152 並行世界?
「ん……うーん……」
ゆっくりと瞼を開く。
視界に飛び込んできたのは暗闇だった。
うっすらと白い天井が見える。
「ここは?」
見渡せば見覚えのある教室。そう、ここは特別実験室。
「そ、そうだ!」
俺は慌てて、少し痛みのある背中を曲げて立ち上がった。
そしてすぐに異変に気がつく。
「あ、あれ?」
そう、体の異変だ。
「お、男に戻ってる?」
視点が高い。手がごっつい。胸がない。服が学生服になっている。
そして次に教室の中を見渡した。俺を男にした張本人を探すためだ。
「絵理沙? 絵理沙どこだよ! どこにいるんだよ!」
しかし返事はなかった。教室には絵理沙の姿はなかった。
その後に学校中を探しても絵理沙は見つからない。
時計はすでに次の日になっている。
「どこ行きやがったんだよ……」
第二校舎の書庫の掃除用具入れも調べたが、マンションにはもう繋がっていない。
「絵理沙……」
疲れきった体を引きずるように深夜一時に俺は学校を後にした。
そして夜道をひたすら歩く。
「くそ、俺の自転車はどこいったんだよ? 絵理沙が乗って行ったのか?」
体を震わせながらしばらく歩いていると、目の前からふらふらとゆれるヘッドライトが見えた。
次の瞬間、聞き覚えのある声が耳に入ってくる。
「あっ! お兄ちゃん!」
キキーっとブレーキの音。
そして止まったのは俺の妹である姫宮綾香だった。
見慣れたベージュのハーフコートにマフラーをしている。
そう、目の前にあわられたのは容姿も声も姫宮綾香な姫宮綾香だった。
「あ、綾香!?」
知らない間に綾香まで元に戻っているじゃないか。
「もう! こんな時間まで何してたの?」
「いや、って言うかさ、お前は俺の姿を見て何も思わないのか?」
ぽんぽんっと自分の胸を叩く。が、きょとんとしている綾香。
「えっ? お兄ちゃんだよね? 何? 何かあったの?」
「いや、そうだけど? それだけ? お前、俺の姿を見て何も思わないのか? って、そうだよ。お前も元に戻ってるじゃないか?」
「元にって何? 何を言ってるの?」
反応がおかしい。あからさまにおかしい。
綾香が俺が元に戻ったのに驚かない訳がない。
俺の心に不安が過ぎった。
「お前、絵理沙なのか?」
「? 誰それ?」
首を傾げる綾香。
「あ、ちょっと左手の甲を見せて」
「えっ? なになに!?」
手の甲にはホクロがあった。
「もうっ! 嫌じゃないけど、今はそれよりも早く家に戻ろうよ! 私だってこんな夜中って怖いんだから」
「あ、ああそうだな」
どうもこの綾香は本物らしい。でも本物なのに反応が予想外というか……
そして答えの見えない思考を巡らせなから家に戻ると、再び俺は驚いた。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
「おい、俺の部屋って……き、輝星花はどこにいった?」
俺の部屋に入ってみたが輝星花が存在していた形跡がなかったのだ。
それどころか、俺が綾香になった日と変らないほぼ状態だった。
「キラリ? お星さま?」
「お前、輝星花がわからないのか?」
「だからキラリって誰のことなの?」
これはおかしい所じゃないと悟った。
綾香は俺が男に戻った事もわかってない。
自分が南だった事もわかってない。
そして、この家には輝星花が存在していない。
絵理沙という名前にも反応しない。
「おい綾香! 去年の七月に山口の田舎に行ったよな?」
「えっ? おばあちゃんの家? ううん、行ってないけど? 去年の夏休みは結局山口には戻らなかったよね?」
なんだって? 行ってないだと?
「じゃあ、飛行機で山口に行ってさ、途中で事故にあったりしてないのか?」
「なにそれ? なんで事故にあうの? だいたい誰が?」
これはどういう事なんだ?
「そうだ! 野木一郎って先生を知ってるか? 二学期からきた先生だ」
「野木先生? そんな先生は学校にいないよ?」
いない? いないって?
「じゃあ、世界史のあの女の先生、誰だっけ? 去年の一学期からいた。二学期にはいなくなった。ええと、名前忘れたけど、いたよな?」
「うちの高校の世界史って男の先生しかいないよね?」
「……」
結論。
綾香はあの高校入学から、俺の知っている記憶と別の記憶を持っている。
そうでなければ過去が変った。それか俺の記憶がおかしいか。
寝る寸前だった両親とも話をしたが、やはり両親も飛行機事故の事も俺が女になっていた事も覚えていなかった。
家族全員の記憶が俺の知っている記憶の内容と一致しない。
だけど部屋にあったカレンダーの日付は間違っていない。
俺は確かに昨日、あの四連続の修羅場のあとに絵理沙に特別実験室に連れ込まれた。
なにがどうなってるんだ?
まさか、俺が死んで綾香になったのは夢だったと言うのか?
あの過ごした時間は幻だったというのか?
俺は今まで姫宮悟で、あの綾香になった日から今日までの記憶が飛んでいるだけなのか?
ありえない。こんなに鮮明に覚えている夢なんてありえない。
じゃあ過去が改変されたのか? でも、俺の記憶だけが改変されないなんてあるのか?
いや……とりあえず落ち着け。落ち着いて考えるんだ。
「そういえばさ、茜ちゃんとはどうなの? 決着ついた?」
「えっ? 決着?」
突然の質問の意味がまったくわからない。
俺が茜ちゃんと決着とか、どういう事だ?
「そう、決着だよ。お兄ちゃんったら、去年の九月に茜ちゃんに告白されたでしょ。確かにそのすぐ後にくるみさんにも告白されたけど、それでもってもう半年以上も経ったのに今だに二人に返事をしてないとか……酷いと思うんだよね?」
「えっ? いや、えっと」
熱くもないのに体から湯気がでてる。なんだこれ?
冷静になろうと思ってもそれは無理だった。
俺はまったく身に覚えのない事実に動揺するしかなかった。
この世界の俺は茜ちゃんと、なんと隣に住んでいる幼馴染のくるみにまで告白をされているらしい。
それを具体的に、細かく、嘘をついている様子もなく綾香が教えてくれる。
「嘘だよね!? もしかして完全に忘れてたの? それって返事をしないよりももっと酷い事だよ? 女の子が二人も告白してきてるのに忘れてたとかないよね?」
俺の知らない事情をこんなにも堂々と話してくる綾香を見て再び確信した。
本気でこの世界は俺の知っている世界とは違う世界だと。
俺は思考をめぐらせる。
もしかしてこの世界は絵理沙の魔法で俺が飛んできてしまったパラレルワールドなのかもしれない。
だけど、俺のこの記憶が誰かの記憶操作だった可能性も絶対ないとは言えない。
魔法使いならできない訳がない。
でも、そうだとすれば俺が綾香だった事実は無かったって事になるのか?
「あのね? 私は茜ちゃんとカップルになってほしいと思うんだ。そりゃくるみさんもお兄ちゃんの幼馴染だし、ずっと前から好きだったって知ってたけど」
もう何もかもがわからない。俺は二人に告白された記憶もないのに答えなんて出せるはずがない。
そりゃ茜ちゃんもくるみも嫌いじゃない。俺の記憶の中だって茜ちゃんを好きだと思ってる。
くるみだって好きだった時代がある。
だけど、それは両方とももうかなり薄れてしまって、今じゃ堂々と好きだと言える状態じゃない。
「お兄ちゃん聞いてる? もう夜も遅いから脳が働いてないの?」
わからない。どうなってるんだ?
絵理沙は俺を男に戻すって言っていたのに、この状況はなんなんだ? 何がどうなってるんだ?
本気で意味がわからなすぎるだろ。絵理沙、お願いだから教えてくれ。どうなってるんだよ?
今すぐ目の前に現れて俺に説明してくれよ。
「お兄ちゃん、もしかして他に誰か好きな人でもいるの?」
ハッとしてしまう。
こんな状況でも綾香の質問にまた絵理沙と輝星花の顔が浮かんでしまった。
「あ、いや……」
この世界には二人は存在しているかすらわからないのに。
あの二人は夢や幻かもしれないのに。
「あ、あれだよ? 別に好きな人がいるならいるで私はいいけど……。 二人にはちゃんと答えは出してあげてね? せめてお兄ちゃんが卒業する前にだよ?」
「あ、うん、そうだな」
★☆★
朝になった。
普通に朝になった。
起きたら俺の知っている元の世界に戻っているような展開はまったくなかった。
普通に母親に起こされ、暖かい布団の中で目を覚ました。
結論から言うと、どうやらこの世界は夢の世界ではない。
普通に頬を抓れば痛みもあるし、世界に色だってついている。
時計を見ればもう九時だった。
綾香はもう学校に行ったみたいだな。でも三年生の俺はもう学校の授業がない。
「悟、どこか行くの? ごはんはどうするの?」
「今日はいいや」
「もうっ、ちゃんと食べなきゃだめよ?」
俺は制服に着替えてから家を出た。
向かうのはとあるマンションだ。
誰のって? それはもちろん……。
家から歩いて四十分くらいにある中層マンションに到着した。
「たぶんこのマンションだよな?」
外見には見覚えがあった。
でも、まともに正面からこのマンションに入った事はない。
今日があの掃除道具入れ以外から入る始めての日になる。
「よし!」
部屋番号は覚えている。
俺はポストで部屋が存在している事を確認してから呼び出しを押した。
ちなみにポストには名前はなかった。
「留守なのか?」
呼び出しをしてみたが反応はなかった。
二度三度と呼び出すがやっぱり反応はない。
「やっぱりこの世界には輝星花も絵理沙も存在していないのだろうか?」
四度目、五度目の呼び出し。でもやっぱり反応はない。
ちらりと上を向けば監視カメラ。
「他人が住んでたらカメラにも撮られてるし……危険だよな」
急に恐ろしくなって呼び出しを押すのはやめた。
そして、諦めて振り向いたその時だった。
正面から歩いマンションに入ってくる一人の見覚えのある女性を発見した。
思わず足が止まる。目の前の女性も立ち止まってこちらを見ている。
その女性は、そのまま女性らしい格好をしている二十歳前くらい女性だ。
俺は思わず俯いてしまった。
それは直視ができなくなったから。
俺はこの瞳を覚えている。
俺はこの髪の色を忘れる訳がない。
俺はこいつを忘れる訳がない。
ゆっくり顔をあげると、女性はまだ正面に立ったままだった。
不思議そうな表情でこららを見ている。
とてもじゃないが知り合いに再会したような表情には見えない。
くそ、なんだよその小奇麗な格好は?
お前って普段はそんな格好しないじゃないか。
それに何で女なんだよ? なんで女の姿なんだよ?
女性はボーダートップスにチュールスカート。黒を基調とした少し上品な感じの服装だった。
俺の知っているいつもの格好からは想像もつかない姿だった。
だけど、俺はこの女性を間違う訳がない。
そう、この女性こそ野木輝星花。
俺をこの世界に飛ばした魔法使い野木絵理沙の姉だ。
こいつ、俺を覚えてないのか?
女性は俺と呼び出しを交互に見ている。
どうやらマンションに入りたいみたいだ。
「すみません、それ、よろしいですか?」
輝星花は他人行儀に俺に断りをいれる。
俺はすぐに呼び出しの前から移動した。
「ありがとうございます」
輝星花は俺の方を振り返る事なく、そのままマンションの中へと消えていった。
心拍数を上げていた心臓が少し落ち着く。
同時に、かなり残念な気持ちが湧き上がってきた。
「まぁそうだよな? そんなもんだよな? この世界は俺の知っていた世界と違うんだ。輝星花が存在してただけでもいいじゃないか」
自分にそう言い聞かせて、強引にでも自分に納得させる。
そうなんだよ。俺の事が好きだと言ってくれた輝星花はもうこの世界にはいないんだ。
「帰ろう」
ため息をつきながら俺はマンションを後にした。
☆★☆
マンションの上りエレベーターの中で輝星花は胸を両手で押さえていた。
その表情はとても苦しそうで、息も少し荒く。
「…………」
彼女の目の前でエレベーターの扉が開く。
しかし彼女は動かなかった。
すーっとエレベーターの扉が閉まる。
「……」
彼女は無言でそのままボタンを押した。
【一階】
そして、ぐっと歯を食いしばり目を瞑ったまま再びエレベーターで下って行った。




