123 予想外の事態ってこんなに頻発するものなのか? 後編
しっかりと掴まれた俺の腕。もう逃げる事は叶わない。
逃げたところでどうしようもない。
「くっそ……」
俺の体から一気に力が抜けていった。
振り返れば逞しい右腕が俺の腕をしっかりとつかまえている。
いくら俺が男の力のままでも、空手で鍛えた正雄の腕力に勝てるはずがない。
脱力した体にまたしても痛みが走った。
この痛みの中を逃げるなんてマジで無理だよな。
「おい、マジで大丈夫かよ?」
正雄は腕をしっかりとつかまえつつ俺の心配をしている。
逃がしたくないけど、でも俺が気になっているのか?
じゃあいっそ手を離してくれればよかったのに……。
だけどもう遅い。
「大丈夫じゃない……」
俺はそう言いながら床にへたり込んだ。
すると、背後からやさしく手を肩にかける正雄。
そして俺はその温もりを感じながら急激な体の異変と痛みに顔を歪ませた。
「なっ!? なんだ!? 悟!? えっ!?」
いきなり正雄の声のトーンが変わった。驚いたような焦ったような声になった。
何で正雄の声のトーンが変化したのか俺は理解している。それは……。
「あはは……もう……くそ……最悪だ」
俺が綾香になったからだ。
可愛らしい声が俺の口から漏れている。
「おい……なんで? なんで姫宮妹? えっ? さ、悟が……お前が姫宮妹になったのか? って……ちょっと待てよ……マジか……」
肩と腕から手を離す正雄。
声が少し遠くなった。後に下がったのだろうか。
でもそういう反応をするのがは普通だと俺は思う。目の前で人の姿が変化したのだからな。
「ごめんな……正雄……」
俺は謝るしか出来なった。
ばれた危機感よりも終わった感の方が遥かに勝っていた。
「ごめんって……何だよ」
本当にまさか正雄が特別実験室に入ってくるとは思ってなかった。
俺は綾香になっても全然誰にもばれないし、ましてやこの部屋には結界が張ってあるし、完全に油断をしていたのかもしれない。
念の為にでも教室の鍵をしめていればこんな事にはならなかったんだ。
もう後の祭りだけどな。
「意味がわかんねぇって……」
俺はゆっくりと後を振り返った。
後ろでは正雄が本気で意味がわからないような表情で頭を抱えている。
正雄は先ほどよりも動揺の色が濃くなってきているみたいだ。
冷静になってゆくほど混乱しているのか? それでも発狂しないだけお前はすごいよ。
さて、俺はどうするか? 今さらどんな言い訳を言えばいいんだ?
ぶっちゃけ全てをこいつに話した方がいいんじゃないか?
それで問題がありそうだったら……綾香には申し訳ないけれど転校するしかないな。
「マジで正雄、ごめんな、いろいろとさ」
なぜだろう、目頭が熱い。頬を液体が流れおちてゆく。
あれ? 俺、なんで泣いているんだ?
なんでだろう 悲しいって訳じゃないのに……。
悔しいのか? この姿がばれて悔しいのか?
「な、泣いてるのかよ?」
「あはは、みっともないだろ? 俺、男なのにさ」
「……お前、マジで悟なのか?」
「ああ、そうだよ……こんな姿だけど悟だ」
だめだ、声が震える。
「そうか……」
正雄がゆっくりと俺のそばまで歩いてきた。
険しい中にも困惑した表情を浮かべる正雄。明るい特別実験室ではそれがよくわかる。
くそ、薄暗かったら泣いているのもばれなかったかもしれないのに。
俺は蛍光灯を見上げた。
「おい、立てるか?」
そう言いながら正雄はやさしく俺の肩を叩いた。そしてまるで壊れ物を触るかのようにゆっくり立たせて中央のソファーに誘導した。
「おい、先に言っておくけど、俺はこう見えてもすごく動揺しているからな?」
正雄がそう言いながら唾を飲み込んだ。
俺にしてみればそれでも動揺しているのかよ。と言いたい程に正雄は落ち着いて見える。やっぱりお前はすごいよ。
「そうか、にしてもさ、なんてタイミングなんだよ……」
「……何がだよ」
「俺が男になっていた時間なんてほんの数十分だたんだぞ? それも俺が一人の時なんて今日は初めてだったんだ。それなのに、その一瞬のタイミングでお前が入ってくるとか……ないだろ」
「……俺は別に狙った訳でもないし、お前がそんな姿になってるとか思ってなかったし、今でも半分は信じられてないんだぞ」
俺の正面に座った正雄は確かに困惑した表情のままだった。
「……だよな? でも、マジで俺は悟なんだ」
「マジか……よ」
「ああ……」
正雄の眼球が左右にぶれる。俺を直視していない。唇を噛んで眉を寄せている。
「あれだ、色々な諸事情があって俺は綾香になっているんだ」
「……」
「正雄、お前は俺の正体を知ってしまった。だからお前にはきちんと話をしようと思う」
これで正雄が俺の正体をばらす事でもあればマジで転校だな。
綾香、すまん。お兄ちゃんはお前の高校生活を守れないかもしれない。
でもな? 俺は正雄に本当の事を話してみようと思うよ。どうして俺がこうなったのかをさ。
それで正雄が理解をしてくれればこの学校に残れる可能性はあるかもしれないしな。
野木はどうする? どうするって……あいつにもばれたって言うしかないよな。
ともあれ……。
「どうだ? 正雄は俺の話を聞いてくれるか?」
正雄はこくりと頷いた。
「そうか、じゃあ…「ここは僕から話そう」」
俺が覚悟を決めて放った台詞が何者かの声に被されちまった。というか、この声は野木!?
正雄が驚いた様子で俺の後ろを見ている。
俺も慌てて後ろを振り返った。すると、そこにはスーツ姿の野木が立っていた。
「綾香君、おまたせ。白衣の予備がなかったからスーツで来たよ。しかし、なかなか予想外の展開になっているみたいだね」
野木は引き締まった表情で正雄を見た。
「君は確か……桜井正雄君だね?」
「野木……先生ですよね?」
「そうだ」
「先生は……悟がこうなった事に関係しているんですか?」
「ふふっ、僕は当事者の一人だからね。関係しているという生ぬるいものじゃない」
ニヤリと不気味に微笑む野木は眼鏡をくいっと持ち上げながら正雄に言い放った。正雄は複雑そうな表情で野木を見ている。
「野木、いつの間に戻ってきたんだよ!?」
俺は慌てて特別実験室の扉を見るが開いた気配はない。
そう、野木はいきなり俺の後ろに現れたのだ。
「先生……いったいなんなんですか? これは?」
正雄は険しい顔で野木を睨みながら質問した。
普通ならここでいきなり現れた野木に驚くだろうに、しっかりと野木を見据えている。
改めてすごいなお前。俺なら発狂してるかもしれないのに。
「なんなんですか?だって? 見たまんまだよ」
「……見たまんまって言われても解りません」
正雄はごくりと唾を飲み込んだ。
「そうかい? では説明しよう。まず、ここに座っているのは姫宮悟君だ。悟君が綾香君へと姿を変えている」
野木はそう言いながら俺の両肩に手を置いた。
「……」
正雄は無言で野木の言葉を受け止めている。
「君は本当の綾香君が飛行機事故で行方不明になったのは知っているよね?」
正雄はこくりと頷いた。
「今の悟君はその妹さんの為に容姿を変えて生活しているんだ」
「えっ!?」
いや、待て、それってちょっと内容が違うくないか?
俺は野木を振り返ると、俺に「黙っていてくれ」と目で訴えているように見えた。
「なんで悟がそんな事をする必要があるんですか? 意味がわかりません」
だよな? そう思うよな?
「そう思うだろ? しかし、今回の綾香君の失踪は我々の住む世界、魔法世界が大きく関わっているんだよ」
正雄の表情が変化した。険しい表情で少しだけ白い歯を見せている。
「魔法世界って? どういう事ですか? だから悟がって意味もわかりません」
野木、魔法世界の事を正雄にばらしてもいいのかよ? なんて聞けないけど。マジでいいのか!?
でも野木が話をしているんだ。俺がとやかく言うもんじゃないよな。
「悟君は協力してくれているんだよ。僕たちにね」
「協力……」
「そう、綾香君を助ける為に悟君には綾香君になってもらう必要があった」
えっ!? なんだそれ? ぜんぜん嘘話じゃないか。
「……なぜ?」
「細かくは内密だ、しかし綾香君の行方不明になった原因は我々が関わっているし、そして悟君は協力者だ」
「では、先生はこの世界の人間ではないと?」
「そのままだ。僕はこの世界の人間ではない」
「……」
「僕は魔法使いだ。そして綾香君は……」
言葉の途中で野木が俺を見た。そして少しだけ微笑む。
「先ほど連絡があった。魔法世界での生存が確認されたよ」
「えっ!?」
思わず声をあげて立ち上がってしまった。
いや、聞き間違いじゃなければ綾香が見つかったって言ったよな?
マジなのか? マジで綾香が見つかったのか?
「悟君、本当の綾香君はもう少しでこの世界へ戻ってくるはずだ」
「本当かよ!」
「ああ、本当だよ」
「でもさ、さっきは何も言っていなかったじゃないかよ!?」
「うん、そうだね。僕がマンションに戻ったらそういう連絡が入ったんだ。だから僕は急いで魔法で戻ってきた」
「そうなのか……そうなのか!?」
ぐっとこみ上げる熱いもの。
先ほどとは違う意味で目頭があつくなる。
「おっと、桜井君すまない。君と話をしている最中だったよね」
「いえ、構いませんが……」
「まぁ、本当の姫宮綾香君がこの世界に戻ってくれば悟君は元に戻れる。だからこの件は内密にしておいてくれないか? 桜井君」
「……正直に言いますが、今だけの話では悟が姫宮綾香の代わって生活している理由が理解できません」
確かに、俺が死んで生き返った事も伝えていない。
かなり情報を制限して野木は正雄に伝えている。それに後半は嘘まで話していたし。
「そうだね。君にはこと細かい情報を教えていない。だが、君はなぜ悟君が綾香君の代わりに生活しているかを知っても仕方がない。今の君は現状がそういう状態なんだと理解しておけばいい。今は普通じゃない状態だが、そのうち元に戻るのだからね。それとも、君は他世界人である僕らの事情に首を突っ込みたいのかい?」
野木の問いに正雄は表情を固めた。
普通に考えても今の俺の状況はおかしい。おかしい事にわざわざ首を突っ込んで良い事なんてない。
それを正雄はよく理解しているんだろうな。
「正雄、あまり首をつっこない方がいいぞ? マジで」
正雄は俺を野木を交互に見ている。
「どうなんだい? 君はそれでも話をすべて聞きたいのかい?」
「正雄、マジでやめとけって」
正雄は唇を噛んでしばらく考えると、
「わかりました。首は突っ込みません」
仕方なくだろうが、野木の提案を飲み込んだ。
「それでいい。君はこの件に関して深く入り込むべきじゃない」
「そうですね……」
「だがしかし、君は悟君が綾香君の代わりに生活をしている事実は知ってしまった。だから君には秘密を守る義務は発生している」
「……」
「もし口外する事があれば、申し訳ないが君の記憶を操作させてもらう」
また正雄の眉がぴくりと動いた。
「わかりました。この事は口外しません。ですが……」
「ですが? 何だい?」
「悟とはこれから先も接触してもいいんですよね?」
野木はニヤっと微笑むと「誰にもばれなきゃね」と付け加えた。
「これでこちらからの話はとりあえずは終わりだ。では、今度は僕から質問をしてもいいかね? 拒否は許さないけどね」
おい、それって……。選択の余地がないってやつじゃないのか?
正雄は苦笑しながら「なんでしょうか?」と答える。
その表情に少しだけ焦りが見えた気がした。
「では、質問だ。なぜ君はこの部屋に入ったのかね?」
正雄の表情が険しくなった。
「それは、たまたまです」
「ほほう、たまたま?」
「そうです。偶然にこの部屋の前に通りかかったら電気がついていたので」
「ふ~ん。君は虫かい? 電気の明かりに引き寄せられてしまうのかい?」
野木、その言い方はひどいんじゃないのか?
しかしまったく野木に悪ぶった感がない。やっぱこいつ悪だ。
「……」
「ハッキリと言ってあげようか。君は姫宮綾香に興味があった。だから姫宮綾香が所属する部活にも興味がわいた。違うかね? 反論を認めよう」
野木の言葉に俺の心臓が一瞬はねた。
何だって? 正雄が綾香に興味があった?
じっと正雄を見ると、正雄も俺を見詰める。しかしすぐに正雄は俺から視線をはずした。
「桜井君、君はずっと姫宮綾香を気にかけていたね?」
「正雄、マジなのか? それ」
「別に……少しだけですよ。あの事故から姫宮妹の様子がおかしかったから気になっていただけだです」
ごくりと俺は唾を飲み込んだ。
まさか、正雄が綾香を気にかけていたとはまったく気がついていなかったからだ。
じゃあ、正雄はずっと俺が綾香になってから気にしていたのか?
でも、それなら納得できる。あの自転車置き場での反応も……。
「なるほど、君は姫宮綾香が気になっていたと認めるんだね? そういう事だね? では、どういう風に気になっていたのかね? まさか綾香君が悟君だと解っていて正体を暴こうとしていた訳じゃないよね?」
「俺は悟が姫宮妹の姿をして生活していたとか知りませんでした。だからそれはありません。しかし、先ほども言いましたが、夏休みに姫宮妹に出会ってから違和感を感じていたのは事実です」
「ほほう……では、違和感を感じる以前から綾香君を知っていたんだね?」
「多少です。あまり会話をしていた訳じゃないですし……ですが、それでも俺は前と感じの違う姫宮妹が気になっていました」
正直おどろいた。正雄が綾香の事をそんなに見ていた事に。気にしていた事に。
違和感を感じていた事に。
そして、正雄は視線を元に戻さない。ずっと右の方を向いたままだった。
「では、もう一つ質問をする」
野木はニヤリと微笑むとまたしても眼鏡を右手の人差し指であげた。
「……何ですか?」
正雄は明らかに嫌そうに野木に答える。
「君は母親のホクロの位置を覚えているかい?」
へんてこな質問に正雄の眉がひくりと動いた。
「どうしたんだい? 答えてみなさい」
「それは……」
「解らないのだろう? そうだろ? しかしそれが普通なんだよ」
「……」
ちらりと視線をこちらに向ける正雄。
「だけど君は綾香君の、ああ、ここで言うのは本物の姫宮綾香君の事だ。その綾香君の手の甲のホクロの位置を正確に覚えていたね?」
また正雄の眉がひくりと動いた。
「という事はどういう事か? わかるかな? 悟君」
そして急に俺に振りやがった!
「あ、えっと? なんだそれ?」
「解らないならいいよ」
お前が急に振るからわかんなかったんだろ!?
「じゃあ、違う質問だ。悟君は綾香君の手の甲のホクロの位置を把握していたかい?」
綾香のホクロだと?
「おい、じゃあ、野木は絵理沙のホクロの位置を把握してんのか? そんな訳ないだろ? 俺だって綾香の手の甲のホクロの位置なんて覚えてなかったよ。言われてなんとなくそうだったって感じだったんだ。何か悪いのか?」
「いや、何も悪くない。それが普通だからね。そうなんだよ。ずっと暮らしていた兄でさえ妹のホクロの位置を覚えていない。なのに桜井君は姫宮綾香君のホクロの位置を覚えていたんだ」
ここで俺はハッとした。そう、そうだ。
今までの野木の言動で一つの考えが浮かんだ。
しかし、なんで正雄が? そんな疑問も湧くけど、綾香を気に掛ける理由なんてそれ以外には思いつかない。
「なにを言っているんですか? それはたまたまです。たまたま覚えていただけですよ」
そう言いながらも確実に動揺している正雄。
「おい、正雄」
今度は俺が質問をぶつけてみてやる。
「何だよ」
「おまえさ、もしかして綾香の事が好きなのか?」
「!?」
言葉に詰まる正雄。
ちらりと後を振り向くと、野木はニヤっと笑っていた。
そう、野木はこれを言いたかったのだ。
「……何でそうなるんだよ?」
正雄の反応は明らかに普通じゃなかった。
なるほどね。正雄は綾香の事が……。
考えてみれば人間とは不思議なものだ。
人間は好きな人間の事はすごく気になる。だから色々な事を知りたいと思うし、それを記憶しておこうとする。
でも、他人は気にならない。それがたとえ家族であっても、ホクロの位置情報や言動などをずっと記憶に留めておこうなんて思わない。
「いつから?」
「だから、何でそうなるんだよ!」
正雄が綾香の事を前と変わったと思っていたり、手の甲にホクロがないと驚いたのは何故だ?
それは正雄が綾香を気に掛けていたからに決まっているじゃないか。
好きとか嫌いとはわからない。だれど、興味がない人間の情報を正雄が把握している訳がない。
「違うのか? 好きだから綾香の事を色々と気に掛けていたんじゃないのか? 俺と綾香の違いに違和感を覚えていたんじゃないのか?」
「待て、だから、俺はお前の妹を好きな訳じゃない。ちょっと気にかけてただけって言ってるだろ?」
正雄、それって綾香を好きになりかけていたって聞こえるんだけど?
「でもさ、綾香が気になっているからこの教室にも入ったんだろ?」
「それは……」
野木が俺の後ろから移動してソファーへと腰を落とした。
「悟君、君の言うとおりだ。今日、正雄君はここへ姫宮綾香が入ったのを見ていたから入って来たんだろ?」
正雄の表情が歪んだ。
普段はどんな事があっても比較的冷静な正雄なのに今は間違いなく動揺している。
もうここまでくれば俺でも理解できる。そうか、正雄のやつが……。
「正雄、別に隠す必要なんてないだろ? 俺はお前が綾香を好きになっても構わないって思ってるんだ。綾香がOKならお前と綾香が付き合ってもいいと思ってる。だってお前の恋愛を俺がどうこう言えるはずないからな」
これは俺の本気の意見だ。
こいつはなにげに良い奴だ。頭も悪くないし、人を思いやる心を持っている。
周囲にはどう思われているかは知らないけど、だけどこいつは悪い奴じゃない。
あと、ルックスだって良い方だし、綾香だって正雄の事を知らない訳じゃない。
「実の兄がこう言ってくれているのに桜井君はそれでも否定するのかい?」
正雄は大きく息を吐くと、次に大きなため息をついた。
「まいったな。降参だ。ああ、悟の言う通りだ。俺はお前の妹が……少し気になっている……」
そう言った正雄の顔が少しだけ紅潮したように見えた。




