052 夕闇の教室で
教室に入ると、俺の席に制服姿の女子生徒が座っていた。
夕日に染まった空から、僅かに入ってくるオレンジ色の光りが教室を不思議な色彩に染めていた。
そんな淡い色の光りの中で座っている女子生徒。
俺はその座っている女子生徒の後ろ姿で、誰だかすぐにわかってしまった。
その特徴的な茶色の髪と、高校姓とは思えないプロポーションは、このクラスで、いや、この学校でも一人しかいないだろう。
そう、それは俺をこんな姿にした魔法使いの後ろ姿だった。
「絵理沙」
俺の声に反応した絵理沙はくるりと振り向いた。その表情は笑顔だった。
「綾香ちゃん、おかえりなさい」
そう言いながら微笑む絵理沙。
妙に落ち着いているように見える。そして、妙に絵理沙らしくない。
何処がと言われて応えられないが、何かがちょっと違った。
「絵理沙、もしかして俺を待ってたのか?」
絵理沙は小さく頷いた。
「うん、どうせ私の家はすぐそこだしね」
「すぐそこって?」
「第二校舎だし」
確かに第二校舎はすごく近い。でもあそこを家と表現するのは間違っているだろ。
でも、絵理沙が俺を待っていた理由は、たぶんすぐに家に帰れるからじゃないだろう。
そんな理由なら、毎日俺を待っていてもおかしくない。
まぁ、その考え方もおかしいんだけど。
「何で俺を待ってたんだ? 家が近いから待ってた訳じゃないだろ?」
俺の問いにくっと唇を噛む絵理沙。
すっと立ちあがって手を後ろで組むと、ふいに天井を見上げた。
「何でだろうね? 多分、綾香ちゃんが心配だったからじゃないかな?」
そう言いながら視線を俺に向ける。
絵理沙の表情は本当に俺を心配してたように思えた。
「………そうか。心配かけてごめん」
「ううん、いいよ。綾香ちゃんが元気そうだから私は安心したしね」
絵理沙はにこりと優しく微笑んだ。
「そっか。まぁ、あれだ。心配かけたな」
「うん……心配……ちょっとかけすぎだよ?」
すっと視線を下げる絵理沙。
「えっ?」
慌てて絵理沙は顔を上げると、引きつった笑顔になった。
どうしたんだよ? やっぱり何かおかしいだろ?
そんな俺の心配を余所に絵理沙は大きく背伸びをすると、俺に背を向けた。
「でも……大丈夫みたいだね」
「大丈夫って?」
「大丈夫そうだから、大丈夫だって言ったんだよ」
絵理沙は教壇の方へと歩いて行った。そして教壇に立つといきなり俺を指差した。
「姫宮綾香くん!」
「えっ? な、なんだよ?」
絵理沙は俺が返事をしなかったせいなのか、大きく溜息をついた。
「駄目だなぁ」
「何がだよ!」
「返事よ」
「返事って……何で返事なんてしなきゃいけないんだ?」
「私はこう見えても、元は先生です」
「それが今、何の関係がある?」
「ないわよ?」
転けそうになった。
「じゃあ言うなよ!」
「もう一度。姫宮綾香くん!」
「だから何だよ?」
「返事はハイでしょ?」
「だから、何で返事をしにゃきゃ駄目なんだよ」
「そりゃ呼ばれてるからでしょ?」
唇を尖らせる絵理沙を見て、俺は諦めた。
何度もこんな事をリピートするのも馬鹿馬鹿しい。
返事をすればいいんだろ? はいはい。
「わかったよ」
「じゃあ、もう一度ね」
「はいはい」
「ハイは一度!」
「はい!」
絵理沙はニコリと微笑む。何が嬉しいんだか……。
「姫宮綾香くん!」
「はい!」
絵理沙は満足そうに二度三度と頷く。そして、いきなり真面目な表情になった。
「今日ね?」
「ん?」
「私は思ったんだ」
絵理沙の声のトーンが下がった。
やっぱりおかしい。
今日はどこか意気消沈してるというか、元気がないんだ。
それはその思っている事に関係するのか?
「思ったって何だよ?」
「あなたは綾香ちゃんなんだなって」
「ん? それってどういう意味だよ?」
俺は今は綾香なんだから、綾香で当たり前じゃないか。
「中身が悟君でも……みんなにとっては綾香ちゃんなんだなって意味」
「ん?」
「解ってない顔だよね?」
「解ってないというか、意味がわかんねぇんだよ。俺は綾香なんだから……」
絵理沙は教壇から降りると、ゆっくりと俺の目の前に歩いて来た。
そして、すっと手を伸ばして俺の頬へ触れる。
頬から絵理沙の手のぬくもりが伝わり、俺の心臓が鼓動を早くした。
「あなたは綾香ちゃんなんだね」
俺は再び首を傾げた。
「例え貴方が何をしても、それは綾香ちゃんが変わったというふうに捕らえられるだけで、余程の関わり合いのある人でも無い限り貴方が悟君だとは思わない」
「……」
「例え、貴方が俺は悟だと言っても、普通の人では信じてくれない」
「おい、どうしたんだ?」
マジでどうした?
「私はね……。姫宮綾香が偽物だってばれるのが怖かったわ。とても心配だったわ。だけど、それは私が心配しすぎていただけだったのかもね」
俺が偽物だとばれないとこいつは困るのか?
心配してもいいだろ? 逆に心配してなきゃ駄目だろ?
いつ何があるかわかんねぇんだぞ?
なのにこいつ……。俺が何をしても偽物だとばれないとでも思っているのか?
「絵理沙、それは間違いだぞ」
絵理沙は俺の言葉に目を開いた。
「えっ?」
「確かに、綾香に関わりの無い人間は俺がどんな事をしようと綾香だと思うだろう。お前の言う通りにな」
「だよね? でも、綾香ちゃんに関わっている人だって、貴方を綾香ちゃんだと認めてるじゃないの」
「絵理沙は、マジでみんなが俺が綾香だと疑ってないって思ってるのか?」
「……違うの?」
不安そうな表情で俺を見る絵理沙。
「違うな」
「嘘だ……。だって、貴方がどんな行動をしようが、みんながそれを受け入れようとしているじゃないの。綾香ちゃんは飛行機事故で記憶喪失になったから変わったって思ってるんじゃないの」
「ああ、そういう設定だからな」
「だから、私が過剰に心配する必要はないんだよね?」
「だから、今は大丈夫だけど、先にどうなるかわかんねーだろうが! どうした? どうしたんだよ? 何かあったのか?」
絵理沙はいきなり黙ってしまった。
「今日のお前はおかしいぞ? 何があったのか言えよ」
絵理沙はゆっくりと口を開く。
「私が……この世界に……残る理由が無ければ……」
そこまで言って絵理沙は俯いた。
だが、俺はそこまで言われて理解した。
こいつは、俺を守るという理由でこの世界に居残ったのかもしれない。
考えてみれば、魔法使いは変身前の姿を人間に晒すなんて駄目だと言っていた。
野木だって、あの姿が本当の姿じゃないんだ。
なのに絵理沙はこの世界に居座った。リスクを冒してまで。
それは俺を殺したからじゃない。
元に戻す為でもない。
すぐには元には戻せないのだから、ずっと側にいなきゃ駄目だって事もない。
そうか、やっぱり絵理沙はこの世界に俺を守る為に居残ったのか。
そして、今なにかがこいつに起こっているんだ。
もしかしたら、魔法世界に戻らなきゃいけない事態になっているのかもしれない。
俺は確かにこいつが好きじゃない。でも……。
こいつがいない今の学校なんて……。
やっぱり俺には絵理沙のいない学園生活は考えられない。
そして、絵理沙はこの世界で俺を守る義務がまだまだあるんだ!
「残る理由はあるだろ!」
絵理沙は潤んだ瞳でじっと俺の事を見た。
「お前は俺が元に戻るまで、俺の側にいろ!」
「で、でも……私は貴方を……」
「殺した張本人だよ! でもな? 俺はお前を憎んでない。逆に……お前に側にいてもらえると安心するんだよ」
絵理沙が右手で口を押さえて俯いた。
「……戻らなくていいのかな?」
やっぱり……。やっぱりそうだったのかよ。
「戻るな。被害者の俺からの命令だ。俺を差し置いて魔法世界に戻れると思っていたのか?」
絵理沙は目頭を腕でこすると、俯いたまま首を振った。
「私も……ちゃんと責任は果たしたいし……それに……」
「それに?」
「……何でもない」
絵理沙は軽く溜息をついた。
「おいおい、なんでここでまた隠す?」
「いいじゃないのよ……。乙女には秘密がつきものでしょ?」
潤んだ瞳でニコリと微笑む絵理沙。
「で、もどらなくてもいいんだろうな?」
「たぶん……貴方が私を必要とするのであれば……」
「……必要だ。そう野木に言っておけ」
絵理沙はこくりと頷いた。
「綾香ちゃん、私はそろそろ帰るね」
そう言うと絵理沙は教壇から教室の前方向の出入口へと歩いて行く。
「絵理沙!」
「えっ?」
絵理沙は驚いた表情で振り向く。
「帰るのは家だよな? こっちの世界の」
ニコリと微笑んだ絵理沙は右手の親指をぐっと立てた。
「うん! もちろん!」
そして絵理沙は教室から出ていった。




