その5
結論から言おう。
俺は死んだ。
とはいえ読者の諸君も既にご存知の通り、俺は一応生き返っている。(思い出したくもないがな……。)だが当然、俺が死んでいた時のことなど知る由もない。よって、ここからは那由多と共有した記憶を元に、あくまで俺は第三者的立場でその時のことを語らせてもらう。
俺の死体が転がっていて、那由多は俺をぼんやり見つめていた。否、その目の焦点は俺の身体1メートル上空に合っている。一体彼女は何を見ている?
「……また貴様か。何度この私に苦労をかける?」
今までに聞いたことのない那由多の冷たい声。窒素も液体になるんじゃないかと思ったね。恐ろしい神様さ。
「これはこれは、稲荷神さま。お久しぶりでございます。お変わりなく、大変麗しゅうございますね。」
そんな男の声が聞こえると、突然俺の死体は黒い靄に包まれた。(どいつもこいつも俺を巻き込みやがって!)
靄が薄れていくと、そこには死体の代わりに真っ白な男が立っていた。暗い室内に不気味に浮かび上がる血の気の通わない生っ白い肌、死装束みたいに白以外の色のない服、何よりもそいつが「生きていない」と感じさせるのは、瞳孔の開かない死人のような、仄暗い蒼い眼だった。
「相変わらず死体を乗っ取ることでしか姿を現せられぬとは、とんだ腑抜けた悪霊だなあ? ――白麗。」
那由多の目は、どこまでもその真っ白な男を見下しているようだった。一点の情けもない、神の怒りの目。
「酷いな、まったく。僕はお前に逢うためにこの者から出てきたというのに。……100年越しの逢瀬を。」
ところどころが銀色に煌く白い長髪を揺らし、那由多を見つめる男。
「その腹の立つ物言いも相変わらずか。よかろう、100年振りのいたちごっこの続きを相手してやろう。」
那由多はいつかの和紙をロン毛野郎に投げつけた。まるでヘビみたいに執拗に白麗を追う和紙。白麗はそれを軽々かわす。……まるで遊んでるみたいに。
薄ら笑いを浮かべながら和紙を相手する白麗は、ふいに動きを止めた。すかさず襲い掛かる白蛇を人差し指一本で払うと、蛇は一瞬で青く燃え尽きた。
「僕が今も憎いか、那由多。」
真っ白な歯を見せて、白麗はにやりと笑う。那由多は能面みたいな顔つきのまま、再び和紙を放った。和紙は何本にも分かれ、しゅるしゅると帯のように那由多を取り囲む。
「貴様の挑発もワンパターンだな。この私を誰だと心得ておる?」
那由多が白麗に向かって手を伸ばす。すると、和紙は勢いよく――それこそ目にも留まらぬ速さで――矢のように放たれた。それは確かに白麗を狙い真っ直ぐ飛んでいったが……驚いたことに、一切動く素振りを見せなかった白麗は、頬に一筋の紅を印す以外の傷を負っていなかった。
まさか、避けたというのか? あの速さの和紙を、一歩も動かずに。(マジかよ。)
「どうした、白麗? 身体が鈍って避けきれなかったのか?」
口にドライアイスでも仕込んでるのかって疑いたくなるほど冷たい声で喋る那由多は、まだ気を抜かず身構えている。まあかすり傷一つで油断するアホなんざいないがな。
「やれやれ、本当に短気な神様だ。」
白麗とかいう幽霊男は、身体をゆらりと動かした。次の瞬間、ヤツはそこから消えていた。那由多はすかさず左手に扇子を握り、それを後ろに向かって勢いよく振った。霧のように突然那由多の背後に現れた白麗は、相変わらずの薄ら笑いを隠さない。余裕の笑みってヤツですか。
「白麗、なぜイツキに取り憑いた?」
「言っただろう。お前に逢うためだと。僕の恋人……那由多。」
「やめろ、虫唾が走る。」
やべえ。こいつらマジでヤバい。目がマジだ。那由多なんかまるで獣の目だ。本当に狐の神様なんだな。白麗の眼は死んでるけど……。
「少しは素直になったらどうだ? まだ僕を、愛しているか?」
……アイシテル? どういうことだ?
「貴様に愛など必要なかろう……はッ!」
那由多は一気に身体をぐるんと回し、扇子を振りかざした。しかし、当たらない。ちっとも避けたフリをしないのに、白麗はどうしてかそれをかわしていた。
「こざかしい!」
那由多は扇子を広げると、懐からまた和紙を取り出し、それを握り締めた。
那由多が拳を開くと、和紙は紙吹雪のように小さくなっていた。それを鶴の絵の描かれた扇子で扇ぐと、ほんの少ししかなかった紙吹雪はみるみる増え、やがて周りを多い尽くすほどの量になっていった。ものすごい風の音が鳴り響き、あたりのものは吹き飛んでいった。
(出張中の父さん母さん、居間をメチャメチャにされてごめんなさい。)
「ああ、この力……100年経った今も、お前は強い。」
「そしてこの力は、貴様を永遠に葬り去る。」
真っ白で何も見えない。霧なんかより、タチが悪いぜ。どうなっているんだ、那由多?
「貴様を悪霊にしてしまったのは全て私の責任だ。だから、こんなことは今日で終わらせる。」
声だけがやけにはっきり聞こえる。那由多の声はどこか悲痛な、寂しそうな、そんな感じがした。こんな声は初めて聞く。いや、そんなに付き合い長くないけどな。
それにしても那由多、お前めちゃくちゃカッコいいな。やっぱ神様ってスゲーのな。
「……まだだ。まだ終わらせない、那由多。僕はお前を――」
「黙れ!」
ダン、と大きな足音が聞こえた。たぶん、那由多が白麗に飛びかかった音だろう。後で那由多に質問したからな。
「くっ……!」
紙吹雪の中から、大きな影が飛び出した。白麗の首を掴んだ那由多が、勢いそのままに飛び出てきたのだ。白麗は苦しそうな顔をしながら、首を掴む那由多の腕をふりほどこうとしている。大きな音を立てて二人が壁にぶつかると、壁にかけてあった時計が落ちて割れた。(弁償だ弁償!)
那由多は右手で掴んでいた首を、今度は両手で締め上げ始めた。意外と直接的な攻撃だ。……って待て待て、それ俺のカラダじゃなかった? (後で那由多に「既に死んでおるのだし、お前の身体などどうなってもよかろう」とか言われた。泣くぞ。)
「ぐ……う……!」
その時、白麗の髪が逆立った。その蜘蛛の糸は那由多の両腕に絡みつき、食い込み、やがて血が滲み出す。こういうとこ、やっぱコイツは化け物だ。
「ちっ!」
那由多は舌打ちすると、無理矢理腕を引っ張って白麗から離れた。ここまで、那由多が微妙にリードしてるようだが、まだ決着がつく様子はない。
「ふ、はははははは! 那由多、楽しいだろう?」
「貴様と同じにしてくれるな。不愉快だ。」
那由多の狐の耳は、前方に向かって傾いていた。吹雪はいつのまにか収まっていて、しかし風も吹かないのに那由多の髪は大きく揺れていた。白麗はひとしきり笑うと、薄暗い部屋の中でもよりいっそう暗い瞳で那由多を見つめる。そこに感情は無いように見えるが……那由多はどう思っているのだろう? 彼女は無表情だった。
「……那由多。思い出話でもしようか。」
「断る。貴様と話すことなどありはせぬ。」
「本当につれないな。僕はお前にこんなにも逢いたかったというのに……。」
白麗はわざとらしく自分の身を抱いた。舞台俳優じゃあるまいし。ていうか俺の身体で気持ち悪いことすんな!
「お前と出逢ったのはいつだったか。もう随分と昔のことだな。」
「……それが貴様と私の因縁の始まりだ。」
さっきまで話すことは何も無いと言っていた那由多が、悪霊野郎の言葉に乗せられていた。那由多、まさか本当に――?
「あの時の僕たちは幸せだった。お前と、僕で……。」
「ふん。いつまで女々しく引きずっている? 所詮は貴様は人間で、私は神だ。相容れぬ者よ。」
「それは本心か、那由多?」
俺には全然話が見えない。ていうか、この白麗とかいうのが何者かもよくわかっていない。(訊いても那由多は教えてくれないし。)俺だって巻き込まれた被害者だ。ていうか殺されてるんだぞ? 部外者扱いはどうかと思うな。
(出張中の父さん母さん、慰謝料も取れずにごめんなさい。)
「……貴様に付き合うのはここまでだ。くだらぬ昔話はもう沢山だな。」
「そうか。それは残念だよ。」
再び緊張が走る。命のやりとりっていうのはこういうことを言うもんだ。俺、この場にいなくてよかった。いや、死体となって幽霊に乗っ取られてる状態ではいるっちゃあいるけど。
「この絶好の機会で貴様を逃せば、また面倒なことになるからな。」
「お前に僕は倒せない。忘れたわけじゃないだろう?」
「……ふん、忘れたな。」
再び那由多が和紙を投げつける。手裏剣みたいに、和紙が壁に突き刺さった。しかし、白麗にだけは当たらない。一体どういう仕組みなんだ?
「今度は僕の番だ。」
そう言うと、白麗は右手から手品のように剃刀の刃のような、涙型の小さな刃物を召喚した。小指ほどの長さだが、なんだかとても不気味に見える。……いや、なんとなく。
「守護月刀、か。懐かしいな。」
「そう、お前が僕にくれた、唯一の宝だ。」
白麗はその剃刀の刃を目の前に翳して笑った。何が可笑しいのか俺にはさっぱりだ。那由多からのプレゼント? まさかこいつら、本当に付き合ってたわけじゃないよな……。
「この刀の力は憶えているか、那由多。」
「主の身を守り、仇なすもの全てを切り裂く銀の月……。」
「そう……。」
おもむろに、白麗はその刀(っていうのかよ、ソレは)を銜えた。真っ白な肌、真っ白な髪、真っ白な歯。驚くほど刀は目立たない。
「その刀ごと、貴様を葬ってみせよう。」
那由多は正方形の和紙を何枚か取り出すと、広げた扇子の上に乗せて何かを念じた。和紙は緑色に光りながら浮き上がり、輪を作り、鎖のように連なりはじめた。白麗はそれを、微笑したままじっと見つめている。
何枚もの紙が連なった鎖の先端に、那由多は自ら三角に折った和紙を一枚繋げた。漫画みたいな鎖鎌とも、鞭ともつかぬ武器の完成だ。しかしそれは先程までの和紙と違うようで、到底折り曲がりそうのない、鋼のように頑丈そうなものだった。
「……ゆくぞ。」
那由多は紙の武器(面倒臭いのでカマムチと呼ぶことにしよう)を手に取ると、それを振り回し始めた。鎖のぶつかり合う音はまるで金属音だ。ひゅんひゅんと風を切る音が物騒で、これが紙でできてるなんて絶対誰も信じないだろうなと俺は思う。
かなり勢いがついたところで、那由多は鎖を手放して先端の鎌を白麗に投げつけた。冗談抜きで、尋常じゃないスピードだ。一体どうやったらあんな豪速でモノが投げられるのか、スピードメーターつけて計ってみたい。……ぶっ壊れるかな。
さすがに今度ばかりは話が違ったようで、白麗は大きく横に飛びのいてカマムチを避けた。このスピードについていける方もいける方だ。どいつもこいつもどうかしてる。ていうか、ここ俺ん家だし!
「はあっ!」
那由多はなんらかの神通力でも使ってらっしゃるのか、そのカマムチの鎖をうねらせて、どう考えても不可能なことなんだが、それを制御して白麗を追った。鎌が野郎の目前に迫る。あと少し――
……だというのに、俺はとんでもないものを目撃した。身動きもできないくらいに、超高速のカマムチの攻撃を、ヤツは真正面から受けた。しかし、白麗は真っ二つにならなかった。いや、俺の身体だから真っ二つになっても困るんだが……。(那由多はもし俺が真っ二つになっていたらどうしたんだ……怖くて訊けない。)
ヤツは棒立ちしたままだった。那由多のカマムチを、真っ二つにした後で!
白麗は微笑を浮かべる。口には刀を銜えたままだ。室内は暗いが、その刃だけがギラギラ輝いて見える。那由多の獣の目も、ギラギラと一筋の光を携えている。
「……貴様にそれを渡したのは失敗だったな。」
那由多は両脇に落ちたカマムチだったものを拾い上げて、溜息をついた。
「どうして、切り裂かれるとわかっていながら攻撃する?」
白麗は刀を銜えたまま器用に喋った。腹話術師か、お前。
「……破れるかもしれぬだろう。」
那由多は大真面目にそう答えた。計画性なさすぎじゃね、お前もよ……。
「……ククク。お前らしいな、那由多。だが遊びはここまでだ。」
……なんか、さっきから「今から本気出す!」を何度も聞いてる気がしなくもなくなってきた。もう、勝手にしてくれ……。
(ああ出張中の父さん母さん、部屋をめちゃくちゃにされた上に殺された上に大事な身体を乗っ取られてごめんなさい。……ていうかこれ、俺のせいじゃ、なくね……。)