夜明けの迷い羊
この小説はフィクションです。
夜明けの迷い羊
突然何かに引き寄せられるように目が覚める。徐々に目が慣れて自分の部屋の勉強机や本棚の輪郭が見えてくる。あ、またかと雪菜は思った。枕元の時計に手を伸ばし、蛍光塗料で薄黄緑色に光る文字盤を見ると時計の針は午前4時を指している。中々二度寝はできない。眠れるまでには2時間ほど掛かる。学校に行くのは8時。二度寝するとキリが悪い。起き上がり、電灯の紐を引っ張り明かりを点けた。勉強机の椅子に掛けてある赤い半纏を羽織り、机の上に置いてある家の鍵を持ち、部屋の外に出た。一階に下り、靴を履いて玄関の鍵を開けた。外からひんやりとした朝の空気が流れて雪菜の頬に触れた。外はまだ薄暗い。玄関の鍵を閉めて確認し、歩き出した。空は限りなく黒に近い群青色で朝の気配が近づいていることが分かる。電柱が並び、黒い電線が張り巡らされている。
雪菜は2週間前から突然午前4時に目が覚めるようになった。世界で一人ぼっちになったような、投げ出されたような不思議な感覚だった。2、3日すると二度寝を試みてもかえって寝付けずキリの悪い時間に目覚めて学校で気持ちの悪い怠さが残るということも学習した。一番良いのは悪あがきを止めて、起きていることだ。1週間前から雪菜は目が覚めたら散歩するようになった。眠気を吹き飛ばすためでもあるが、夜明けの町を散歩するなんて、わくわくすると思った。真夜中の散歩なら怖い。だけど、夜明けの散歩なら不思議と怖くなかった。雪菜が歩いているとポニーテールの30代くらいの女性がジョギングをしていた。すれ違いざまにどちらともなく会釈をした。雪菜が散歩を始めた日にこの女の人とすれ違った。それから毎朝雪菜が散歩を始めると女の人と会うようになっていた。この人と出会うと雪菜は安心する。夜明けの街をさまよっているのが自分だけじゃないと感じることができる。駐車場に止まっている車、明かりのついていないカーテンで閉ざされた窓。朝の冷たい空気が時間を止めてしまったような静謐感に雪菜は夢中になった。しばらく歩くと小さな公園が見える。季節は秋、いや冬に近づいている。木々の葉は黄色や赤に変化している。雪菜は公園の門を通り、入った。誰も乗っていないブランコや鉄棒、シーソーの3つがこの公園にある遊具だ。雪菜はベンチの方へ向かった。いつもここのベンチに座って朝が来たら家に帰るのが雪菜の散歩コースだ。すると、ベンチには深緑色のダウンジャケットを着た少年が座っていた。雪菜は思わず後ずさりした。彼は雪菜と同い年か、少し年上に見える。黒く垂れた前髪から細い目がこちらを覗いていた。雪菜は気付いた。この人に、どこかで会ったことがある気がする。ああ、そうか。
「あの、真島君だよね。私、原田雪菜。6年生の時、同じクラスだったけど、覚えている?」
「…そうだよ。よく覚えてない。」
それもそうだと雪菜は思った。真島君は中学校に上がってからほとんど学校に来ていないのだから。
「隣に座ってもいいかな。私も毎朝この公園に来てたの。」
真島君は頷いた。雪菜は真島君の隣に座った。真島君は中学校に上がってから急に学校に来なくなった。理由は分からないが、いじめとかケガとか病気だとかという噂は無かった。なぜ真島君が学校に来なくなったのかは誰も知らない。真島君は小学校の頃から物静かで大人しい子だった。2年ぶりに会うことになるとは思わなかったけれど、どこか仄暗い雰囲気は変わらない。だからすぐに真島君だと分かったのかもしれないと雪菜は思った。6年生の時に真島君と雪菜は同じ保健委員会でそれなりに話した記憶がある。
「最近寒くなってきたね。」
「…もう10月の終わりだからな。」
真島君が意外にも普通に返事をしたことに雪菜は安心した。
「真島君も毎日公園に来てるの?」
「朝方は散歩するんだ。」
「へえ。私も。なんかねえ、突然朝早く目が覚めるようになったんだ。」
「…早く目が覚めるならいいじゃないか。昼夜逆転よりは。」
「昼夜逆転?」
「俺は昼に寝て夜に起きる。直らなくなった。」
昼に寝て夜に起きる。それを昼夜逆転ということを雪菜は初めて知った。
「なんだか夜行性の動物みたいだね。」
雪菜はそう言って思わず口に手を当てた。動物というたとえは他人に対して失礼だったかもしれない。すると真島君はくすり、と笑った。
「俺はコウモリかよ。」
「いや、そうかな。」
雪菜はあいまいな愛想笑いをした。
「どうして夜行性になっちゃったの?」
「夜更かししてたら、そうなった。昼間起きれるように戻したんだけど。」
雪菜は想像した。学校にも行かず、一日中家にいれば時間の感覚も麻痺して鈍感になっていく。目が覚めるのは夕方で眠るのは朝方。明日こそは早く起きようと思い、生活を糺そうとする。だけど、何時に眠っても真島君が起きるのは夜。どうして起きれないんだろうと悔しい思いをする。それが、毎日続くとすれば、耐えがたい苦痛だ。朝早く目覚めるようになってしまった雪菜にもその気持ちは少し分かる。
「…それってツライよね。だって直したくても直せないんでしょ。毎日寝て起きるたびに悔しいじゃん。」
「…そうか。」
真島君はそう言うと、立ち上がった。空を見上げると東の空が明るくなっていた。もうじき日が昇るのだろう。
「それじゃあ、俺帰るわ。」
真島君はそのまま公園の外に歩いて行った。雪菜は息を吸った。朝の澄んだ空気が胸いっぱいに充満する。雪菜は立ち上がり、家の方向へ歩いた。
真島は自宅のマンションに帰ると、ベッドの上に座った。今日は思わず小学校の時の同級生に再会した。原田雪菜。確か、一緒に保健委員をしていた子だと今思い出した。2年前のことだが、何年も遠い昔のように感じられた。部屋の外では両親が起きる気配がした。真島は中学校に上がってから徐々に学校に行けなくなった。理由は無い。いじめられたわけでもない。だけど、学校に行くことが少しずつ重荷になっていた。そして家にいるようになった。両親は初めこそ狼狽したが、今は落ち着いて自分のことを見守っている。病院の先生にもそう言われているからだ。そして、徐々に睡眠のリズムが狂い、今では完全に昼夜逆転してしまった。情けないと思う。だが、体が言うことを聞かない。それってツライよね。原田の言葉を思い出した。辛いと言われたのは初めてだった。両親は自分に怠けている、だらしないと言っていた。大学生で一人暮らしをしている兄も同じことを言った。それは当たり前だと真島は思った。学校にも行かずに家に閉じこもり、昼間に寝て夜に起きている。怠惰な生活に他ならない。それでも真島は苦しんでいた。なぜ、普通に生活できないのか。踏ん切りがつかない。明日は学校に行こうと思い、準備をする。だけど、次の日学校に行こうとしても足が動かない。辛いよね。どうして、その気持ちが2年前から会っていない同級生が見抜けたのだろうか。一つ、思い出した。6年生の時にクラスで1人の女子が嘔吐した時があった。急に油ものを食べて、胸やけをしたのだ。真島は思わず後ずさりをした。汚い、とさえ思ったかもしれない。その時彼女の隣にいた原田は迷わずに彼女の背をさすってやっていた。すぐに教師が気付き、後片付けをした。そうだ、原田は優しいヤツだった。
雪菜は急に目が覚めた。枕元の時計を確認した。午前4時。今日もまた目が覚めてしまった。昨日は体育の授業があって体が疲れていたから朝まで眠れると思ったが、やはり駄目だったようだ。雪菜は赤い半纏を羽織り、家の鍵を持つと外に出た。いつも通り公園まで歩く。ジョギングをする女の人とすれ違い、会釈をした。公園に着くとベンチに真島君が座っていた。雪菜はつかつかと歩き、あいさつをした。
「おはよう、今日も寒いね。」
「おう、おはよう。」
雪菜は話し相手が出来てラッキーだと思った。一人で公園にいるのも少し飽きてきたところだ。
「最近何してるの?」
「うーん、本読んだりしてる。図書館に行くんだ。10時まではやってるから。」
「へえ。どんな本読むの?」
「SFとか短編かな。原田は趣味とかあるのか?」
「うーん。特にないかな。本もあんまり読まないかも。」
雪菜は特に趣味や楽しいことがあるわけではない。だから真島君が少し羨ましくなった。
「…学校、どうなってる?」
真島君から学校について聞いてきたので雪菜は驚いた。
「真島君は今多分2組だよ。ほら、宮田君とか岡田さんとか。私は3組。この前文化祭があったの。」
「宮田は覚えてる。文化祭?」
「ダンスするんだけど私はリズム感が無いから後ろの方で踊ってた。あんな恥ずかしいこと皆良くできるなって思ったよ。」
「へえ、そうか。原田は部活とか入ってるのか?」
「入ってないよ。初めはテニス部にいたんだけど練習が辛いのと人間関係がめんどくさそうで辞めたんだ。」雪菜は1年生の時に友達に誘われてテニス部に入った。だが先輩と後輩の関係が意外と厳しかった。それに運動神経の悪い雪菜はテニスの練習も全く楽しくなかった。
「辞めた?」
「そうだよ。どうせ部活だもん。」
「…なるほどな。辞めたりしても、後腐れっていうのかな。もやもやした気持ちにならないのか?」
「ううん。だって無理して3年間テニスやるよりはましだよ。」
雪菜はそう言った。真島君は不思議そうな顔をしていた。
「俺、何で学校に行けないのか自分でもよく分からないんだよね。」
雪菜はどきり、とした。雪菜は真島君がどうして学校に行かないのか聞かないようにしていた。そのタブーを真島君自身が話題にしたから少し驚いたのだ。
「でも物事の全部に理由なんてないんじゃないかな。まあ来れるならおいでよ。真島君がいじめとられたとか病気とかヘンなウワサも無いよ。それに先生が言ってたけどウチの学年不気味なくらい大人しい子が多くて反抗する不良とかいないから別にいじめられたりしないと思うから。」
「…うん。来られたら、来るよ。」
真島君はそれじゃ、と言うと立ち上がり、帰って行った。雪菜は少し余計にしゃべりすぎたと思った。真島君は学校に行きたくても行けないのだ。自分が来いと言ったくらいで来れるならとっくに学校に行っているだろう。せっかくできた朝の徘徊仲間を傷つけてしまったのではないかと雪菜は心配になった。
真島は家に帰り、ベッドの上に座った。来れるなら、おいでよと雪菜は言っていた。同じ学年の生徒たちは皆大人しい子が多い。学校に行かなくなってから真島は学校のことについて何一つ知らなかった。だから雪菜が話す学校の情報は新鮮だった。真島は1日に3冊は本を読むし参考書を読んで勉強もしているから学習に遅れは無いと自分でも思う。だけど、本当の心の年齢は12歳で止まってしまったのではないかと思った。これから自分はどうするのだろうかと考えると言い知れぬ不安に襲われる時がある。少子化の影響で私立の高校は定員割れしているから入ることは難しくないから安心しなさいと父親は言っていた。しかし、入学したところでまた学校に行けなくなったら?そんな不安がある。本当に、このままで良いのだろうか。
目が覚める。午前4時。雪菜は立ち上がり、半纏を羽織り外に出た。起きれて良かったと思った。公園に行って、真島君に会わなければならない。真島君は来るだろうか。雪菜は公園を目指して歩いた。群青色の空。ひんやりとした空気。いつもは好きな朝の空気が冷たいように感じられた。雪菜が公園に着くと、公園のベンチには、真島君がいた。
「真島くん。」
雪菜は手を振り、駆け寄った。
「おはよう原田。」
真島君の様子は昨日と変わった様子はない。雪菜は安心した。
「あのさあ、昨日はごめんね。学校に来いなんて言ってさ。私の一言で来れたらとっくに来てるよなーって思って。」
「いや、いいんだ。」
「あれ、真島君前髪切った?」
「うん。」
真島君の顔に張り付くように垂れ下がっていた前髪は眉毛の上まで短く切られていた。
「自分で切ったの?」
「そうだよ。」
「上手だねえ、床屋さんになれるよ。」
真島君は頭を掻いた。
「ねえ、おススメの本とかあったら教えてよ。読書感想文の宿題が出たんだ。」
「うーん。伝記とかがいいんじゃないのか。書きやすそうだから。」
伝記といったらエジソンとか徳川家康の生涯を書いたものだ。確かにそれなら感想が書きやすいだろう。
「それじゃあ図書館で探してみるよ。あ、チョコレート食べる?」
雪菜はポケットから板チョコを取り出し割った。ぱきり、と一枚のチョコはちょうど半分に割れた。雪菜は片方を真島君に差し出した。真島君はありがとう、と言うと受け取った。雪菜はチョコレートを口に運んだ。
空の東端が明るくなり始めた。もうじき夜が明けるだろう。
「…俺、昨日学校に電話してさ。とりあえず今日から保健室に行くんだ。」
真島君がぽつり、と言った。
「学校に来るの?」
真島君はそうだよ。と言った。
「お前の話聞いてたら、なんていうのかな。そんな意気込んで学校って行かなくていい。怖い場所じゃないって思えるようになった。なんか、俺の中で勝手に学校のイメージ作って、それに怯えてたのかなって思ったんだ。」
「へえ、良かったね。そうだよ。適当にやればいいんだよ。やってみなきゃ分からないからね。」
雪菜はそう言ってにっこりと笑った。
真島もふっと笑えた。二匹の夜明けの街をさまよう迷い羊は笑顔になった。一羽の鳩が飛んで行った。やっぱり原田は優しいヤツだと真島は思った。
ありがとうございました。