029 希望の炎と絵理沙の笑顔 前編
水晶の中で揺らぐオレンジ色の炎。こみ上げてくる熱いなにか。
俺は自分の胸をぐっと押さえた。
俺は何だかんだと言って、本当は気持ちの中では綾香の生存を諦めてたんだ。
茜ちゃんだけじゃない。俺も今までずっと生きていると思いながらも、心の底では死んでるかもしれないと思っていたんだ。
でもそれは違った。俺は間違っていた。
そう…綾香は…生きていた。
俺はゆっくりと顔を上げる。
そこには優しい笑みの絵理沙の顔があった。
お前の笑顔を見ていると、お前が言った事を信じられる気がする。
もう一度水晶へと視線を戻す。
揺らぐオレンジの炎をしっかりと目に焼き付ける。
綾香の生きている証拠をしっかりと見る。
そうだ…綾香は生きているんだ。
そうだ、生きてるんだ!
俺はぎゅっと両拳を握りしめた。
「よかったね…悟君…」
絵理沙の声に顔を上げる。
おかしい…絵理沙がぼやけて見えない。そして視界が歪んでいる。
すると、絵理沙の声が急に震えだす。
「色々と迷惑をかけて…ごめんなさい。でも…私も頑張るから…妹さんが見つかればいいね…いっしょに見つけようね…」
その震えが音叉のように俺に伝わったのか、俺の声まで震えだした。
「あり…がとう…あれ? なんか…ごめん…俺…なんでこんな所で…おかしい…」
熱いものが瞳から溢れでてしまった。
懸命に腕で拭うが、あまりの量に意味をなさない。
男の癖に…俺は男なのに…絵理沙の前で…
「べ、別に俺は…泣き上戸って訳じゃないんだけぞ? でも…おっかしいなぁ…」
「……悟君」
絵理沙がすっと寄ってくるのを感じた。
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何分ほど経ったのだろうか。
ふと気がつくと俺は声を出して泣いていた。
そして、気が付けば柔らかい感触の中に俺の顔は埋まっていた。
そう、俺は絵理沙の胸の中で泣いてしまったのだった。
俺、姫宮悟は事情により、妹の姫宮綾香の姿をしている。
そして、今の俺は…俺を殺した張本人に抱きしめられていた。
柔らかな感触が顔に触れて脳内を妙な気持ちが駆け巡る。
あまりの心地よさにこのままずっと絵理沙に抱かれていたいなんて思ってしまう。
でも駄目だ。
こんなんじゃ駄目なんだ…
俺は絵理沙の両肩へ手をやった。
「悟君?」
そして、そのままぐっと体を起こした。
「ごめん…男の癖に…絵理沙の…」
言葉にならないとはこの事だ。もう恥ずかしさで言葉を続けられなかった。
「別にいいのに…私は全然気にしてないのに…」
絵理沙の優しい声。
「いや…駄目だろこんなんじゃ」
生まれてこのかた、女性の胸の中で泣いたのは母さんしかないはずだ。なのに俺は…俺を殺した魔法使い。絵理沙の胸で泣いてしまった。
心の中で許してないとか思っているのに、抱き付くとか…俺は何者だよ…
少し自己嫌悪に陥る。そして、俺は気が付いた。そうだ…
「絵理沙」
「な、何?」
絵理沙は驚いたようにビクンと体を震わせた。そんな絵理沙を見ながら、今度は俺は頭を下げた。
「ありがとう」
「えっ?」
「綾香を…生きているって調べてくれてありがとう…」
「………うん」
絵理沙が弱々しく返事をしてきた。そして…
「話に続きがあるの…聞いて貰えるかな…」
俺はゆっくりと頭を上げる。すると、険しい表情の絵理沙。俺もそんな絵理沙を見て胸を押さえた。
心臓が痛い。ドキドキが止まらない。安心と不安と緊張で押しつぶされそうだ。
でも…絵理沙だって同じはず。緊張しているはずだ。
「ああ…」
俺は数回深呼吸をした。絵理沙も深呼吸をする。そして…
「綾香ちゃんは…記憶喪失になってるだと思うの」
俺の瞳を見て言い切った。
「えっ?」
衝撃の一言だった。綾香は生きているけど記憶喪失になっていると絵理沙の言葉に俺は動揺する。
「記憶喪失ってどういう事だ?」
俺は水晶に視線を移す。
揺らぐ小さなオレンジ色の炎は、弱々しく光を放っている。
「ええとね…これはあいつが今の綾香ちゃんの状態を予測した結果という事を前提に聞いて貰えるかな?」
野木の予想? って…
「ああ…わかった」
絵理沙はさらに険しい表情で説明を始めた。
「水晶に浮かぶ炎の色には意味があるの」
「……ああ」
「一般的な通常の健全な人の炎の色は赤」
健全な人は赤? 水晶に浮かぶ炎はオレンジだ。
「青だと病で、黄色だと意識が無い危険な状態って意味になるの」
だんだんと不安に襲われる。オレンジ色の意味が悪い意味なんじゃないのかって不安に襲われる。
「でね…綾香ちゃんの色はオレンジ」
俺は《ごくり》と唾を飲んだ。
「オレンジは…特殊な状態と言う意味。精神的には普通じゃない状態を示しているの」
「普通じゃない? どういう意味だよ?」
黙って聞いているつもりだったが、俺は思わず質問をしてしまった。しかし、絵理沙は怒る様子もなく俺の問いに答える。
「オレンジは意識はあるけど健全ではないとう言う事なの。でも、病気でもないし、怪我でもない」
「……だから記憶喪失なのか?」
「うん…その可能性が高いの。いま水晶の炎が揺らいでいるよね?」
水晶の中の炎はゆらゆらと震えるように揺らぐ。
「炎が揺らいでいるという事は、精神が安定してないという事なの。精神が安定せずに、意識がある状態。それは記憶喪失の可能性が一番高い」
「…綾香が記憶喪失」
俺は揺らぐ炎をじっと見た。水晶に浮かぶオレンジ色の炎。
綾香の生命を示すその炎はオレンジ色に力なく揺らいでいた。
「その可能性が高いの…」
「そうか…」
「でも安心して。命に危険はないわ」
「…ああ」
俺は大きく息を吐いた。そして綾香を思い浮かべる。綾香は今も何処かで生きている。そして記憶がない…
でも、これで納得できた事があった。そうか、だから…なのか。
「綾香は記憶喪失だから家に戻ってこれないのか…」
綾香は捜索で見つかっていない。そして亡骸も見つかっていない。でも二ヶ月が経過した今も家には戻ってきていない。
「そうね、あの事故からもうすぐ二ヶ月だよね? 記憶がちゃんとあれば普通に家まで戻ってこれるはず。あと、前に悟君が言ったよね? 救出された人のリストに入ってなかったって。記憶があれば後から警察にでも名乗り出られるはずだよね?」
絵理沙も俺と同じ事を考えたらしい。
そう、その通りだ。記憶があれば今ごろ家に戻ってきているはずだ。
生きているけど戻ってこない。考えられるのは二つだ。
一つは記憶がなく戻ってこない。
一つは記憶があるけど、戻れる場所にいない。
しかし、野木は綾香が記憶喪失だと予想した。という事は…記憶がないから戻ってこれないだけなのか?
でも、おかしいと思う事がある。
もしも、近くの海岸に打ち上げられたりしたとして、記憶喪失の少女を見つけた人は放置しておくだろうか?
普通ならば警察に届けるんじゃないのか?
だけど、結論はわからない。今の綾香は生きているという事以外は。
「綾香は何処にいるんだよ…」
「それは私にもわからない。でも…この水晶が反応したという事は、日本の国内にはいるという事…あっ」
絵理沙がハッとした表情を浮かべた。
「どうしたんだよ?」
「あっ…いや…うん、何でもない。ありえないから」
「ありえない?」
「大丈夫。何でもないわ」
そう言われると余計にきになるって…さっきも同じような事なかったか?
「何が大丈夫なんだか…」
「でも、安心していいわ。健康状態は最悪という意味はない。怪我もないし、精神が安定していないという事以外は大丈夫みたいだし…」
「……なんとも言えないよな…安心か…」
「ご、ごめん…なんか…無責任な言い方だよね…」
絵理沙は申し訳なさそうな表情になった。…
「いや、いいよ。俺を心配してくれたんだろ? ありがとう」
「……」
少し顔を赤くして俯く絵理沙。
「今日はここに来て本当によかったよ。綾香が生きていると知っただけでも嬉しかった。あと、生きていればいつかきっと戻ってくる。そう信じて待てるよ。本当にありがとうな」
絵理沙は俯いたまま首を振った。
「ううん…私は何もしてないよ。あいつが勝手にやった事の報告だし」
「それにしても魔法は便利だな…この水晶があれば日本全国の行方不明者の捜索が簡単になるよな。それに、この水晶があれば、綾香が生きているかずっと確認が出来る訳だ」
絵理沙はビクンと体を震わせると、ゆっくりと顔を上げて上目遣いで俺を見た。
「な、何だよ?」
「えっと…言い忘れてたけど…その炎が見えるのって一ヶ月なんだよね」
「えっ? どういう意味だ?」
俺は透明な水晶玉を見た。




