003 鏡の中の綾香
あれ? 何で俺は寝てるんだろう?
どうも俺はベッドに横になっているらしい。
でも本当になんで俺がベッドに?
俺はゆっくりと瞼を開いた。
最初に俺の視界に入ったのは真っ白な天井。そして、天井から下がる水色の間仕切りカーテン。
次に薬品のなんとも言えない匂いが俺の嗅覚を襲った。
俺はすぐにここが保健室だと理解した。
でも、何で俺が保健室に寝ているんだかさっぱり解らない。
俺はさっきまで何をしてたんだっけ? 思い出せない。
疑問を感じつつも視線を水色の間仕切りカーテンへと向ける。
するとカーテンに影が映り込んだ。ふわふわと動くカーテン。
しばらく見ていると、カーテンの向こうから声が聞こえてきた。
「あーもう! すっごく失敗したわ。まさか生徒が特別実験室に入ってたなんて」
この声は聞き覚えがある。
そう、これは北本先生の声だ。
先生は生徒が実験室に入っていたとか言っている。
言っている……って! ああっそうだ! 思いだしたぞ。
俺は開かずの教室に。そう、特別実験室に入ったんだ。
そこでいきなり何かがあって……気を失ったんだっけ?
ええと、何かがあったんだ?
俺がベッドで頭を悩ませているカーテン越しで、先生が俺が起きていると気が付いていないのか独り言を続けている。
「でも、私の魔法でなんとか蘇生させたし、後は何ごともなかったかのように済ませればOKよね? うん、たぶん大丈夫よ」
何を言ってるんだ? 蘇生? 何事も無かったように済ませればって何だって?
と言うか、俺はなんでここに寝てるのかをまずは考えよう。
すると、いきなり目の前の仕切りのカーテンが開いた。
同時に北本先生と目が合う。
「あっ……」
北本先生の声が漏れた。表情が固まった。
俺は冷静に先生に見詰め返した。
すると、硬直していた先生がいきなり動き出す。それもぎこちなく。
「あ、あら! 気がついたみたいね! 姫宮さん」
再び動き出した先生は引きつった笑顔で俺の名前を呼んだ。
「ええと、もう大丈夫なのかな? ええとね? 私が特別実験室のある廊下を歩いてたら特別実験室のガス爆発に巻き込まれた姫宮さんが見えたの」
んっ? 俺が廊下を歩いてた? ガス爆発に巻き込まれた?
そうなのか? ええと…
もう一度俺は深く考える。そして少しずつだが記憶が戻って来る。
いや、違う…俺は確か…そうだ! 確か実験室の中にフラスコがあって…それが!
まるで砂でできたダムが決壊したかの様に、俺の脳裏に一気に流れ込む記憶という情報。それは特別実験室にあった怪しい液体の事や怪しい本の事、そして…爆発した瞬間をも鮮明に俺に伝えた。
その瞬間、俺は無意識に身震いした。ぞっとした。
「ひ、姫宮さんは爆発の勢いで飛ばされて頭を打ったみたいなの。それで、ちょっと気を失ってたみたいだからここに私が運んできたのよ?」
北本先生の言っている事は違う!
俺は教室の中にあった怪しいフラスコが爆発して、そして気を失ったんだ。
俺は先生の表情を伺う。先生の表情はとてもひきつっている。
間違い無い。先生は動揺している。
でも…あの凄まじい爆発で俺は助かったのか?
いや、確かに体に痛みなんて感じなかったけど…それに今も痛みを感じない。
「ええと…もう夕方だし、怪我もなかったみたいだから帰っても大丈夫よ? ね、姫宮綾香さん」
「えっ?」
「あら? どうしたの姫宮さん?」
いや…先生は何を言ってるんだ? 何で俺の事を妹の名前で呼ぶんだよ?
っていうか………
俺はここに来てすごい違和感に襲われていた。
髪も、腕も、足も、体も、すべてに違和感を感じていた。
まるで自分のものじゃない位の違和感を感じた。
そして…今の声って俺の声じゃないだろ!
「ちょっと待って! どうなってるんだよこれ?」
「ええと…大丈夫よ? 怪我もなかったし。だからもう帰って良いって言ってるのよ? 姫宮綾香さん」
先生は再び妹の名前で俺を呼んだ。
だから、何で妹の名前で呼ぶんだよ? 俺は綾香じゃないぞ?
そして何だこの違和感は…絶対に何かがおかしいって!
「ちょっと待って! この声は何だよ…あーあー…あー」
「えっ? ど、どうしたの? 姫宮さん」
違う。やっぱり俺の声じゃない。というか…
俺は自分の顔を触った。
何かすごくぷにぷにしていて弾力がある。
俺は頭を触った。
すごく髪が長い。それもサラサラすぎる。
俺は自分の体を触った。
柔らかい…違う…これは俺の体じゃない!
何が本当にどうなっているんだ? 北本先生ならわかるのか?
もしかしてこれは夢なのか? 夢なのかよ?
「姫宮さん?」
「先生! 俺は綾香じゃないぞ!」
「へっ? えっ? あっ? えぇぇえ?」
「俺は悟だ。綾香の兄だ!」
北本先生が固まった。そう、見事にガッチガッチに固まった。
人間ってこんなに固まるのかっていう程に固まった。
真冬に濡らしたタオルを北海道で振り回した時みたいに固まった。
わかりずらい表現だったな…しかし…何で俺がこんな…
「何で俺がこんな格好をしてんだ!? これって女子の制服だよな?」
そう、俺はなんと女子の制服を着ていた。
ありえない事ばかりで、俺は混乱しそうになっていた。
そして横では北本先生が固まっている。
《ガラガラ》
ドアの開く音が聞こえた。
ドアの方へと視線を向けると、そこには保健の桶川先生がいる。
今日は休みじゃなかったのか? なんて今はどうでもいいよな。
「北本先生、姫宮さんは気がつきました?」
北本先生は固まった表情のまま、まるでロボットようにギギっと桶川先生の方向を見ている。
しかし、そこまで固まるか?
「え…ええ…だ、だ、大丈夫です」
「そうですか? 何か北本先生が大丈夫じゃなさそうに見えるのですが…」
桶川先生が苦笑した。そりゃそうだろう。俺から見ても大丈夫そうには見えない。
「わ、私は大丈夫です」
「そうですか? まぁ…先生がそう仰るなら…」
そう言った桶川先生が俺に接近する。
「姫宮さん、大丈夫?」
桶川先生が俺の体に触れそうとしたときだった。北本先生がすごい形相で俺と桶川先生の間に割って入った。
「ひ、姫宮さんは大丈夫みたいです! えっと、私ちょっと姫宮さんに話があるので拉致しますね!」
「えっ? 北本先生? 拉致って何ですか?」
「じゃ、じゃあなくって…って…ってぇえ!」
「ひやっ!」
北本先生が狂った? 声を上げた北本先生に桶川先生が超絶驚いてる。
「いくわよ! 綾香さん!」
「えっ? ど、何処に?…うぐっ!」
北本先生はがっちりと俺を抱き抱えると、口を塞ぎやがった。
そして、桶川先生の話も聞かずに俺を抱えて保健室を飛び出した。
「んぐーんぐー」
先生は廊下を突っ走る!
でも、何で俺が北本先生にこうも簡単に抱きかかえられているんだ?
それに何があったんだよ本気でっ! 何で保健室から逃げるんだよ?
俺に何があったんだよ!
保健室を出た北本先生はすごいスピードで走った!
廊下は走っちゃ駄目ですよ! なんて注意されるレベルを超えるスピードで北本先生は走った。
俺の体は走る振動でリズミカルに上下に揺れる。そして妙に体がふわふわっとした。おまけに気持ち悪くなってきた…
「んぐぐー! ぬぐぐつつれんぐん!」(北本先生! どこに連れていくんだよ!)
しかし何も返事は無い。先生は真剣に逃げている。
でも、マジで苦しいから、全力で口をふさがないでくれよ!
「やばい…」
先生は独り言でそう言うと顔を引きつらせて走った。
そして、しばらく走った先生はどこかの教室に飛び込んだ。
俺はその教室に入る瞬間に顔を見上げる。そこには【生徒指導室】と書いてある札がかかっていた。
そして、先生は教室に入ると慌てて鍵を閉める。
密室に俺を連れ込んで何をするつもりだよ? まったく意味がわかんねぇ…
「ふう…これで一安心ね」
鍵を閉めて本当に安心したのか、先生はやっと俺を床に下ろしてくれた。
「先生! 何するんだよ!」
俺はとりあえず怒鳴った。何で保健室から逃げたのか。何で生徒指導室に連れてこられたのか。全てが意味不明だからだ。
そして、怒鳴りながら自分の容姿を確認する。
やっぱり、俺は女子の制服を着ている。ご丁寧にスカートまで穿いている。そして…胸がちょっと膨らんでるし、何か視線が低い気もする。
「何だよマジでこれ…」
「ええと…姫宮さん?」
「何だよ」
「本当に貴方は一年の姫宮綾香さんじゃないの?」
「だから、俺は三年の悟だ。兄の方だって言ってるだろ?」
俺がそう言うと、北本先生は頭を抱えてソファーにへたり込んだ。
「ああ…大失敗だわ…もぅぅぅ!」
北本先生はソファーに顔を埋めて首を左右に振りまくった。
「先生、ちょっと聞いてもいいか? 何で俺が女子の制服を着てるんだ? それに何でこんなに声が高いんだ? 何で俺を妹の名前で呼ぶんだ? 何かすごい違和感まみれなんだけど、何でだ? 何だよ?」
俺の疑問に先生は深い溜息をつくきながら顔を上げる。そして、半場諦めの表情で俺に言った。
「はいはい…一気に聞かないでくれるかな? 今から順序よく説明するから」
俺はまた自分の両手両足を見た。
正直、違和感どころじゃない。これは自分の手足じゃないって解る。いや、そう見えるだけなのか?
肩に掛かる違和感は髪はまるで本物の女子の髪だ。
おまけだが、俺は先週に散髪したばかりだったりする。
ここで俺は現実的に考える。俺が女になるなんて非現実的すぎる。だから、今の状況を現実的に考えてみた。
まず、髪の気。これはもしかするとこれはウィッグなのかも?
声が高いのはヘリウムガスでも吸わされたのか?
女子の制服は着せればいいだけだ。
でもなんでそんな事を俺にする? メリットがまったく無いだろ?
俺はどんな格好をしてるんだ? 何処かに容姿を確認できるものがないかな。
俺は周囲を見渡した。
「そんなにキョロキョロしなくってもいいわ。私がちゃんと理解が出来るように説明をするから」
「おい、鏡は無いのか? 俺の姿を確認させろよ」
「だからストップ! ちゃんと私の話を聞きなさいって言ってるでしょ!」
ソファーから立ちあがり、そして俺を指差してビシっと言い切る北本先生。
「で、でも…な?」
「聞きなさい! 先生の言う事が聞けないの?」
「!?」
俺は北本先生の強い言葉に固まってしまった。
「そこのソファーに座りなさい!」
そして、俺はしぶしぶ中央にあるソファーに腰をかける。いや、駄目すぎだろ俺?
俺が意気消沈している中、目の前に北本先生が座った。
「まず、何であなたが女の格好かというと、それは今の貴方が女性だからよ」
「はい? 俺は女?」
「そう、貴方の妹の姫宮綾香になっているの。声も女の子の声になってるわ」
「い…いや、えっ? ちょっと待ってくれ。俺が女? 俺が綾香? 何を馬鹿な事を言ってるんだ? あははは…」
取りあえず笑っておいた。……って、駄目だよな?
しかし、理解ができないだろ。俺が女?
……いやいや、俺は男だ。正真正銘の男だぞ? 十八年間ずっと男で生きて来たんだぞ?
「信じてないみたいね?」
「あ、あたりまえだろ?」
「でも、事実よ」
「事実って…いや、待てよ…」
「貴方だって気が付いているんでしょ? 違和感に」
「そ、そりゃ…」
気が付いてるから質問をしてるんじゃないか!
違和感まみれだよ…
俺は教室の中を見渡した。そして、奥に姿見を発見した。
「ちょ、ちょっと待っててくれ」
「好きにすれば良いでしょ…」
俺は慌ててその姿見の前まで移動した。そして、自分の姿を映した。
俺は言葉を失った。
「……………綾香?」
そう、鏡の中には行方不明になったはずの俺の妹。綾香がいたのだ。
本物の綾香がそこにいたのだ。
って、どうなってんだよ!