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雪は何時しか止んでいた。誰も踏み荒らさず積もった白雪は、それはそれは美しく外の世界を一変している。
「……女郎蜘蛛」
寂蓮は一言そう呟いた。
女郎蜘蛛と聞いた伊右衛門は一瞬、目を見開く。
「かの御方の隠密ではございませぬか。なぜこのような山寺に」
寂蓮は静かに伊右衛門に近付き、囁くような声で語りだした。
「この地方に一揆が騒ぎだした折り、我々が隠密として送り込まれ際に、このは村は我らの隠れ里としておりました……」
「しかし、それも昔の話で御座ろう」
寂蓮は笑みを浮かべた。
「はい。戦が終れば世は華と成りました。我らは無用の産物で御座います」
「なるほど」
寂蓮は襟元に手を忍びこませ、黒珠の数珠を取り出した。
「私はこの里に魅入し、戦の犠牲となった扇姫様が不憫で成らず、寺に籠もり微力ながらに鬼の力を押さえておりました……」
伊右衛門は目を閉じていたが、
「皆まで聞くまい。その御助力、大変な器量で御座り、感服する次第で御座る」
「そんな滅相も御座りませぬ」
そして、寂蓮は伊右衛門に数珠を手渡した。
「その昔、位の高い三人の僧が煩悩の数の日を掛け仕上げた『角落とし』には適いませぬが、守護としてお持ちくだされ」
「……すまぬ」
伊右衛門は数珠を襟から懐に忍ばせた。
「では」
伊右衛門が外に足を向けたとき、寂蓮が呼び止める。
「寺、奥の奥、枯れた桜木道に現れます。……どうか扇姫様の御霊を安らかな場所へと誘ってくださいまし」
寂蓮が深々と頭を下げ、ゆっくりと視線を戻した時には、既に伊右衛門の姿も消えていた。
そして寂蓮は小さく呟く。
「それがお父上様の願いでも御座います……」
外界は静寂と白。夜空は晴れ渡り、月が光彩を放っている。杉に積もった雪が微かな音を立てて滑り落ちると、舞い上がった粉雪にその光彩を授け、まるで小さな結晶体となって輝いた。
「静かで御座る」
伊右衛門は寂蓮が言った桜木道に向かい歩いた。
辺りは朧ではあるが木々は月光の下に影を浮き立たせており、伊右衛門の足は瞬く間に進んでいく。
程なく歩くと、その道筋に辿り着き、さらに少しばかり歩くと桜木道に着いた。
雪に埋もれる枯れた桜木道は、美しさと不気味さが交錯する異様な世界。
「……まるで何かの力に誘われたようで御座るな」
伊右衛門は辺りを見渡すと、道の脇に小さな堂が見て取れた。
伊右衛門はその堂に足を向けると木段を上り、観音扉の戸を引き開けた。
かつて何かを祭っていたかのようだか、今は廃堂となり、隅には古い蜘蛛の巣が埃を張りつかせている。
「一時の雨風凌ぎには適しているの」
そう呟くと伊右衛門は戸を閉め、三段ばかりの木段に雪を払い腰を据えた。
それから、しばしの刻が経っていた。
伊右衛門は刻を余したのか、太刀に手を向け帯から擦り外し、その光沢のある鞘を眺め、横一文字に抜き出した。そしてその洗練された巧みな刀身が姿を現す。
伊右衛門は手首を捻りながら刀身を動かした。
すると、月明かりが刀に息吹を与えたかのように青光を放ち、腹に独特の波打つ刀紋が浮き上がってきた。
名工な研師によるものだろう。
そしてその青光が暗がりの中に伊右衛門の目を浮かせた。
しばらく魅入ったのち、静かに鞘に納めた……
――――――チンッ
刀身が納まった刹那!
伊右衛門は何かの気配に気付いたが、それは遅かった。
目を大きく見開いた目線には、白裳を巻く帯が既に握り拳程の隙間しかないところまで来ていた。
(……不覚で御座った)
金縛りにあったわけではない。が、身体は動けかせなかった。
(このような間近までまったく気配は感じなかった)
焦りが全身に伝わり、妙な不快感が伊右衛門を襲う。
顔を上げる事もできない。
そして伊右衛門は頬に凍るような冷たさを感じ、息が上がった。
伊右衛門の口からは白い息が舞い上がり、その多さから動悸の激しさと、体温が上昇したのだと解った。
しかしそれも一時的な事。
伊右衛門は持ち前の冷静さで、徐々にその荒げる心搏を押さえていった。
頬に当てられたのは扇の白く美しい細い指。
その両指で伊右衛門の顎を上げた。
否応無しに、伊右衛門の目には扇の顔が映し出される。
(う、美しい……)
すると、扇はそっと顔を近付け伊右衛門と唇を重ねた。
(……うっ)
何か違和感を感じる。
扇が伊右衛門の口内に舌を這わせだし、そっと離した。
伊右衛門は口内に何か丸い物を残されたと感じたが、次の瞬間。
――――きゅっ
と、奥歯に擦り当たり音が鳴った時に、鬼灯と解った。
すると、また扇は口付けを迫り、伊右衛門は重ねだした。
その時、後ろの堂の扉が開くと、伊右衛門と扇は引き込まれるかのように、堂の闇に呑まれていった。
そのまま扇は伊右衛門の身体を欲し、着物が互いに乱れだす。
その時、闇に小さな燈が二つ現れ堂内の闇を薄明るく照らしだし、さらに畳のような触りが伊右衛門の背中に広がりだした。
(こ、これは幻か)
扇は容赦なく欲してくる。
伊右衛門の頭の中では拐わかされていることは承知の筈なのだが、完全に扇の美しさに魅了されていたのである。そして、いつしか伊右衛門も扇を欲していった。
妖艶な扇の身体は艶やかで、美しい曲線を描いている。
身体を重ねあった二人は激しく悶え合う。
伊右衛門の身体は屈強な肉体。筋肉の固まりが浮き出ているが、そこには扇のやわらかい肌が隙間を埋め、吸い付くように重なる。
……二人は交わっていた。
互いに無言のまま、激しく、熱く、湿った吐息を漏らしていく。
唇は重ね合い、舌を這わせ、鬼灯の果実を絡ませながら、互いに湿らせていった。
伊右衛門は我を忘れていく。
その時、伊右衛門は腹部に何かが滴ってきたのを感じる。
仰け反った扇の口の中で、熟し潤んだ鬼灯が弾け、赤い実は血のように口元から漏れていた。
伊右衛門はそれで我にかった。
なんとか手の届く処に太刀が見え、それを手にすると、鞘先で扇を一気に押し退けたのである。
扇は俯いたまま、乱れた着物を肩に掛け戻した。
伊右衛門は上半身はだけたまま、太刀を構える。
「あなた様は守られておいでで御座います」
突如、扇が呟いた。
伊右衛門の乱れた懐からは、寂蓮から授かった数珠が辛うじて引っ掛かり垂れ下がっていたのである。
すると、伊右衛門は冷静にその数珠を取ると、左手に巻き付けた。
「私をどうなさるおつもりですか……」
伊右衛門は鞘から刀身を引き抜きながら、
「悪いが、浄化させていただく」
扇は俯いたまま涙を流し、しくしくと啜り泣いた。
しかし伊右衛門は強く言い放つ。
「拙者、鬼に対して情など持ち合わせてはおらぬ!覚悟されよ」
刀を振りかざしたその時、啜り泣いていた声は高らかに笑いだす。
「あぁぁっはっはっはっはっーーーー!!」
伊右衛門の手が止まる。 刹那、扇は伊右衛門の体目がけて飛び掛かり、古びた堂を打ち壊しながら、二人は雪上に投げ出された。
伊右衛門は息苦しさを感じる。
尋常ではない人力を超えた扇の手が、伊右衛門の喉に食らい付いていた。
「おぬしを喰い殺してくれようぞ」
透き通っていた扇の声が一変して、濁った太い声になっていったのである。
伊右衛門は刀の柄先で、力一杯扇の額を叩き割る。
瞬間、手がゆるんだのを感じ足蹴で突き放した。
伊右衛門は喉に手を添え、唾を一呑みし、頭を振って構え直しす。
「……是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦眞……」
寂蓮等は本堂にて経を唱え、事の終止を祈っていた。
「お侍様大丈夫だろか?」
「大丈夫だ!任せるしかねぇ」
与吉と由蔵も只々願うばかり。
孫六も合掌していた。
額が割れ、血を流していた傷口は瞬く間に回復していった。
「……鬼の力」
そして、扇の爪が長く伸びだすと襲い掛かってきたのである。
一撃、二撃とまでかわしたが、三撃目は頬を擦り、血が滲む。
扇は薄ら笑みを浮かべた。
伊右衛門は冷静に次の手に講じる。
数珠を巻く左手に刀の刃を押しあて、数珠の隙間に見える自らの手を斬りながら呟く。
「なうまく。しつちりや。じびきやなん。たたぎやたなん。あん。びらじ。」
唱えながら刀身を下げ、血を一筋、刃先まで伝わらせた。
血が一滴、雪に染まった刹那!一気に踏み込んだ。
扇は怯んだが、迫る伊右衛門に一振り。しかし、それを低くかわすと、渾身を込めた伝達系の斬撃を下から扇の首に振り上げた。
――――――ガッ
鈍い音と硬い手応えが、腕を通じて伝わる。
それが何かを知った伊右衛門は即座に身を返し、回り除け、雪上に片膝を着いて構え直した。
「……きかぬか」
伊右衛門のはだけた上半身からは、湯気が立ちこめていた。