005 死中求活
俺が瞼を開くと、生徒指導室の少し汚れた天井が見えた。
俺は実は生徒指導室のソファーに横になっていたりする。
理由。それはこの残酷で悲惨な現実を知って意識が飛びそうになって倒れそうになったから。
よくドラマとかで驚いてその場で気を失うシーンとかある。
俺は今まであんなのは嘘だ、演技だと思っていた。
だけど、今日、俺は人生の中で最高の衝撃を受けた。実際に爆発のダイレクトな衝撃も受けたが、それよりも男だった俺が女に、それも妹になるという衝撃を受けてしまった…そして、マジで気が遠くなった。
情けないと思うが、なんていうか…そういう事だ。
だから、俺はソファーで休んでいる。というか、北本先生に少し休めば? なんて気楽に言われたんだけどな。
それにしても、気楽すぎるだろ。まるで他人事だ。いや、俺は他人だったな。
あれから多分、十五分くらいは経過していると思う。
そして、俺は自分ですこし冷静さを取り戻しているって解る。
心臓はやっと通常営業に戻ったみたいだし、嫌な汗も引き、熱かった顔も普通になった。
俺が妹になってしまったという現実。もう、それは逃げようの無い現実だと理解しているし、受け入れるしかないと思ってる。
しかし、この世の中は不思議だよな。有り得ない事が実際に起こる。それを身を持って実感してしまった。
そして、俺は冷静になって初めて考え始めた。それはこれからの事だ。
この事実を捻じ曲げる事が出来ない今、これから先は姫宮綾香の姿で生きてゆく事になるだろう。
そうだ…そうなった場合の俺はどうやって生きてゆけばいいんだ?
姫宮悟という存在が消えたんだよな? それはどうやって誤魔化すんだ?
問題が山積みだ。だから考える。
だが…考えたが、考えが到底まとまらない。いや、何をして良いのやらわからない。
「先生…俺は元の悟に戻れないのか?」
そうだ。一番手っ取り早いのは俺が俺に戻る事だ。つい聞きそびれていたが、今になって思いついたから聞いてみるか。
「そうね…戻れない事もないわよ」
北本先生は即答した。そう、俺が悟に戻れると。
俺は慌てて体を起こす。よして自然と笑みがこぼれる。
そりゃそうだ。元に戻れるって言われたんだからな。
「何だよ、戻れるのかよ! じゃあ、早く俺を元に戻してくれよ!」
俺がそう言うと北本先生はフッと、火の消えた蝋燭のように暗く沈んだ。
そんな北本先生を見た瞬間、俺の背筋がぞっとした。笑顔なんて消えた。そして、嫌な予感しかしなくなった。
いや、まさか戻れないとかないよな? さっき戻れるって言ったよな?
「おい!」
「ごめんなさい…戻れない事は無いのだけれど…でも、それはすぐには無理なの」
すぐには無理宣言がきた。
やばい…すぐに戻れないイコールで今は戻れないって事じゃないか!
「あのね、私が数年がかりで蓄積した魔法力をさっきの蘇生術につかってしまったの。だから、体の原子のレベルからの再構築とか…あと何年先になるんだろうなぁって感じ」
「ちょ、ちょっと待って。何年先ってどういう意味だよ?」
「そうね…何年もかかって魔力を貯めないと再構築魔法とか無理だと思う。あと、正直に言うと、再構築は蘇生魔法よりも難しいし…魔力消費も多いし…」
北本先生がすっごく遠い目になってる!
「あ、そうだ。魔力がある程度たまったら、もう一回ほど死んでみる?」
「なっ!?」
「蘇生魔法の方が若干だけど魔力は使わないし…」
「失敗…しないのか?」
「するかもね」
何て奴だ…笑顔で失敗するかもとか…ないだろ!
「却下だよ! そんなの却下だ! 安全に俺を戻してくれ」
「だと…やっぱり再構築かな…」
「えっと、その再構築魔法が使えるまでどのくらいかかるんだよ?」
「多分、最低でも三年…長いと五年くらい先かな? うーん…魔法力さえ溜められればすぐにでも可能だと思うんだけどね、でも今はどちらにしても無理かな」
「あっ! そうだ! ゲームとか、魔力を回復する薬とか、宿に止まれば一気に回復とか、そういうのあるじゃないか? 先生の魔力もそういうので速攻で回復できないのか?」
俺の質問に北本先生は呆れた様子でため息をつく。
「悟君って、あれ…あれよ…そう、中二病って奴?」
「なっ!? ち、違う! さっきから魔法とか言ってる先生の方がよほど中二病っぽいだろ!」
「だって、実際に魔法使いだからね」
「!? ま、魔法使いだったのか?」
「そうよ? 現に魔法を使ってあなたを蘇生したのよ?」
「確かに…」
「で…さっきの話だけね。要するに、何かのアイテムとかで私の魔法力を一気に回復できないかだよね?」
「あ、ああ…」
「それじゃあ聞くけど、人間が大怪我をしてもすぐに良くなると思う? 寝てれば治ると思う?」
「あっ…えっと…」
「じゃあ…極端な例だけど、睡眠不足を薬で解消できる? 一睡もしなくても人間が生きてゆけるように出来る?」
「出来ないかな…」
「そうだよね? 私達、魔法使いは休息によってでしか魔力を回復出来ないの。それもゆっくりとしかね」
「………」
「多少の体調によっての回復量の差はある。だけど、そのゲーム? みたいにアイテムで一気に全回復とかそういうのは根本的に無理なの」
確かに…北本先生の言いたい事はなんとなく解った。
ゲームはゲームだ。そんなに都合よくこの世界は出来ていないのだ。
寝不足は寝不足。睡眠を薬でカバーとか…今の現代科学をもってしても無理だ。
そう、ゲームは二四時間でも歩き続けられる。結局は都合よく作られている…
「で…ゆっくりってどの位回復するんだ?」
「うーん…そうね…悟君にはゲーム感覚で説明してあげるわ。要するに私のMPが1000でMAXだとすると、私は一日で一から三しか回復しないの」
「……少なっ」
目の前が真っ暗になった。体から力が抜けた。
垂直にがくんと両膝をついてしまった。そして、俺はそのまま前へと倒れ込んで両手をついた。
そう、四つん這いになった…無意識に俺は四つん這いになっていた。
そうか、これが絶望って奴か…終った…終ったよ…俺…そんな何年も待たないといけないのかよ…
「何で世界が終ったかのような顔してるの?」
唇を尖らせて、それほど悪気もない様子で俺を見る北本先生。
こうなったのも…あんたのせいだろ!
心せ叫びながら俺は北本先生を本気で睨んだ。
しかし、先生は俺の睨みにもまったく動じない。
「そうだ。貴方の妹さんって飛行機事故で行方不明なのよね?」
そして、俺に向かっていきなり不謹慎な事をづけづけと聞き始める。
なんて無神経な奴なんだ!
「と言う事は、本物の綾香さんは今はいないって事だよね?」
くそ…何でそんな事聞きやがるんだよ…
「いないんじゃない。行方不明なだけだ!」
「うん。要点はそこじゃないの。要するに、現在は行方がわからないって事よね?」
「……そうだよ」
「なるほどね…」
「妹が行方不明だったどうしたって言うんだよ」
「助かったなって!」
先生がいきなり笑顔になった。
人が行方不明になったって言ったのに笑顔になる奴は始めてみた。
もう、この先生は絶対に許さない! いや、許したくない!
「じゃあ大丈夫ね! そう、貴方は飛行機事故から無事に生還した事にすればいいんでしょ?」
何だそれ? まさか?
「ちょっと待て! 俺が妹の綾香になって、行方不明じゃ無かった事にするつもりか?」
「うん! 大正解よ!」
北本先生はマックス不謹慎な満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、俺はどうするんだよ? 悟はこの学校で神隠しにでもあって行方不明になったって事にでもするのか?」
まさかそれはないだろ? そんな非常識な事、常識的に考えてもないだろ?
「それいいアイデアね! そうね、そうしましょう!」
さ、採用なのか!?
「ま、待て!」
「ううん待たない。だって素晴らしいアイデアだもん」
「どこがだよ!」
「神隠しってね、この現代社会でもある事じゃない。突然行方がわからなくなった事例なんていくつもあるわ。そして、その程度の理由づけなら私が魔法でなんとか出来そうだもの」
北本先生は鼻息を荒く俺に言い放った。しかし、ここで俺は気が付いた。
「魔法だと? 北本先生は魔法力はもうないってさっき言わなかったか?」
全魔法力を俺の蘇生に使ったと言ったはずだ。なのに魔法でなんとかすると言った。
そして、先生は俺の言葉にはまったく動揺もしない。逆に笑顔になった。
「ああ、魔法力の事? それは、蘇生魔法は無理って意味で言ったの。簡単にいうと蘇生が千の魔法力だとすると、神隠しは五程度の魔法力で出来るわ」
「……なんだよその数値の差は」
千と五なんて差がありすぎだろ? ロールプレイングゲームとかだとそんな魔力の差なんて無いぞ?
「現実の魔法なんてそんなものよ?」
先生は軽く言い放った。
確かに…まぁ確かにそうかもしれないけど…
「じゃあ神隠しをしよっか!」
「しよっかって…鬼ごっとじゃないんだぞ?」
「じゃあ…神隠しにしよう!」
「………」
しかし、簡単に言うなこの先生は。
それも言葉がだんだんとなれなれしくなってるだろ。
「あ、いや…やっぱり神隠しとかないだろ? いや、別にそんな事しなくても…」
「だめよ! 絶対に実行しなきゃ! このまま貴方が行方不明になったら、収拾がつかなくなるもの!」
その原因を作ったのはあんただろ!
ああ、もうなんか呆れて、悔しくて、悲しくなってきた…
「あら? 何で泣いてるの? うれし泣き? まぁ女の子だし、別に泣いても構わないけどね」
「誰が嬉しくって泣いてるんだよ!」
「…良い作戦が思い付いたから嬉し泣き?」
どつきたくなった。正直、右ストレートを先生の顎にヒットさせたくなった。
「あ、そうだ…悟君に…じゃない…今後は綾香さんって言わないとまずいわね? 綾香さんに言っておくけど、今日の件は他言しちゃだめよ? 絶対だよ?」
「何でだよ…」
「簡単に話すとね…他の人間に魔法の事がばれると、貴方も私もこの世界から永久追放されるの」
へっ?
「ちょっとまって! 俺は被害者なんだぞ? なんで俺が永久追放されるんだよ?」
「この現代社会においては魔法の存在は絶対に秘密なの。だから魔法の存在を故意に暴く人間はこの世界から異次元に飛ばされる」
「何だその怖い設定は! それこそ本当の神隠しじゃないか! もしかして、今までの神隠しって魔法で消されてるのか?」
「ううん、それは無いと思うけど…」
「でも、異次元に飛ばされるんだろ?」
「そうね…でも、この世界からの存在も消すからね」
「へっ? 存在?」
「そうよ? この世界に存在していたという事実も消しちゃうって事よ」
何か恐ろしい事を聞いてしまった…
という事は、俺がもしも魔法の事を暴露すると、俺はこの世から存在も記憶もすべてを抹消されるのか?
俺がこの世界にいたという事実が消えるのか? な、なんと恐ろしい!
「おい! 何で実験室の鍵を閉めてなかったんだよ! そして、何で学校で実験なんてするんだよ! 先生が鍵さえ閉めてたらこんな事にはなってなかったんだろ?」
「そ、それは…誰もこないと思ったからよ! あと、ばれても記憶操作すればいいと思ってたから!」
半分開き直ってるだろ? そして酷い事を平気で言ってやがる。記憶操作とか…
んっ? でも俺の記憶は操作されてないな?
絶対に秘密なら、記憶操作すればいいんじゃないのか?
いっそ俺を綾香って魔法で洗脳すればよかったんじゃないのか?
「おい。何で俺の記憶を操作しないんだ? 俺の記憶を操作すれば…悟だった記憶を操作すれば、北本先生は安泰だったんじゃないのか?」
北本先生は『う~ん』と唸りながら両腕を組んだ。
「それはそれでその場しのぎだし、本物の綾香さんが見つかった時に面倒だし、そして、魔法力が足りないし…」
どうやら最後の理由が本当らしいな。
「いくついるんだ? その記憶操作の魔法って…魔法力が」
「ええと…世界の記憶操作は…千?」
蘇生と同じじゃないか!
「え、えっと…でも、でもね? 良かったと思わない?」
「何がだよ!」
「記憶操作しなかったのよ? 本当は全世界から貴方の記憶を消す方が楽だったのに」
「全世界からだと?」
「記憶操作魔法の対象人数はね、その魔法の対象者に関わる全員だから。下手をすると全世界なの」
「なっ…」
なんて恐ろしい魔法なんだ。
という事は、俺が存在していたという事実を俺の知り合いから根こそぎなくす事も出来たのか?
と言う事は…俺を蘇生した。イコールで俺に気を使ったのか?
……生き返っただけでも良かったと思うべきなのか?
「でも、そんな高レベルの魔法を使ったらバレるから出来なかったんだけどね♪」
やっぱり保身に走ってたんじゃないか!
ちょっといい奴かと思って損した!
「で? 魔法は絶対秘密だから? その存在がばれたら俺も追放ってことになるのか?」
「そうよ。私はこの世界に修行で来てるから余計にね」
「修行って…そうだよ。北本先生は人間じゃないのか? 会話にもちょっと違和感があったんだよな。この世界とか言ってたし」
「私? 私はこの世界の住人じゃないわ」
「なんと…異世界人なのか?」
「そうね。そう呼んで貰っても構わないわ」
マジかよ? 異世界人? SFなのか?
いや、しかし…どう見ても日本人だよな?
何かが俺達と違うようにも見えないし…異世界人って人間なのか?
「そんな疑うような目で見ないでよ。私はこちらの世界の人間と何も違わないわ。何もかもが貴方達と同じ。私も異世界人ではあるけど、人間よ」
「…人間?」
「ええ、そうよ…だって異世界と言ってもそこは…」
北本先生はそこまで言うと話を止めた。
その表情から言ってはマズイのだなというのは理解出来た。
「何だよ? 続きは?」
「えっと…機密にかかるとまずいし、これ以上はなし。でも、私は魔法が使える以外は人間と同じとだけ言っておくわ」
ここまで話しておいて…くそ…
キニナル。凄く気になる。きっと俺に話すとマズイ事なんだ。
しかし、きっと追求しても何も話してくれないだろう。仕方ないから別の話題にするか…
「……おい。さっき修行って言ったよな? なのに何で先生なんだよ? あと、修行ならインドの山奥でやれ!」
「それには色々とこちらの事情があるの。あと……インドって何?」
「インドだよ。修行でも先生なら世界地図くらわかんねーのか?」
「えっと…解るけど…何でインドなの?」
「いや…なんとなく、修行はインドの山奥かなって…」
「…そう。じゃあ…私と一緒にインドに行ってくれるかな?」
「どうしてそうなるんだよ!」
何だこの先生は…この重大事件をどう思ってるんだよ?
なんでそんなに余裕なんだよ?
まったく余裕なんて無いのが普通だろ? 俺は余裕なんて無いぞ? 元に戻るまで何年もかかるって言ってたし…
くそおおお! 俺はマジでどうすればいいんだよ!