青空の日、私が失った物
「いい天気だな」
屋上に上がってきたマサルが私の背中に声を掛けた。
雲一つ無い、梅雨明けの初夏の空。
街は太陽の光に白く煌めいていた。
私は錆びた鉄の柵に頬杖をついて、それらをぼんやりと眺めていた。
「あの時も、こんな空だったよな」私は言った。
「あの時って?」
マサルは私の隣に来て、同じように柵に肘をついた。
「覚えてんだろ? 五年前の、あの時だよ」
マサルは手を口に添えて、少しの間黙った。
「ああ、ユウコのことか?」
「そうだよ。何の相談も無しにアメリカに留学するって言ってさ……。無理やり引き止めに行こうとした俺を、お前は必死になって止めたよな」
私とマサルとユウコの三人は、大学生の頃の親友だった。
「お前、やっぱりあの頃ユウコのこと……」
それだけ言ってマサルは口を噤んだ。
私は何も答えなかった。
「ユウコのためだ。俺たちがどうこう言う資格は無かったはずだろ?」とマサル。
「いや、別にお前を恨んでる訳じゃない。もう五年も前の話だ。とっくに割り切ってるよ」
「そうか」
涼しい風が吹いて、シャツの袖がなびいた。
「あの頃は良かったよなあ。難しいことなんて何も考えなくて良かったからさ」と私。
「何も考えてなかったのはお前だけだよ。少なくとも俺は将来について本気で考えてたさ」マサルは私を馬鹿にするように笑った。
「そうだな。今となっては立派な社長だもんな。大したもんだよ、お前は」
「まあ小さな会社だけどな、まだまだこれからだよ」
マサルは大学を出てすぐに起業して、A社を一人で立ち上げた。このビルはA社の本社である。
私はというと、ただひたすら勉強して、なんとか銀行に就職することができたが、特にやりがいを感じている訳でも無かった。
「なあ」私。
「ん?」
「もしあの時、ユウコを止められてたら、今頃俺たちどうなってただろうな」
マサルは何も答え無かった。
「あの時、俺たちは皆んなバラバラになっちまった…。もしずっと一緒に入れたら、俺たち、どうなってたんだろうな」
「特に何も変わって無いだろ、それに俺とお前はこうして一緒にいるじゃないか」
「俺がA社の担当になったのはただの偶然だ。…そう、ただの奇跡なんだよ。本当なら、俺たちはあれ以来顔を合わすことも無かったはずだ」
私は空を見上げ、溜息をついた。
「割り切ったんじゃ無かったのかよ」
「割り切ってたさ……ついこの間まではな」
「……どういうことだよ」マサルは細い目で私を見た。
「本当にユウコは留学で、アメリカに行ったのか?」
「本人がそう言ってたんだから、多分そうなんだろ? アメリカに親戚が居るからって、あいつよく言ってたじゃないか」
マサルはまだ怪訝な表情をしている。
「それは俺も聞いたことがある。だけどな、留学するってのは俺はユウコ本人から直接聞いていない。全部お前から聞かされたことだ」
「俺を疑ってるって言うのか?」
足元で、鈍い色をした車が何台か走り抜けた。
「ユウコが日本を去る二週間前。ユウコの父親が勤めていた会社が倒産してた」
青空が私たちを見下ろす中、しばらくの沈黙が続いた。
「それって……」マサルの掠れた声が沈黙を破った。
「ユウコの家は大量の借金に追われた。ユウコは留学なんかでアメリカに行ったんじゃ無い。大学にも通えなくなって。日本に住む場所を無くして、泣く泣く親戚の居るアメリカへ行ったんだ」
「……そんなの本当か分からないだろう? だいたいお前はそれをどこで……」
「俺も偶然知ったんだ。で詳しく調べてみた」
「……調べたって、一体何を?」
「ユウコの父親はP社に勤務していた。P社は小さな会社で、正直かなり厳しい状況だった。だが、大手企業のM社との契約があったからなんとかやりくりできていたんだ」
上空では飛行機が飛んでいた。騒音が轟く。私は飛行機が遠くまで行くのを見届けてから、続けた。
「しかし、ある日突然M社はP社との契約を破棄したんだ」
「それで、P社は潰れた……?」
マサルの目は宙を漂っていた。
「そうだ。なんでM社が突然契約を破棄したかわかるか?」
「……P社が、条件を変えたんじゃ無いのか?」
「違う。M社は他の会社の契約に乗ったんだ。そしてP社はM社にとって不要になった…」
「その…他の会社って…?」
「A社だよ」
二度目の沈黙。
「お前、大学にいた頃から色々と起業の下準備をしていたよな?」
「違う……」
「お前がP社を潰した」
「違う………」
「お前がユウコの居場所を潰したんだ。」
「違う……。知らなかったんだ、P社がM社と契約を結んでいたことも…ユウコの父親がP社に勤めていたことも…。俺は何も知らなかったんだ!」
「じゃあなんで…あの時俺を止めたんだ? あんな必死になって俺を止めたんだよ?」
彼は明らかに動揺を隠しきれておらず、乾いた唇が小刻みに振動していた。
「答えろよ…。お前は自分の起業を成功させるためにP社を潰した。お前がユウコの居場所を奪ったんだ…」
私の声はマサルを追い詰めた。
「…………」
マサルは黙って俯き、自分の影と向き合った。
「…その通りだよ。全部俺が悪いんだ。俺は俺自身の成功のために、親友を裏切った。本当は全部分かってたんだ。俺がM社の契約を取ればP社がどうなるかも、ユウコの家がどうなるかも……。だけどあの時の俺は自分の道しか見えてなかった。」
マサルが話している間も、私は目をそらすことはなかった。
マサルは続けた。
「ユウコも、大体のことは知ってたみたいだ。ユウコは日本を去る直前、俺にこう言ったよ。あなたは何も悪く無い。私はあなたを応援してる。ってね。俺は五年間、その言葉に甘え続けていたんだ。それに、ユウコが日本を去ったのにはもう一つ理由がある」
「もう一つ…?」
マサルは、重そうなその頭をゆっくりとあげた。
「何もアメリカまで行かなくたって、最低限生活をすることはできる……。多分…俺と二度と顔を合わせたくなかったんだろう」
「マサル。お前がやったことはもう取り返しのつかないのとだ。どんな償いをしようとユウコは救えない。だけどな、俺はお前がそうやってのうのうと暮らしてることが気にくわない」
マサルは表情を変えなかった。
「……そうだよな。お前のおかげで目が覚めたよ」
マサルはそう言って、鉄柵に足をかけて乗り越えた。
最後に彼は言った。
「これがユウコへの償いになるとは思ってないよ。ただの、俺自身へのけじめだ。お前にも、何度謝ろうと許してもらえるなんて思ってない。だけど、最後に一度だけ、謝らせてくれ。本当にすまなかった」
足元で、鈍い音が聞こえた。それに続いて耳触りなクラクションが鳴り響く。
私は呆然と立ち尽くしていた。
これで良かったのか?私はどんな結末を望んでいたんだ? 私はマサルを止められなかった。
こんなこと微塵も望んでいなかったはずなのに。
私も同じように、彼の言葉に惑わされたのだ。ひょっとしたら、これが正解かもしれないと思ってしまった。これで全て解決すると本気で思ってしまった。
頭を抱え空を見た。
私は青空の日、親友を二人失った。