034 特別実験室にて 中編
正面に座った絵理沙を見ると普通に笑顔を返してきやがった。そして俺は自分の左横を見てしまう。
ば、馬鹿か俺は? 絵理沙が横に座らなかった事に不自然さを感るとか無いだろ?
そうか、これは作戦か? くっそぉぉ……あれはきっとハニートラップだったんだ! 絵理沙が俺に気を持たせるためにやった行為だったんだ!
もう一度絵理沙を見ると、また笑顔を作った。
いや、そんな事ないよな。こいつ、何気にそういうのはしなさそうだしな。
あーあ……まったく、俺も何を考えてるんだか…
「悟君?」
「はひっ」
いきなり悟とか呼ばれて、俺は思わず噛んでしまった。
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だ! 問題ない! で、な、何の話だ?」
本当はかなり心臓がバクバクしまくってる。顔も熱いし、恥ずかしい。しかし、大丈夫じゃないんだ……とか言えるはずもないだろ。
「えっと、特にすごい用事でもないんだけどさ……」
「すごい用事でもない? じゃあなんでこんな場所に連れてくるんだよ?」
俺はもう一度室内を見渡す。
「だって……悟君に『絵理沙さん』とか呼ばれるのは嫌だし、女の子口調の悟君も見てられなかったというか……とりあえず教室じゃゆっくり話せないからね。それでここに来たの」
「いや、絵理沙さんって呼ばれるのが嫌って言われてもさ、まさかお前を絵理沙って呼び捨てにも出来ないだろ? それに俺は女なんだぞ? 女口調が当たり前だろうが。あと、教室でも話せなくはないだろ? 魔法関係の話以外は教室だっていいんじゃないのか?」
絵理沙は不満そうな顔のまま唇を尖らせた。
「それはそうだけどさ……」
《カチャ》
すると、いきなり俺の目の前にコーヒーとケーキが置かれた。
慌てて見上げると野木が笑顔で俺を見ているじゃないか。
「綾香君、さっきは悪かったね。このケーキはお詫びだ。さあ食べてよ! あっ、あと、飲み物は君の好きなキリマンジャロだから」
「あ、ああ、ありがとう……」
と言うか、こいつ……何で俺がキリマンジャロコーヒーが好きだって知ってるんだ?
絵理沙もこいつに俺がこのコーヒー好きだと聞いたとか言っていたけど。
「じゃあ、ゆっくりしていってくれ」
野木は何事もなかったかのように背中を見せた。
「おい野木、ちょっと待てよ。何で俺がコーヒー好きだって知ってるんだよ? それも銘柄まで知ってるとかおかしいだろ……」
野木はきょとんとした表情で振り向いた。
「何でって? それは君とすれ違う時とかに、少しづつ心を読んで君の研究をしたからだけど? 君の趣味とか好みとかに興味があったからね」
こいつ、普通にとんでも無い事を言いやがった!
「野木ぃ! お前はストーカーか! 俺の心を読むとか……ありえねぇ!」
「別にいいじゃないか。僕と君との仲なんだし。ね? 綾香…《ドゴッ!》」
鈍い音が聞こえたかと思うと絵理沙の右拳が野木のみぞおちにめり込んでいた。
野木は前のめりになり苦痛の表情を浮かべている。
「言ったよね? 変な事はするなって!」
絵理沙の声は怒りに震えていた。
「僕は……変な事は……まだしてな…」
「まだじゃなぁぁい! 十分にやてるでしょ!」
再び鈍い音が教室内に響いたかと思うと、野木が空中に舞った。
絵理沙のとどめの左アッパーが決まったらしい。
「えり……さ」《ドザ……》
痛そうな音がした。どう見ても頭から落ちただろ。
「の、野木ぃ? だいじょうぶかぁ?」
床に横たわった野木は気を失っていた。
さっきもそうだけど、すっげーな、絵理沙は。
「まったく! 何をやってるのよ! いっつもいっつもこいつはっ! 私の邪魔………あっ!?」
俺が絵理沙をきょとんとした表情で見ていると、絵理沙と目が合った。
絵理沙は急に真っ赤な顔になると、慌てて振り上げた左拳を仕舞った。
いや、もう色々と遅すぎるだろ?
「あ、ご、ごめんねーあはは……この変態兄貴は私が監視するって言ったのにねーあはは……」
しかし、絵理沙は野木には遠慮しない事がこれで判明したな。
ある意味俺は助かるんだけど……まったく不思議な兄妹だな。
俺は綾香と絶対にこうはならないようにしよう……
「さ、悟君! あれだよ? 私って普段は大人しい方なんだよ? マンションでは大人しかったでしょ? あれがいつもの私なんだよ!?」
マンションで大人しかった記憶があまりない。
「まぁ……俺を助けてくれたんだし、俺は何も言わない。で、話は?」
絵理沙はハっとした表情になる。
「ご、ごめんね。そうだったよね。どうしたんだろ私ったら……えっと……話ね、話っと」
「おい、ちょっと落ち着けよ……」
「あ、あれよ! 今度の体育対抗祭は気をつけてねって事!」
体育対抗祭? 気をつけろだと?
「それってどういう事だよ?」
「ええと、実は今のその体の運動能力は悟君がベースなの。だから男子まではゆかなくっても普通の女子よりはかなり運動能力が高いはずなの」
「はぁ? どういう意味だ?」
「ああ、そっか悟君って空手とかやってたからもしかすると下手な男子よりもずっと運動能力があるかも」
「だからどういう意味だよ?」
絵理沙はイライラしているのか、体を震わせながら顔を赤くしている。
「わかんないかなぁ?」
「わかってたら聞かない」
「だから、あれだよ! その体の見た目は綾香ちゃんだけど、運動能力は悟君って事なの! 悟君の運動センスのまま綾香ちゃんの姿になってるの!」
「あっ……ああ!」
やっと意味を理解した。
「そっか、そうか! なるほど……だから運動が苦手な綾香の体なのに、体育が普通に出来たのか」
「まぁ、それはどうだか解らないけど、でも、その体は通常の女子の体じゃないって事よ」
「だからあれか? 体育対抗祭では、俺にあまり本気になるなって言いたいのか?」
「うん、そういう事! だって綾香ちゃんは運動音痴だったんでしょ?」
「いやいや、さっきも言ったけど、苦手なだけだ。音痴っていう程じゃな。でもまぁ大丈夫だよ。俺は補欠だし、体育対抗祭でやる気なんてまったくないから」
「そうなの? それだといいんだけど」
「でも、あれだな。心配してくれてサンキュ。言われるまでそういう部分も似せないといけないって理解してなかったよ」
マジで参考になった。絵理沙の言う事も一理ある。体育も頑張りすぎないようにしよう。
「悟君は知らないかもだけど、悟君が教室に居ない時にね、綾香ちゃんが前と大分変わったねって話も出てたんだよ?」
「どんな?」
「足が速くなったとか……」
「なるほど……でも俺は俺だからなぁ……綾香にはなりきれないけど」
「でも、なるべく綾香ちゃんとして行動しなきゃなんだからさ」
「了解だ。わかった。気をつけるよ」
そう返事したけど、ちょっと自分でも不安なんだよな。
俺って怒ると素に戻る傾向にあるんだよな。大二郎をのした時もそうだったし。
でもあれだよな、これは自分で気をつけるしかないんだよな。
大丈夫だ。なんとかなる。
俺は絵理沙の忠告を心に刻んだ。




