅かすために、前線で攻めの人数を増やしたほうが、相手ディフェンスにとっては、対応することが難しい。

 つまり、点を取る確率が高くなる。




 ペルージャでは、トップ下の中畑の前には、攻撃の時には3人いた。

 サッカーのチームにおいて、使われる側は、2人以上いなくてはならない。

 だから人数的に足りていたから機能していた。

 それが3人・4人と増やしていけば、+αの数だけ、厚みがある攻撃を実行することができる。


 ローマでは、周りの能力の高い選手がサポートしてくれていたから、強豪チームの中で活きた。

 しかし日本代表では、ほかの選手の方が良い働きをしていた。

 中畑は、その程度の働きしかしていなかった。






 一方、倉木は、ドラパットーニ監督のもとでは、フィオレンティーナの試合に出場するチャンスは巡ってこなかった。

 これは、エリートコースを進んできた倉木にとっては、初めての挫折だった。

 倉木の99‐00シーズンは、これで終わった。


 99‐00シーズンのセリエAの得点王は、24点で、ミランのウクライナ代表の、ジェフチェンコが輝いた。



 99‐00シーズンのセリエAで優勝したのは、スウェーデン人監督の、ヘリクソン監督が率いるラツィオだった。

 ラツィオが、スクデット(優勝)を勝ち取った!

 2位は、ユベントス

 3位は、ミラン

 4位は、同じ勝ち点で、インテルと、パルマ。


 イタリアでは4位までに来季のチャンピオンズリーグの出場権が得られるから、その出場権をかけてインテルと、パルマが対戦して、インテルが勝利したことで、インテルが、来季のチャンピオンズリーグに出場することが決まった。


 6位が、リーグ戦最強監督のカッペロ監督が率いるローマ。

 そして7位が、フィオレンティーナだった。


 日本人の名並が加入したベネチアは、16位で、残念ながらBに降格した。

 チームが降格したことで、名並は1年で契約を終了して、日本の磐田の復帰することが決まった。


 スペインのバジャドリーに移籍した錠彰二は、結局2ゴールしか取れずに、半シーズンで横浜ユナイテッドに戻った。



 欧州チャンピオンズリーグでは、レアル・マドリーと、バレンシアの、スペイン勢同士の対決になり、スペイン人のデルポスケが率いる、レアル・マドリーが、アルゼンチン人のグーペル監督が率いる、バレンシアを下し、欧州王者に立った。


 欧州チャンピオンズリーグの下の大会の、UEFAカップでは、トルコのガラタサライが、イングランドの、名古屋でも指揮をしていたウェンゲル監督が率いている、アーセナルを破り、初優勝する。


 その後、ガラタサライのデリム監督は、倉木が在籍するフィオレンティーナの監督に就任することが決まった。

 00‐01シーズンの開幕に向けて、イタリアの各クラブも、戦力を補強している。

 しかしそんな中、倉木が所属しているフィオレンティーナの、経営難が問題になっていた。

 その状況に、フィレンツェをこよなく愛し、フィオレンティーナがBに降格しても、移籍しなかった男の、パティストゥータが、一度はスクデットを獲得したいという目的と、クラブが倒産しないために、フィオレンティーナに入る移籍金を発生させる目的で移籍した。


 パティストゥータが、ローマに移籍!


 パティストゥータを売ることによって得られるお金を、クラブの負債を支払いに充てるためだ。

 こうやってフィオレンティーナの英雄が、フィレンツェから離れた。



 そしてスクデットを獲得したラツィオは、引き続きヘリクソン体制のままで、1100億リラ(当時およそ66億円)という移籍金で、パルマから、エルナン・グレスポを獲得する。

 そしてイタリア代表の、ネズタや、アルゼンチン代表の、ペロンや、チェコ代表の、ネドベットらが在籍している。


 

 ユベントスは、アンジェロッティが引き続き指揮を執る。

 そしてフランス代表のFWの、ドレゼケを獲得。

 ボランチには、キャプテンのイタリア人のゴンテや、オランダ代表の、タービッツ。

 トップ下には、フランスのシダン。その前にテルピエロや、インサーキが待ち構えていた。



 ミランは、ザックローニのまま。

 今の自分達に自信を持っている。今の戦力を維持することが、最大の補強。

 ジェフチェンコや、ピアホフや、レオナルトらアタッカー陣が揃っていて、相手ゴールを脅かす。



 インテルは、監督を名将のリッビから、同じイタリア人の、タロデッリに変える。

 そして大金を使って獲得した、アルゼンチン代表の、サネッディや、ブラジル代表の、ロナウトや、イタリア代表のピエリらが揃っている。

 イタリアの至宝のロベルト・パッジョは、試合に出るために、イタリアのプロビンチャの一つの、ブレシアに移籍した。

 


 パルマは、近代サッカーの開祖である、アリーゴ・ザッキが再び監督に復帰して、就任する。

 ザッキは、1989年と、1990年の欧州チャンピオンズカップを、監督として制して、ミランを欧州王者として連覇に導いた名将だ。

 選手は、グレスポをラツィオに放出するが、あのカメルーン代表の、エムボンバを獲得する。

 そしてイタリア代表のリーダーである、DFのガンナバーロや、フランス代表のデュラムや、イタリア代表のGKである、ブッフォムらが存在感を示している。



 そしてローマは、カッペロ監督を信じて、スクデット獲得に向けて、着実に戦力を揃えていた。

 FWには、パティストゥータや、モンデッラや、テルベッキオがいた。

 トップ下には、イタリアの10番の、トッチ。

 このシーズンから日本の中畑は、トッチのトップ下の控えに回っていた。

 守備陣には、獲得したアルゼンチン代表のザムエルや、ブラジル人の、エメルゾンや、アウタイールや、ガフーらがいて磐石の備えをしていた。





 このオフには、倉木のもとに嬉しい知らせが届いた。

 倉木は、トルシエール監督から、日本代表に初招集されたのである。

 2000年の6月に、モロッコで行われる、ハッサン2世国王杯に出場する代表メンバーに選ばれたのだ。

 そのハッサン2世国王杯では、1998年のW杯で優勝した、フランスとの対戦が決まっていた。


 その試合に向けて、倉木は張り切っています。

倉木「よし、新監督のデリム監督にも使ってもらっていないから、カサブランカで、フランス相手に大暴れするぞ!」


 ハッサン2世国王杯で、世界王者のフランスは、ベストメンバーで臨んできてくれていた。

 その中心にいるのが、ユベントスでも中心選手の、将軍シダンだ。


 日本代表は、この試合で、ザクラ大阪でも抜群のコンビネーションを魅せている、東澤明訓ひがしさわ・あきのり)と、森嶋寛晃もりしま・ひろあき)の2トップに変えた。

 その下に、トップ下として、ローマの中畑英寿を置いて、左のウイングバックには、横浜Uの、ファンタジスタ中町俊輔なかまち・しゅんすけ)と、右のウイングバックには、清水の、中盤の発動機の、伊藤輝悦いとう・てるよし)を使った。


 ダブルボランチには、ヴァモス大阪の、エリート戦士の、稲元潤一いなもと・じゅんいち)と、ヴェネチアに在籍していた、磐田の、名並浩ななみ・ひろし)を置く。


 フラット3の右には、清水の、森丘隆三もりおか・りゅうぞう)

 フラット3の中央には、横浜Uの、松畑直樹まつはた・なおき)

 フラット3の左には、磐田の、小岩剛こいわ・たけし)を置いた。


 そしてGKには、ウイングスから、名古屋に移った、楢浦正剛ならうら・せいごう)が起用された。



 トルシエール監督は、成績不振から、この試合を落とせば、代表監督を解任される空気が流れていた。

 トルシエール監督にとっては、母国との試合が、追加試験に位置付けられていた。

 しかしこの試合で、日本代表は、ベストメンバーのフランス相手に、史上最高の試合を演じる。


 日本代表対、フランス代表の試合が始まった。

 カサブランカのお客さんも、未知の日本代表よりも、強いフランス代表のことを応援していた。

 日本は、王者フランス相手に、最終ラインのフラット3を高く保って、保持したボールをサイドから、前線の東澤に送る。


 そのボールを東澤が受け取って、絶妙な落としを、森嶋に預ける。

 そのボールを拾った森島は、フランスゴールに攻め立てる。

 その攻撃に、トップ下の中畑が絡んで、ゲームを作る。

 その前線でタメられた時間で、ボランチの稲元と、名並が攻撃に参加する。


 稲元が、前線の選手にスルーパスを送る。そのボールに森嶋が反応した!

 森嶋が前を向いた状態でシュート!

 それは一旦跳ね返されるが、再びそのボールを、森嶋が頭で押し込んで、ヘディングシュート!

 入ったー! ゴール!


 なんと前半のうちに先制点を決めたのは、日本だった。

 試合は後半に入る。


 ハーフタイム中、監督から檄を入れられたフランスは、後半になって本気を出して、点を入れ返そうと、積極的に攻撃を仕掛けた。


 将軍シダンが、すぐさまお返しのゴール!

 フランス同点!


 しかしこの試合の日本は、変わっていた。


 日本は後半から出場の、左ウイングバックの、横浜Uの三浜淳宏が、中央にクロスを上げる!

 それを中央で待っていた東澤が、ダイレクトでボレー!

 ビューティフルゴール!

 日本が2点目! 日本がリード!


 この試合は、日本が先手を取って、世界王者のフランスが後手に回る展開です。


 しかしフランスは、すぐさま将軍シダンが得点に絡んで、同点ゴール!


 日本対、フランスは、2対2の同点で、90分を終える。

 ハッサン2世国王杯では、90分を終えて同点の場合でも、延長戦は行わずに、PK戦で決着をつけることになっていた。


 日本対、フランスはPK戦に突入!

 あ~日本の選手が外したー!


ピーーー! ピーー! ピーー!

 試合終了。日本はPK戦で敗退! 日本は惜敗!





 イタリアでは、新シーズンの開幕に向けて、各クラブが戦力補強したメンバーで、キャンプを張っている時期です。

 倉木も、フィオレンティーナのキャンプに参加しています。


 そのフィオレンティーナを取材する各メディアのインタビューに、倉木は意気込みを語った。

倉木「00‐01シーズンの俺の目標は、ローマに移籍したパティストゥータの穴を埋める。今シーズンは、パティストゥータがいなくなったから、弱くなったと言われない働きをする!」


 そんな頃です。

 またあの方から、出場依頼が舞い込んだのです。

 それが、シドニーオリンピックの、U‐23日本代表です。


 しかし倉木は、乗り気ではなかった。

倉木「なんだ、オリンピックか。こっちで生活していたらわかるけれど、サッカーのオリンピックのタイトルなんて、まるで価値がない! それよりも俺は、今シーズンはクラブのレギュラーをとることに専念したい。申し訳ないが、今回の代表は、辞退させてもらおう……。」


 オリンピックの代表を辞退する気でいた倉木のもとに、あの人物から電話がかかった。

倉木「プルプルプルプル、ピッ……、あ、もしもし倉木です。あっー、真崎先輩ですか!? あー、久しぶりです。はい、イタリアで頑張っています。えっ、真崎先輩も、オリンピックに出るんすか!? え、そうすっね、はい、そこまで言うのなら、出ても良いですけれど……、あ、はい、分かりました。準備しときます。はい。」


 倉木は、同じ日本代表に選ばれた、真崎秀斗の説得で、急遽代表入りが実現した。

 実はこの真崎の電話は、倉木が代表を辞退することを見越した、U‐23日本代表監督の、牧島将がよこしたものだった。


 監督の牧島将は、その手腕が認められて、U‐23の日本代表監督に昇格していた。

 その監督が、再び倉木を招集した。




 2000年の9月に行われる、シドニーオリンピック。

 そのオリンピックのアジア予選を、若き日本代表は突破して、本大会にこじつけた。

 倉木はそのオリンピック代表に、選ばれていたのだ。


 日本は、オリンピックの、サッカー競技の歴史の中で、史上最強の五輪代表を送り出した。

 その中に、倉木と新ゴールデンコンビを組んでいた、真崎の名前もあった。


23歳以下の選手たちの中に、年齢制限を越えた、オーバーエイジの選手を3人加えた、五輪代表がこれだ!


GK部門

 名古屋の、楢浦正剛ならうら・せいごう)OAオーバーエイジ)

 見国高校出身で、ヴァモス大阪の、都月龍太つづき・りゅうた)


DF部門

 日本のA代表でもキャプテンを務めている、清水の、森丘隆三もりおか・りゅうぞう)OA枠

 ボンバーヘッドと呼ばれる、ヴォレスト川崎の、外澤佑二そとざわ・ゆうじ)

 トルシエールの秘蔵っ子で、鹿島の、中畑浩二なかはた・こうじ)

 前回大会のアトランタ五輪でも代表入りしていた、横浜Uの、松畑直樹まつはた・なおき)

 オフサイドトラッパーで、ヴァモス大阪の、宮裏恒靖みやうら・つねやす)


MF部門

 元ウイングスで、横浜ユナイテッドの一員の、三浜淳宏みはま・あつひろ)。OA枠  横浜ユナイテッドのファンタジスタ、中町俊輔なかまち・しゅんすけ)

 中盤のダイナモ(発電機)、ヴァモス大阪の、稲元潤一いなもと・じゅんいち)

 柏ヘリオスの守備職人、暗神智和あんじん・ともかず)

 鹿島のジョーカー、本川雅志もとかわ・まさし)

 ローマ所属の、日本のカリスマ、中畑英寿なかはた・ひでとし)

 ジョフ市原の、ユーティリティープレーヤー、酒井友之さかうみ・ともゆき)


FW部門

 もはや日本のエースストライカーで、磐田の、高丘直泰たかおか・なおひろ)

 同じく磐田の後継者、東紀寛ひがし・のりひろ)

 鹿島のエース、柳原敦やなぎはら・あつし)

 同じく鹿島のポイントゲッター、坂瀬智行さかせ・ともゆき)

 見国高校出身で、横浜ユインテッドの、真崎秀斗まさき・しゅうと)

 飛び級で、フィオレンティーナ所属の、倉木飛馬くらき・ひゅうま)



 このメンバーが、日本最強五輪代表だ!

 ちなみにこの世代のスター選手である大野伸二おおの・しんじ)は、ケガのために五輪代表には選ばれていない。



 日本の若き侍20人は、決戦の舞台であるシドニーに集まった。

 チームをまとめるのは、日本五輪代表監督に昇進した牧島将監督。


牧島「君たちならメダルを獲れる! それを目指して戦おうじゃないか。最後は気持ちと気持ちの、ぶつかり合いになる。だから今まで練習してきた自分を信じようじゃないか。さぁ、金メダルをもらいに行こう!」



 日本最強の五輪代表の初戦の相手は、現日本代表監督のトルシエール監督が、日本の前に代表監督をしていた南アフリカだった。


 牧島監督は、日本のフル代表と同じ布陣の、3‐5‐2にした。

 フラット3の右には、外澤を置いて、左には、中畑浩二。そして中央には、フル代表でもキャプテンを務めている、森丘を使った。


 2トップには高丘と、柳原を使って、トップ下には、いつものように中畑英寿を使った。

 そしてダブルボランチには、稲元と、暗神を置いて、左のウイングバックには、中町を使う。

 そして今大会は、右のウイングバックに、市原の、酒海を使うことにした。



 

 日本本国でも、サポーターは、テレビにかじりついて応援している。

 サポーターの熱い思いが、シドニーまで届け!


 日本対、南アフリカ。


 キックオフのホイッスルが鳴ってから、試合はどちらともつかない展開が始まる。

 先制点を奪ったのは、南アフリカ。

 しかし先制されても、動じずに追いつけるのが強いチーム。

 日本は高丘のゴールで、同点!


 そして次の得点が決勝点になる。

 その決勝ゴールは、日本に生まれる。

 ゴールを決めたのは、またしても高丘だった。

 日本は、高丘の2ゴールで、2対1で南アフリカを下す。


 日本はシドニー五輪で、白星発進!


 日本の第2戦の相手は、スロバキアだった。

 しかしなんと、スロバキアは、主力は所属するクラブの方を優先して、主力級はシドニーに送り込まなかった。

 そんなスロバキアを、日本は一蹴する。

 日本が結果とも、内容とも上回り、2対1でスロバキアに勝利する。


 日本は2連勝で、第3戦目を迎えた。

 日本のグループステージ3戦目の相手は、あのサッカー王国の、ブラジルだった。


 ブラジルには、取れるとする、すべてのタイトルの中で、唯一手にしていないタイトルがある。

 それが、オリンピックタイトルだ。

 そのブラジルは、並々ならぬ意欲で臨んできた。


 迎え撃つ日本代表。

 日本対、ブラジルは、日本史上最強五輪代表は、ブラジル相手にも互角に試合を演じられることを証明した。

 結果は、0対1でブラジルに敗北したが、日本は今大会で、メダルを獲得するに値する可能性を見せた。

 日本は、2勝1敗で、グループステージを突破する。


 この結果に、日本国中が熱く盛り上がっていた。

 しかし倉木は、心にぽかーんと穴があいたままだった。


倉木「観客席で、あかねちゃんから応援してもらわないと、なんだかさみしいな。あかねのやつ、今頃日本で、この試合を見ていてくれているのかなぁ?」



 日本の決勝トーナメント1回戦の相手が決まった。

 それは、アメリカだった。

 意外と日本は、アメリカとの相性が悪い。

 そして、アメリカはサッカー人気が乏しい国だが、アメリカ代表は意外と強いのだ。


 日本は強豪との対戦に、良い流れできているときは、あえて変えないという鉄則を貫いた。


 今のチームには、自信を持っている。

『何かを変えないと、相手に勝てない』と、強豪チームと対戦する前に思っても、チームの形までも変えると、いつもどおりの戦い方ができずに、良い形を忘れてしまって、自分たちの形ができず、いつもの力を発揮することができずに、負けてしまうことが多い。

 だから牧島は、選手たちを信じて、変えなかった。



 シドニーオリンピックの決勝トーナメント1回戦。

 日本対、アメリカの試合が始まり、先制したのは日本だった。

 日本のエースの、高丘がゴール!

 しかしアメリカは、しぶとく同点に追いつく。

 試合はシーソーゲームのように進む。

 この展開に、観客も盛り上がる。

 史上最強日本代表は、2トップに一角の、柳原も点を取る。


 柳原のヘディングシュートが決まったー!

 日本は1点をリード!

 日本はこのままで行けば、アメリカの勝てる!


 そんな後半のロスタイムでした。

 アメリカの選手が同点に追いつこうと、必死で日本ゴール前に侵撃する。

 それを、右サイドの酒海が、ペナルティーエリア内で、痛恨のファウルを犯してしまう。

ピーーーーー!

 酒海痛恨! PK献上!


 そのロスタイムのPKを、アメリカが決めて、試合は延長戦に突入した。

 しかし延長戦に入っても、お互いにゴールを奪うことはなかった。

 日本対、アメリカは、PK戦に突入!

 日本のキッカーは、4人目の中畑英寿だ。もしこのPKを外せば、日本の敗退が決まる。 中畑決めてくれー! あ~外したー!


ピーーー! ピーー! ピーー!

 試合終了。日本史上最強五輪代表の、シドニーオリンピックが終わった。




 しかし倉木にとっては、久しぶりに真崎秀斗と同じサッカーができて嬉しかった。

真崎「なぁ、飛馬。もっと世界の人たちに、俺たちのコンビネーションを魅せたかったな。でも、一緒にサッカーができて、楽しかったよ。」


 日本はシドニーオリンピックで、アメリカに敗れ、黄金メンバーは各地に散っていった。








 その翌月。

 2000年の10月に、中東のイエメンで、アジアカップが開かれた。

 アジアカップとは、4年に一度開催される大会で、アジア連盟に所属している国による、年齢制限がない、アジア王者を決める代表戦だ。


 その大会に、倉木はトルシエール監督に選ばれて、参加している。

 しかしもうすでに、00‐01シーズンの、イタリアセリエAは開幕していた。

 フィオレンティーナのレギュラーではない倉木は、この大会に出場する許可が出て、参加している。

 だからイタリアで出場することができるローマの中畑は、この大会に参加していない。 だからこの大会で、倉木は、中畑の代わりに、中畑のポジションであるトップ下に入ることになった。



 日本はアジアカップを、五輪代表の選手を中心にしたメンバーで臨んできた。

 そんな中に、イタリア帰りの、ベテランの磐田の名並がいた。

 日本はそんなメンバーで、アジアカップ制覇に挑んだ。


 こんな遠い土地にも、熱心な日本のサポーターたちが駆けつけてくれた。


 グループステージ初戦の相手は、中東のサウジアラビアだった。

 サウジアラビアは、中東を代表するような強豪国として知られているが、今大会のサウジアラビアは、監督と、選手との、信頼関係が崩れていて、チームは崩壊していた。

 そんな空中分解していたサウジアラビアを相手に、日本は4対1の、大差で圧勝した。 日本は、あっけなくサウジアラビアを粉砕した。


 第2戦目の相手は、ウズベキスタンだった。

 ソ連から独立したウズベキスタンは、アジア連盟に所属している。

 そのウズベキスタンも、今の日本の敵ではなかった。

 スコアは、8対1で、日本は大勝した。


 日本のグループステージ第3戦目の相手は、カタールだった。

 中東のカタールは、日本が苦手にする国だ。

 日本はカタールと、相性が悪い。

 それを反映してか、スコアは1対1で、引き分けに終わる。

 既にグループステージを突破していた日本は、余力を残すような戦い方で臨んだ結果だ。

 アジアカップのグループステージを、1位通過で突破した日本の、決勝トーナメント1回戦の相手は、中東のイラクだった。

 この対戦で日本は、実力の違いを見せつけて、4対1で、イラクに勝利する。

 日本は、アジアカップの準決勝に進出する。


 日本の準決勝の相手が決まった。

 それは東アジアの、中国だった。

 日本対、中国は、日本は今大会で、一番ヒヤリとした試合になった。

 日本は初めて、複数失点をする。

 中国は日本相手に、2得点した。

 しかし日本は、中国相手に、3点入れ返した。

 日本は逆転勝ちで、中国を撃破する。

 日本はアジアカップの決勝に進出する。



 日本の決勝戦の相手は、初戦で倒したサウジアラビアに決まった。


 その決勝戦を控えている日本のロッカールームで、選手たちが身支度をしている時です。 イタリアのベネチアで、1年間プレーして、苦しんだ経験をした名並が、同じくイタリアでもがいている倉木に、アドバイスしました。


名並「いいか、飛馬。チャンスは誰にでもやってくる。そのチャンスがくるのを、最高の状態で、練習で何回も繰り返し、粘り強く、何度も最善の準備で待ち続けていられる人が、成功するんだ!」


 サウジアラビアは、大会中に監督が交代して、新しい指揮官のもとで、チームにまとまりが出来ていた。

 2000年のアジアカップの決勝戦の、日本対、サウジアラビアが始まった。


 倉木は今大会で、トップ下で良い働きを見せている。

 トップ下は、猛プレスがかかっているトップ下だけにいるのではない。


 セカンドアタッカーとして、点を取るために、FWを追い越してでも、前線に顔を出すのだ。

 そうすることで前線に人が増えて、チームが得点する確率が高くなる。

 それは、相手チームにとっては厄介な存在になる。

 それが自己中心的な、質が低い動きしかできない中畑との違い。

 倉木は、自分を犠牲にして、自分が囮になってでも、チームメイトの得点のために走りました。

 技術がある選手が生き残るのではない。その環境に適応して、それを何度も繰り返せる選手が、生き残るんだ!

 それを信じて、ボールを追いかけました。


 そんな奴に、巡り合わせたかのように、ボールが倉木の頭上に飛んできました。

 それを倉木は、頭でゴールに押し込みます。

 倉木のヘディングシュートだー! ゴール!


 日本が先制点を挙げる。

 その1点を、日本代表は必死に守り抜いた。

 苦しかった。でも試合終了のホイッスルが鳴り響いた時は、嬉しかった。


ピーーー! ピーー! ピーー!

 試合終了。日本はアジアカップで優勝!

 日本がアジア王者だ!





 その頃倉木は、元カノの、風間あかねに電話で連絡を入れた。

 電話番号を押している間、倉木は、あかねがどうしているのかと、不安な気持ちでいました。

倉木「プルプルプルッ、(あかねちゃん、今頃何をしているのかな?)ピッ……、あ〜もしもし、あかねちゃん? オレオレ、飛馬だよ。」


風間「えっ、飛馬パ、いや、倉木君!? あ〜元気でやってる? テレビで放送されているときは見てるよ。うん、頑張ってるじゃん。でももう私は彼女ではないからね。倉木君には、倉木君にふさわしい女性がいるよ。結構こっちの生活も楽しいよ。」


倉木「あのー、その話なんだけどさ、やっぱり俺、あかねちゃんが良……、」


風間「あ~こら、邪魔しないの! こっちはなんとかやってるから、あなたも頑張って! 私、世話で忙しいから、それじゃぁね、ピッ。」


倉木「えっ、まだ話が終わってないのに……!」







 時は明けて、2001年。

 素晴らしい知らせが、倉木のもとに届いた。

 見国高校が、小久保嘉人こくぼ・よしと)らの活躍で、全国高校サッカー選手権で優勝した。



 そしてこのウィンターブレイクに、フランス戦のビューティフルゴールや、アジアカップでの活躍が認められて、東澤明訓ひがしさわ・あきのり)が、スペインリーグの、エスパニョールに移籍することが決まった。

 東澤は、海を渡ることになる。






 その頃、イタリアセリエAでは、熾烈な首位争いが繰り広げられていた。

 首位は、優勝請負人のカッペロ監督が率いる、ローマだった。

 そのローマには、日本の中畑が所属している。

 しかしカッペロ監督は、当初、中畑はボランチで使うとしていたが、現在はトップ下の控えで使っている。

 そのトップ下のレギュラーは、ローマの王子様、フランチェスコ・トッチだ。

 中畑は、そのトッチが不調の時でしか、出場するチャンスを与えられなかった。


 そのローマと優勝争いをしているのは、名門のユベントスだった。


 そのイタリアリーグで、チャンスを待ち望んでいる、もう一人の日本人の男がいる。


 倉木飛馬だ。

 フィオレンティーナの監督のデリム監督は、試合前に、自分のチームのメンバーを見定めしています。

デリム『ん!? こいつ顔変わったな……。オモシロい、使ってみよう!』



 00‐01シーズンのイタリアセリエA。

 イタリアという見知らぬ土地で、大声援の中、日本人同士が、敵同士で相まみえる。

 フィオレンティーナ対、ローマが始まった。


 この試合は、パティストゥータが挙げた1点を、ローマがリードする展開で進む。

 試合は後半開始直後に、ローマは、この試合で冴えないトッチから、日本人の中畑に代えた。

 そしてリードされているフィオレンティーナは、点を取るために、日本人アタッカーを投入する。

 それが倉木飛馬だ。


 フィオレンティーナのデリム監督は、投入する倉木にそっと囁いた。

デリム「やっと、フットボーラーらしい顔になったな。」


 この倉木の登場に、フィオレンティーナのホームスタジアムの、サポーターの、フィレンツェの男たちが湧いた。

「ク・ラッ・キ! ク・ラッ・キ!」

 倉木は、この大歓声に包まれたピッチの上に立った。


 イタリアセリエAの舞台で、2例目の日本人対決が実現する!


 それが中畑ローマ対、倉木フィオレンティーナだった。


 試合は、1点を、固い守備で、守り抜いたローマが勝利する。

 試合後に、中畑と、倉木は、ユニホーム交換をした。

 そして中畑は、次の日本代表戦のフランス戦に向けての、意気込みを伝えた。

中畑「今日の動きは良かったよ。次のフランンス戦も、期待してるぞ!」





 そして2001年の、3月24日になりました。

 この日はフランスのサンドニスタジアムで、日本対、フランス戦が行われる日です。

 フランスW杯の決勝で、フランスが地元優勝した舞台の、サンドニスタジアムで、日本代表戦の親善試合が開催される。

 トルシエール監督にとっては、母国に帰ってきての試合だ。

 このフランスでの国際親善試合前に、トルシエール監督は豪語していた。


 私は、フランスの故郷に錦を飾る!

 2002年の優勝候補は、日本だ!

 それがこの試合で証明されるだろう!


 しかし……。

ピーーー! ピーー! ピーー!


 試合終了。0対5で、フランスが圧勝!

 日本は歴史的大敗!

 あまりにも、フランスの一方的な試合!

 フラット3は大崩壊!


 中畑英寿を除いては、日本人選手はフランス相手に何もできなかった。

 試合終了のホイッスルが鳴り響いた瞬間、日本代表の選手たちは崩れ落ちた。

 トルシエール監督のフランス対策の、フラット3の前に、トリプルボランチを置くという戦術を、いきなり導入するという秘策が裏目に出て、選手たちが混乱して、完全に機能していなかった。

 機能していたら、博打に当たったと言われるが、ここで、いきなりシステムチェンジするという、トルシエール監督の、采配の性格が明らかになった。


 この大惨劇を食らって、日本ではトルシエール監督の解任論に拍車がかかった。


 トルシエールじゃダメだな!

 フラット3は、欠陥システムだ!

 欧州では当たり前にサイドに人を置くが、それを日本のフラット3のサイドにも同じように人を置くと、簡単に守備が崩壊する!

 トルシエール監督を支持する人たちは、日本にとっての迷惑な存在だよ!


 このフランスでの、歴史的大敗を経験して、中畑と、倉木は、イタリアに戻った。





 00‐01シーズンの、イタリアセリエAの、第29節。

 ローマと、ユベントスの、優勝争いをしている直接対決が行われた。

 首位に立っているローマ対、2位のユベントスの天王山だ。

 試合が行われたのは、ユベントスのホームだった。

 この試合でユベントスが勝つと、ローマとの差が一気に縮まる大事な試合だった。


 この第29節の前に、イタリアでは外国人枠が、完全撤廃された。

 EU(ヨーロッパ連合)に所属している国の人ではない選手でも、制限されることなく登録できて、試合に出場することができるようになった。

 だからイタリアでは外国人の、日本人の中畑も、制限されることなく、トッチの控えとして、ローマのベンチに座った。


 首位と、2位同士の戦い。

 その重要性も重なって、スタジアムは殺伐とした空気が流れる。


 天王山のローマ対、ユベントスは、試合が始まって、テルピエロと、シダンのゴールで、ユベントスが早々と2点をリードしたあとの、後半です。


 この試合、ローマのトッチが不調。

 そこでカッペロ監督は、後半の59分に、トッチに代えて、日本人の中畑をピッチに送り込んだ。

 中畑投入後、しばらくたった頃でした。

 79分に、中畑のミドルシュートが炸裂する。


 中畑がボールを奪ったー!


 決して上がらず、2点のリードを守るためだけに、決して後ろに穴を開けない、ユベントスDFと、ローマのアタッカー3人の構図になった。

 そのローマの3人の1人だった、中畑がボール持った。

 セオリー通りに、ズルズルと下がりながら対応するユベントスのディフェンス陣とのあいだに間合いが出来た!


 中畑が右足を振り抜いたー!

 入ったー! ゴール!

中畑「よっしゃぁぁぁぁあ!!」

 これでスコアは、1対2。


 そして後半の終了間際です。

 なんとか引き分けに持ち込もうと、ローマの選手たちがDFであっても、ユベントスのゴール前に攻め上がっているところでした。


 中畑が遠目から、右足で強烈な無回転シュートを放ったー!

 それをユベントスのGKの、ファン・テルザールが苦しみながら弾く!

 そのこぼれ玉を狙っていたローマの、モンデッラがゴールに押し込んだ!

 ゴール! ゴール! 同点ゴール!


 このゴールに、スタジアムのローマサポーターが吠えた。

「ウオオオォォォォォオオオオ!!」

 スタジアムが揺れている。

 そしてローマ中が歓喜した。


 この喜びが物語っているように、ローマはユベントスに敗北していたら、セリエAの順位で肉薄されているところでした。

 だからローマとしたら、勝ち点6の価値がある試合でした。

 勝ち点3を与えない、引き分けに持ち込んだのです。

 中畑の、1ゴール・1シュートアシストが引き分けに持ち込んだ。

 ローマ対、ユベントスは、2対2の引き分けで終わる。

 この試合の中畑の活躍は、ローマの伝説である。










 2001年の6月。

 2002年の日韓W杯を控えた日本と、韓国で、コンフェデレーションズカップが行われる。

 コンフェデレーションズカップとは、世界の各大陸連盟の代表王者が集まって開催するプレW杯だ。

 翌年にW杯を開催する日本と、韓国にとっては、結果を残したい大会である。


 そこにイタリアから、日本代表選手として、中畑英寿と、倉木飛馬が合流した。

 イタリアではレギュラーではない二人は、この大会に参加することにした。


 この大会は、各大陸連盟王者を2グループに分けて、そのグループで上位2位にまでなった国が、決勝トーナメントに進む。

 日本のコンフェデレーションズカップの初戦の相手は、北中米・カリブ海王者のカナダだった。

 日本代表監督のトルシエール監督は、コンフェデレーションズカップでは、セカンドGK扱いだった、河口能活を起用する。

 その河口が、正ゴールキーパーの楢浦には負けまいと、コンフェデレーションズカップで躍動する。


 コンフェデレーションズカップが日本で開催されることもあって、サッカーファンが駆けつけた。

 日本対、カナダは試合が始まって、カナダの猛攻を、河口の好セーブで完封する。

 楢浦だったら、2・3点は取られていた試合を、河口は神懸かり的スーパーセーブで零封。

 そして攻撃陣は、3点も取った。

 日本は3対0というスコアで、コンフェデレーションズカップの初戦を白星で飾る。


 日本の第2戦目の相手は、アフリカ王者の、カメルーンだった。

 この大会から初先発したのが、鹿島で柳原とコンビを組む、鈴森隆行すすもり・たかゆき)だ。

 その鈴森が、大当たりすることになる。


 日本対、カメルーン戦は始まって、カメルーンの攻めを、日本のトルシエール監督の戦術の、前からどんどんプレスをかけに行く、プレッシングサッカーで封じる。

 攻撃陣は、鈴森が2得点して、2対0でカメルーンを葬り去る。

 カメルーン戦は、今大会の日本のベストゲームだった。

 日本は2連勝で、第3戦目を迎える。


 日本の第3戦目の相手は、南米王者のブラジルだった。

 ブラジルの監督は、今大会で若いメンバーを中心にして挑んできた。

 日本対、ブラジル戦は始まって、そのメンバーの質や経験の低さもあって、日本はホームでブラジル相手に、堂々とした戦いを見せた。

 結果は、スコアレスドローの引き分けに終わる。


 この結果、日本はグループステージを1位で通過して、もうひとつのグループの2位で通過した、オセアニア王者の、オーストラリアと対戦することが決まった。

 しかしこれまで、日本のトップ下で出場していた中畑英寿は、準決勝のオーストラリア戦で勝って決勝に進んだとしても、イタリアに戻って、所属するローマが優勝を果たすピッチに立つことを決めていた。


 そしてオーストラリア戦の当日。

 横浜ユナイテッドのホームスタジアムである、横浜スタジアムで、土砂降りの雨の中、オーストラリア戦が始まった。


 試合は、日本のトップ下で出場していた中畑英寿が、直接フリーキックを決める。


 中畑英寿が、強烈フリーキックを決めたー! ゴール!


 中畑が、自らのチカラで、直接、勝利をもたらしたフリーキックだった。

 日本はその中畑の決勝ゴールを守り抜いて、1対0で勝利した。

 日本はオーストラリアを下して、見事、コンフェデレーションズカップの決勝に進出する。



 日本のコンフェデレーションズカップの決勝の相手は、今年の3月に、歴史的な大敗を喫したフランスだった。

 再び、フランスと相まみえる日本。

 しかしもう、トップ下の中畑はイタリアに帰っていない。

 そこでトルシエール監督は、中畑の代わりに、倉木をトップ下で起用した。



 コンフェデレーションズカップの決勝の、日本対、フランス戦がキックオフされた。

 この試合でも、3月の対戦と同じように、トリプルボランチを採用する。

 しかし3月の対戦のような、歴然とした力の差を見せ付けられることはなかった。

 それは一度試したことがあったことと、同じ相手に何度もズタズタにやらせるか、という気持ちの面があった。

 しかし試合の展開は、一方的なフランスのペース。

 それが必然だったかのように、フランスが先制する。


 フランスの選手がボールを持ったー!

 日本のプレスがかかっていない。

 しかしトルシエール監督の指示で、最終ラインのフラット3を押し上げるー。

 その動きを見て、フランスのピエラがフラット3を抜け出した!

 そこに良いボールがピエラに届いたー。

 オフサイドはない!

 GKの河口が前に飛び出す!

 一対一、あ~、しかしピエラが先にボールを頭で触り、河口の頭上を越すヘッド!

 ボールは河口をあざ笑うかのように、ゴールマウスに吸い込まれていったー!

 ゴール! フランスが先制!


 その後も、日本は何度かしかないチャンスをものにできずに、フランス相手に追いつけなかった。

 フランスは1点のリードを守り抜いて、0対1でフランスの勝利。


 フランスが、コンフェデレーションズカップで優勝する。

 日本はホームで優勝できなかったが、よく頑張った。準優勝!







 その頃、イタリアセリエAでは、ローマが首位を守っていた。

 そしてこの試合に勝てば、優勝が決まるという大事な最終戦です。

 ローマ対、パルマ。

 その中に一人の日本人がいた。

 それがローマの中畑英寿だ。


ピーーー! ピーー! ピーー!

 試合終了。ローマが勝利する! ローマ優勝!!


「うォォォオオオおォォおお!!」

 フィールドのライン際に、ギリギリまで詰め寄っていた男たちが、この試合終了のホイッスルを聞いて、ピッチの中になだれ込んだ。

 そしてスタジアムの中や外で、お祭り騒ぎが始まった。

 セリエA名物の、スクデット祭りである。

 ローマ市内では、人がごちゃまぜになって喜んでいる。


 ローマが00‐01シーズンのセリエAで優勝! スクデット獲得!



 ローマのカッペロ監督は、またしても自分が指揮するチームを優勝に導いた。

 彼は指揮を執るチームを、確実に成功に導く監督なのです。

 ミランの監督をしていた時も、チームを1度、欧州クラブナンバーワンクラブに導いたことがある。

 成功率100%。

 そのことで、カッペロ監督は、世界でナンバーワンの監督だと謳われている。



 このシーズンで2位だったのは、勝ち点差2で、ユベントス。

 だから天王山で、ローマの中畑の活躍がなかったら、ローマは優勝してなかったかもしれません。

 アンジェロッティ監督は、このシーズンでユベントスを去った。



 3位だったのがラツィオ。

 こちらもこのシーズンで、ヘリクソン監督がラツィオの監督から退いて、イングランド代表監督に就任した。



 4位がパルマ。

 シーズンの開始では、パルマは、ザッキ監督が指揮をしていたものの、病気の影響もあって、途中からウリピエリ監督に変わっていた。

 そのウリピエリ監督の指導もあって、チャンピオンズリーグ出場圏内の4位に躍進した。


 5位だったのが、インテル。

 タロデッリ監督で一年間やってきたが、チャンピオンズリーグ出場権は確保できなかった。



 6位が、ミラン。

 このシーズンの序盤は、ザックローニ体制で戦ったものの、ザックローニ監督は、国内リーグや、チャンピオンズリーグでの成績不振により、2001年のシーズン途中で、ミランの監督から解任された。


 ザックローニは、ミランに3‐4‐3というシステムを導入した。

 しかしミランのオーナーで、イタリアの首相でもある、ペルルスコーニ氏が、好んでいる4バックを採用しなかったという理由で、確執が生まれ、解任されることになった。

 イタリアでは異質な、ミランの攻撃的なサッカーは、ボスのペルルスコーニ氏が望んでいることだった。


 その後を継いだのは、ミランの選手のパオロ・マルティーニの父親の、チェーザレ・マルティーニだった。

 その監督のもとで、6位の順位になった。



 倉木が所属しているフィオレンティーナは、結局9位でシーズンを終えている。



 セリエAの得点王は、26点で、ラツィオのグレスポ選手。



 欧州チャンピオンズリーグは、2年連続でファイナリストになった、アルゼンチン人のグーペル監督が率いる、スペインのバレンシアを、ドイツ人のビッツフェルト監督が率いる、ドイツのバイエルン・ミュンヘンが、PK戦で破り、バイエルンが優勝した。



 UEFAカップは、イングランドのリヴァプールが、スペインのアラベスを破って優勝した。


 セリエAの、00‐01シーズンは、ローマの優勝で幕を閉じた。

 各クラブも新シーズンに向けて、戦力補強をしている。


 優勝請負人のカッペロ監督は、ローマの監督にとどまった。


 そして伝説的プレーヤーになった中畑は、本人が望んでいた、トップ下のレギュラーを確約してくれた、パルマのオファーを快諾して、ビッグ7の一つであるパルマに移籍した。


 セリエAで2位だったユベントスは、監督にリッビ監督を復帰させた。

 そしてあのフランスのシダンを、当時史上最高額の8000万ユーロで、レアル・マドリーに売って、イタリア代表のインサーキもミランに売った。

 しかしその代わりに、パルマからイタリアン人のGKのブッフォムと、フランス人のDFのデュラムを獲得した。

 そしてラツィオから、チェコ人のネドベットを獲得する。



 3位のラツィオは、クラブの負債が膨らんで、主力を放出ざるを得なかったので、ネドベットをユベントスに移籍させた。

 監督はヘリクソン監督がイングランド代表監督に就任したので、イタリア人の、ディノ・ソフ監督に代えた。



 4位に入ったパルマは、チャンピオンズリーグ本戦に進むための、予備予選に、ウリピエリ監督で挑むことにした。

 ブッフォムや、デュラムら主力は放出したものの、イタリア代表のガンナバーロを残留させて、中畑ら若手主体で、育成路線に転換して、チームを作ることにした。



 5位のインテルは、タロデッリ監督を代えて、バレンシアを2年連続で、チャンピオンズリーグの決勝まで勝ち進ませた、グーペル監督を新指揮官に抜擢した。

 しかしグーペル監督は、守備的で守りが固い勝てるチームを作るけれど、チームを優勝させた回数は少ない監督で有名だ。



 6位のミランは、シーズン開幕からは、倉木のフィオレンティーナで監督を務めていた、デリム監督を招聘する。

 そして選手は、インサーキを、ユベントスから、ルイ・ゴスタを、フィオレンティーナから、ビルロを、ブレシアから獲得した。



 そして倉木のフィオレンティーナは、新監督に、イタリア人の元スタープレーヤーだった、マンチーニャ監督が就任することになった。

 新戦力としては、インテルが保有権を持っている、ブラジル人の、アンドリアーノを成長させるために、インテルでは出番がないから、フィオレンティーナで成長させてくれと、期待の大砲を新戦力として加えることになる。


 しかしフィオレンティーナは、経営難により、相変わらず主力を放出していた。

 ルイ・ゴスタは、ミランに売ることになる。

 そして倉木も、例外ではありませんでした。

 倉木にも、一通の移籍オファーが届く。

 それは中畑を放出した、ローマからだった。


 倉木飛馬がローマに移籍することが決定!


 それは、日本人選手を獲得することによる収入ジャパンマネー)増を、期待したからだった。

 しかし中畑の活躍で、純粋に戦力として、日本人選手が評価されて、期待されたからでもあった。


 そしてほかの日本人選手も、このシーズンから続々と海外に羽ばたくのであった。

 その移籍話が、メディアを賑わした。


 浦和の、大野伸二は、オランダの、フェイエノールトへ!

 V大阪の、稲元潤一は、イングランドの、アーセナルへ!

 磐田の、高丘直泰は、アルゼンチンの、ボカ・ジュニオルスへ!

 横浜Uの河口能活は、イングランドの、ポーツマスへ!

 エスパニョールの東澤明訓は、イングランドのボルトンへ!


 今シーズンの終わりには、日韓W杯が待っている。

 世界に散っていった選手たちは、各クラブで切磋琢磨する。

 日本人選手が、世界に旅立った年でした。




 イタリア。

 中畑のパルマが、チャンピオンズリーグの本戦出場を逃す!


 イタリアで4位に入ったクラブは、チャンピオンズリーグの本戦に進むための、予備予選を戦う。

 その予備予選で、パルマは敗退したのだ。

 それで中畑は、チャンピオンズリーグに出場することができなかった。


 01‐02シーズンのパルマの監督だったウリピエリ監督は、中畑英寿を、トップ下のポジションで使い続けた。

 しかしそれで、パルマは下降線をたどる。

 その成績不振を理由に、ウリピエリ監督は、解任されてしまう。

 後任には、アルゼンチン人の、バサレラ監督が任命された。


 そしてその中畑のパフォーマンスを見て、日本では、日本サッカー界で最大のタブーである、中畑英寿の実力問題が、中畑肯定派と、中畑否定派に分かれ、大議論されていた。


 中畑のプレースタイルは、トップ下に向いていない!

 イタリアでの対戦相手が強いだけだ!

 日本代表戦でも、プレー内容が良くない! ほかの日本人選手の方がよっぽど良い活躍をしている!

 日本人選手の中で、中畑は全てにおいて上だ!

 日本では中畑の良いプレーのところだけを切り取って、集めて、繋いで、テレビで流しているだけだ!

 世界最高峰リーグの、あのイタリアで成功した唯一の選手ですよ!

 中畑からは、気持ちが感じられない!

 気持ちなんてナンセンスだ!

 中畑は、フィジカルがあるからトップ下でボールをキープすることができるので、中畑がいることによるデメリットはない!

 中畑の自己中心的な性格は、チームの和を乱す!


 日本でも、中畑不要論が流れている中、戦術最高峰リーグのイタリアでは、中畑にはトップ下失格の烙印が押されていた。

 中畑は完全に、パルマに必要とされていない選手に成り下がっていた。

 中畑を獲得するために費やされた、およそ33億円と言われる移籍金は、完全に不良債権と化していた。




 中畑不要論が囁かれている中で、中畑本人は、相変わらず『俺はトップ下が合っている!』と言い張っていた。

 しかしパルマの前監督である、師匠のウリピエリ監督は、自己分析して告白した。

ウリピエリ「中畑は、トップ下には向いていなかった。中畑をトップ下で使ったことが、失敗の原因だった……。」


 すると中畑の発言にも変化が見られるようになる。

中畑「俺はトップ下が好きなんだ……。」




 そんな頃、W杯の開催国である日本で行われる親善試合に、イタリア代表が招待された。 その試合に出場するために、パルマの中畑と、ローマの倉木が、日本代表として帰国した。


倉木「久しぶりに、このイタリア代表との試合に、あかねちゃんを招待しよう!」

 倉木は、埼玉スタジアムで行われる日本代表戦に、風間あかねを呼んだ。

 招待されたあかねも喜んでいる。


 あかねは一人で来た。

風間「よ、倉木君こんばんわ。私は一人だったから、倉木君に誘われて、嬉しかったんだよ。」


 イタリア代表の監督は、以前、倉木が所属していたフィオレンティーナの監督だった、あのドラパットーニだった。

 彼はこの試合に、イタリアからほぼベストメンバーを連れてきてくれた。


 トッチ

 テルピエロ

 インサーキ

 カットゥーゾ

 ネズタ

 ガンナバーロ

 サンブロッタ

 ブッフォム


 日本代表監督のトルシエール監督は、日本のトップ下に、倉木を先発起用した。

 そして左のウイングバックには、フェイエノールトの大野。

 ボランチには、アーセナルの稲元。

 FWには、ボカ・ジュニオルスの高丘を使った。


 日本で、世界最高峰リーグの選手が見られるということで、日本のファンの興奮している。

 日本対、イタリア戦が始まった。

 この試合は、前半に稲元からのクロスを、FWの柳原がダイレクトボレーシュート!

 ゴール!

 日本は、1点をリードした展開で前半が終わる。


 そしてトルシエール監督は、トップ下を試すかのように、倉木から、中畑英寿にチェンジする。

 試合は後半、イタリアが意地を見せるように1点を返して、1対1の引き分けに終わる。

 これでイタリアとの試合は終わったが、W杯日本代表メンバー入りを目指す、同じ日本人同士の熾烈な戦いは終わっていなかった。




 試合後、あかねがイタリアに帰る倉木のもとに寄った。

風間「倉木君、かっこよかったぞ! それじゃ、私はこのへんで……。」


倉木「待てよ! なぁ、あかね、今、付き合っている彼氏はいるのか?」


風間「うぅん、いないよ。でも一人じゃないから寂しくないよ。」


倉木「(ひとりじゃない……、じゃ、あかねにもそれなりの男性がいるんだな……)じゃ、またあかねちゃん、日本に戻ってきたら、また連絡するよ!」


風間「うん!」


 こうやって、倉木は戦いの場である、イタリアに旅立って行きました。








 明ける20002年。

 ついにW杯イヤーの幕開けです。


 そして冬の風物詩である、全国高校サッカー選手権で、見国高校が徳長悠平とくなが・ゆうへい)らの活躍で、優勝したことが伝えられた。

 倉木は見国高校の代表格として、責任感を持つようになりました。


 

 イタリアセリエAでは、ミランの監督が、トルコ人のデリム監督から、ユベントスで指揮をしていたアンジェロッティ監督に代わった。



 そしてラツィオの監督が、ディノ・ソフから、ザックローニに代わっていた。



 そして中畑のパルマの監督には、イタリア人のブランデッリ監督が就任していた。

 ブランデッリは優秀な戦術家で、現代的で良いチームを作ることで評価を上げていた。


ブランデッリ「私のサッカーにファンタジスタは要らない! 選手たちには、私の駒として動いてもらう。」


 ブランデッリ監督は、これから中畑を、トップ下ではなく、右サイドハーフで使うようになる。

 その起用方針によって、中畑と、ブランデッリの確執が生まれることになる。




 一方、ローマの倉木は、カッペロ監督に、トッチの控えとして起用されていた。

 今シーズン、ローマは、欧州チャンピオンズリーグに参加していた。

 欧州チャンピオンズリーグとは、ヨーロッパの中で一番強いクラブを決める大会だ。

 その価値は、世界最大のイベントと謳われるW杯を凌ぐ大会と呼ばれている。

 事実上の、世界で一番強いサッカーチームを決める大会だ。


 今シーズンは、その大会に、大野が所属しているフェイエノールトと、稲元が所属しているアーセナルも参加している。


 倉木のローマと、稲元のアーセナルは、チャンピオンズリーグの一次リーグを突破して、二次リーグに進んだ。

 大野のフェイエノールトは、一次リーグを突破することはできなかった。


 しかし一次リーグで3位になったために、チャンピオンズリーグの下の大会の、UEFAカップに回ることになる。

 そのUEFAカップには、チャンピオンズリーグの予備予選で敗退した、中畑のパルマも参加していたが、早々に敗退した。



 01‐02チャンピオンズリーグの、二次リーグは、16のクラブが、4つのグループに分けられる。

 1つのグループには、4つのクラブが同居して、ホーム&アウェイを戦って、上位2クラブが決勝トーナメントに進出する。



 倉木が所属するローマは、二次リーグも突破して、ベスト8の決勝トーナメントに進んだ。

 そこで勝ち上がっていけば、欧州の頂点にたどり着く。


 残念ながら稲元のアーセナルは、二次リーグで敗退して、今シーズンの欧州のカップ戦は終了した。

 二次リーグでは、3位になっても、UEFAカップには回らない。

 大野のフェイエノールトは、UEFAカップで勝ち進んでいる。






 チャンピオンズリーグの決勝トーナメント。

 イタリア王者のローマは、イングランドの赤い悪魔である、マンチェスターUと対戦した。

 マンチェスターUには、ラツィオから移籍したアルゼンチン人の、ペロンや、イングランド人のズコールスや、ウェールズ人の、ギックスらがいる。

 そして右サイドハーフにいるのが、貴公子ベッカン様だ。


 しかしベッカンは、二次リーグの試合で足を骨折してしまって、この試合には参加していない。

 彼もまた、怪我を直してW杯に出場することを諦めてなかった。



 ローマ対、マンチェスターU戦が始まった。

 ホーム&アウェイ方式の第1戦目は、ローマのホームスタジアムである、スタディオ・オリンピコで行われた。

 試合はマンチェスターUがプレッシングサッカーでボールを保持するが、ローマは守りのサッカーで、ピンチの場面はあまり作らせなかった。


 ローマの戦法は、後方から一気にロングボールを上げて、いきなりDF対、FWの構図にすること。

 そのために相手に攻めさせて、攻め上がった分、相手の裏に出来たスペースを、カウンターで突く戦い方だ。

 そのためにDFはあまり上がらせず、速攻の縦に速いボールを前線に送る。


 しかし試合は、両チームに得点は生まれず、0対0で1戦目を終える。




 第2戦目は、マンチェスターUのホームスタジアムである、オールド・トラッフォードで行われた。

 試合は、ホームのマンチェスターUが、サポーターの大声援を背にして、先制点を挙げる。

 しかしアウェイのローマは、後半になって、一瞬のチャンスで、後方からロングボールを送るカウンターで、1点をもぎ取る。

 パティストゥータの同点ゴール! パティゴール!


 これで試合は終了する。

 1戦目も、2戦目も、引き分けで終わった。

 しかし得点数が同じ場合に、アウェイのゴール数を2倍にして換算するルールによって、合計の得点が2対1になり、ローマが勝ち上がることになった。

 ローマ、準決勝に進出!




 01‐02シーズンのチャンピオンズリーグの準決勝戦。

 イタリアのローマ対、ドイツのレバークーゼン。

 今大会で調子が良い、レバークーゼンには、ドイツ代表の、小皇帝と呼ばれる、パラックや、ブラジル代表の最強DFである、ルッジオらがいる。



 その第1戦目は、レバークーゼンのホームスタジアムで開始された。

 試合はアウェイのローマが、ホームの大声援をバックにして攻め上がるレバークーゼンをあざ笑うかのように、裏を突くカウンターで先制する。

 トッチの先制ゴール!


 試合の展開は、トッチが挙げたゴールを、守備的な戦術を執るローマが守り抜く。

 ローマはアウェイゴールをモノにして、イタリアに帰った。



 第2戦目は、ローマのホームで開始した。

 試合の展開は、ローマはカッペロ監督の、超守備的なサッカーで臨んだ。

 そのリアクションサッカーと呼ばれる、下がって守りを固めて、相手に攻めさせて、攻め上がった裏を突くというサッカーは、このカッペロ監督が作り出したようなものだ。

 それを、ほかのイタリア人監督が真似をしている。


 この第一人者の戦法で、無理にでも攻め上がらざるを得ないレバークーゼンに対して、ローマは優位に戦った。

 しかし諦めないのがドイツ人の気質。

 何が何でも勝つという、ドイツのチームの猛攻を、ローマは防ぐ。

 しかし試合は、両者ともに得点を奪えず、スコアレスドローで終わる。


 倉木のローマは、1勝1引き分けで、レバークーゼンに勝利したことで、チャンピオンズリーグの決勝の切符を手にした。





 その頃日本では、サッカー文化が乏しいせいで、とんでもないサッカーの解釈がなされていました。


 W杯を見るための資格なんて必要あるか!

 老若男女、誰でもチケットに応募することができるのが平等というものだ!?

 私はサッカー経験がないけれど、ウルトラスなので、W杯を見る資格は持っているわ!?

 イングランド人は、フーリガン!?

 ベッカン様が初めて日本に来日する!?(マンチェスターUの一員として来日済み)

 中畑英寿は、すべての日本人選手の中で、全てにおいて上!?

 中畑英寿が日本で一番うまいって、当たり前じゃん。だってテレビでもそう言っているでしょ!?

 男子日本代表の愛称は、蒼き戦士たちに決定!?

 トルシエール監督も頑張っているのですから、そんなに監督を批判せずに、トルシエール日本代表を応援していきましょうよ!?


 欧州では、シーズンの大詰めが迫っています。

 大野のフェイエノールトは、チャンピオンズリーグの下の大会の、UEFAカップの決勝にまで勝ち進んでいました。


 その決勝の地は、フェイエノールトの本拠地の、ホームスタジアムで開催される。

 フェイエノールト一色に染められたスタジアムには、熱狂的なサポーターが、わんさかと集合しています。

「フェイエ! フェイエ!」

 そのサポーターたちが、このスタジアムで、相手チームに勝たせるわけがありません。 そのピッチに、一人の日本人が参上する。

 その名も、大野伸二。

 ついに一人の日本人が、この舞台に立った。

 UEFAカップの決勝戦。

 フェイエノールトが、ドイツのドルトムントを迎え撃つ。

 一発勝負の決勝戦が、主審のホイッスルによって開始された。


ピーーーーー!


 大野のピンポイントパスが、前線のドマソンに届いたー!

 世界一のフリーキッカー、ファン・フーイドンクのフリーキックが炸裂!


ピーーー! ピーー! ピーー!

 試合終了。

 フェイエノールトが、ドルトムントを3対2で下し、UEFAカップで優勝!

 大野が世界の舞台で活躍して、この試合を境に、名実ともに、大野伸二が日本を代表する選手として世界に認識されたー!

 よくやった天才児大野。日本で一番うまい選手が世界の舞台で飛躍した年であった。





 そして欧州の舞台は、チャンピオンズリーグの決勝を残して、終了した。


 このW杯シーズンの、イタリアセリエAの優勝は、リッビ監督が率いるユベントスだった。

 イタリアでは、最小失点のクラブが、自ずと頂点に立つ。



 最後までユベントスと優勝争いをしていたのが、インテルと、ローマ。

 インテルが最終節でつまづいたことで、ユベントスが逆転で優勝する。

 インテルを率いているグーペル監督は、良いチームを作ってあと一歩のところまで上り詰めるのだが、結局優勝はしないという壁を突破することができなかった。


 インテルの世界最高のストライカーである、ブラジルのロナウトは、大怪我から復帰して挑んだ今シーズンも、悲願のスクデットを獲得することはできなかった。

 試合が終了して、ロナウトは涙をこぼした。

 その悔し涙を、W杯で嬉し涙に変えて、晴らせ!


 結局インテルは、3位でシーズンを終える。

 2位が、カッペロのローマだった。

 4位が、アンジェロッティのミラン。


 そして5位が、プロビンチャ(中小クラブ)の、キエーヴォ。

 セリエAに昇格したばかりの1年目のクラブが、終盤まで優勝争いを繰り広げた。

 そしてチャンピオンズリーグの出場権を獲得する手前の、5位にまで食い込んだのは、イタリアが未だに世界最高峰リーグであるぞ、ということを証明した。

 イタリアは、すべてのクラブが強いのです。

 キエーヴォの躍進は、イタリアが世界で最も難しく、厳しいリーグであるということを表している。


 ザックローニが率いていたラツィオは、6位。

 この後、ザックローニはラツィオの監督から退く。


 中畑のパルマは、結局10位でシーズンを終えた。

 しかしブランデッリのパルマは、イタリアの国内カップ戦のコッパ・イタリアで、中畑のゴールもあって、ユベントスを相手に勝利して、優勝した。

 これで来季も、UEFAカップに出場することができた。

 しかしこれが、パルマの最後のタイトルになる。



 得点王は24点で、ユベントスの、フランス代表のドレゼゲと、ピアチェンツァの、イタリア人の、ビューフナー。


 そして倉木が前に所属していたフィオレンティーナは、このシーズンに経営破綻して、セリエC2にまで降格することになった。

 ビッグ7の一角だったクラブでも、降格してしまうという難しさ。

 倉木はその中で生きている。それを身に染みたシーズンだった。







 01‐02シーズンの、チャンピオンズリーグの決勝。

 ローマの決勝戦の相手は、欧州の名門であるレアル・マドリー。

 レアル・マドリーは、ユベントスに所属していたシダンや、ポルトガル代表の、フーゴや、ブラジル代表の、ロベルト・ガルロスらがいる。


 倉木飛馬は、この日も、トッチの控えとして、ローマのベンチに座っていた。

 欧州で、いや、世界で一番強いチームを決める大会の、欧州チャンピオンズリーグの決勝の舞台は、スコットランドのナショナルスタジアムだ。

 そのスタジアムには、ローマや、レアル・マドリーの熱狂的なサポーターや、サッカーファンらが詰めかけて、どちらのクラブが栄光を手にするのかと、期待に胸を膨らませていた。


 そのピッチに、一人の日本人がたどり着いた。

 その名も、倉木飛馬。

 さぁ、スタジアムの熱気が最高潮に達しています。

 決勝は、一発勝負のキックオフ。

 勝敗なんて、紙一重。成功したか、しなかったかなんて、そんなものは神様が決めるもの。

 ローマ対、レアル・マドリー戦が、主審が咥えたホイッスルが合図になってこだました。

ピーーー! ピーー! ピーー!


 うおォォォォオオオォォォオ!!

 この試合終了のホイッスルと同時に、01‐02シーズンの欧州チャンピオンズリーグの優勝クラブが決定したー!


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