愛 転じて 憎しみ
愛という言葉がある。昔から使い古された言葉だが、様々な意味があるため現代においてもそれが廃れることはない。
それにしてもその言葉に通じる意味を現代人が「恥ずかしい」と感じるのは何故だろうか。愛というものを言葉で語れば、大抵の人はコソコソと悪事でも相談するかのように語るのは何故だろう。
「というより気恥ずかしいんじゃないのか」
『黙れ』
それを語り合う気はないので意見を言う友人に2文字を見せると、友人は肩を竦めてパソコンに向き直った。
人間は誰でも愛がある。
それは自己愛であったり、家族愛であったり、恋人に対する愛であったりと、形は様々だ。だがそれでも確かに、誰の心の中にも愛はあるものだ。時にそれらは言葉を変え、友情という名になったり、恋という言葉になったりもするが、それでも確かに存在するのだ。
それを恥ずかしいと感じる理由は何か。友人の言葉を借りるのであれば、「気恥ずかしい」と感じる理由は何なのだろうか。
「大真面目に何を書いているのかと」
『いいから黙れよ』
コイツと話すつもりはない。第一コイツに愛なんてない。愛というのはマトモな人間の感覚なのだ。
「すでに矛盾しているぞ」
『うっさい黙れ』
恥ずかしいと感じる理由は何か。
恥ずかしい、という言葉の定義を調べて気付く。照れ臭い。うむ、まさにこれに当たるものなのだろう。
人間照れるとやりたいことが堂々とできないものだ。一部の例外を除いて。
「一部の例外って何だ」
『うっせぇ』
「ついに『黙れ』も消えたか」
愛だの恋だのと言うのは照れ臭いという気持ちはわからなくもない。だがその理由をと聞かれると、躊躇せざるを得ない。
ところで、さっきから煩いこの友人は何故この話題に乗ってこようとするのか。
「話題に混じっても」
『ダメに決まってる』
あっそ、と友人はこともなくパソコンに向き合う。冗談なのだがまぁいいか。
「冗談なのかよ」
『うわ見てた』
ところで、
「ところでところでうっせーな」
『まだ2回目です』
話題変換しようとしたらツッコミが来たので脊椎反射レベルで返事をしてしまった。
「2回も話題転換してこの話題にケリは付くのかと」
『ところで貴様と話はしていないのだが』
「ところでお前俺に対して酷すぎね?」
『ところでメシはまだか』
今日の夕食当番はコイツである。とりあえずメシ作らないなら買って来いよ。
「――ところで何がいい?」
『冷やしうどん』
「この寒いのに冷やしなのかよ……」
言いつつも、友人は財布を手に外へと出て行った。
それはさておき、「ところで」、愛との反対語というのが「憎しみ」ではなく、「無関心」という説がある。憎しみは対象に対する関心があるから、方向性が違うだけだと言う理由らしい。
しかし好きなのと嫌いなのは感情としては逆の方向を向いていると言ってもいいと思う。方向が反対なので反対語でいいのではないだろうか。
『冷やしだと言ったはずなのだが』
「なかったんだ仕方ないだろ」
友人が買ってきたのはこともあろうに赤いきつねだった。
カップうどんというのは熱湯を入れなければ作ることができない。最終的に出来上がるのは冷たいうどんではなく熱いうどんである。愛と憎しみほどに180度方向性が違うのは明白だ。
愛と憎しみは180度違うが無関心はどうかと言う問題に通じるものがある。
「うどんには違いないだろ」
だが俺が頼んだのは冷やしうどんで、値段も398円と150円弱で全く違う。
しかもコイツはよりによって自分の分はしっかり焼肉弁当398円。嫌味なのか。
『だったら電話するなりメールするなり』
「すまん、携帯はほれそこに」
携帯はPCの前に置き去りにされていた。
唯一の連絡手段を忘れるとかアホっぽい。ついでに冷やしがなくて熱いものを買うとかマジアホっぽい。
「テヘペロ☆」
今なら、人を憎しみで殺せるだろう。
今回のテーマ出題はネット友達であるところの「ふみ」さんです。
冷やしうどんの対語は熱いうどん。愛の反対が無関心と言うのは、冷やしうどんの反対が蕎麦とか冷麦とか言ってるように聞こえます。
次回は今日か明日予定。
「恋人」「夏」「バイト」です。