その4
高橋みづきは走る。
息を切らしながら、それでも彼女に追いつきたい。運動はニガテだし、体力なんてこれっぽっちも無いが、それでも今は何故か止まらずに走れた。
あと、50メートル……。
彼女に気付いたクラスメイトが、こちらを向いて待っていてくれている。なんだかそれが、無性に悔しい。
「――っはあ……! ……稲荷、っはあ、山さん……っ。」
彼女の目の前に来て、一気に緊張が来た。今までの反動か、足が重くて震える。息が上がって、まともに話すことができない。
(――だけど。)
彼女には、決心がついていた。
「どうした、高橋。」
目の前の美しい少女は、何でもお見通しよ、というふうに一応尋ねてくる。彼女なりの社交辞令のつもりなのか。
「……っあの! た、高橋君のこと、で……。」
先ほどまであんなに夢中になれたのに、いざ彼女の前となると自信がなくなってしまう。高橋は、尻すぼみする自分の言葉を心底情けなく思っていた。
(……ふん、もう少し手加減が必要だったようだな。)
那由多は目の前の、肩で息をしている大人しそうな少女を見下ろしていた。神の威光とでも呼ぶべきか、いま彼女は高橋みづきを試していた。
「大丈夫か?」
慈愛の篭っているハズの手を差し伸べると、彼女はこちらをちらりと上目に見てから自分で顔を上げた。
(まあ、私の手を借りずとも向き合うことはできるか……。)
那由多は彼女を隅々まで観察する。神の洞察眼は伊達ではない。高橋の性格も考えも何もかも知っていて、なお彼女を試そうと言うのだ。
(これぐらいでなければ、イツキの気持ちなど手に入れることなどできないだろうからな。)
那由多は少し笑った。
高橋はゆっくり顔を上げた。走ったせいか、それとも緊張かで心臓の音がよく聞こえる。きっと自分の顔は今真っ赤なのだろう。
(……はやく、早く何か喋らなきゃ……!)
高橋の必死な想いに微笑した那由多の表情を宣戦布告と読んだか、彼女は胸が締め付けられそうだった。拳は固く握られている。
やがて、いくらか呼吸が落ち着いたところで高橋は決意の表情を結んだ。那由多の意志の強そうな瞳に目を合わせる。
「……稲荷山さん、話したいことがあるの……。」
彼女の声は震えていたが、尻すぼみすることはなかった。那由多は無表情で彼女を見ている。
「わ、私は……高橋君のことが、その……。」
一呼吸おかねばならないほど、彼女にとってその言葉は重い。
「――好きなの。」
――沈黙。
高橋は言ってから、しまったと思った。意中の人と一緒に暮らしている女性とはいえ、彼女はあくまで一葵のいとこだ。顔から血の気が引いていくのを高橋はひしひしと感じた。汗が一滴流れ落ちた。しかし視線はナユタから離さなかった。それが彼女にできる、急激にこみ上げる感情からの精一杯の抵抗だった。
「……そうか。イツキが好きか。」
ややあって、ようやく那由多は口を開く。心なしか口角が上がっているように見えるが、それがどういう意味であるのかを高橋は知らない。
「お前は私にどう答えて欲しいのだ、高橋よ。」
突然の問いかけに高橋は少し困った。自分はなぜ、彼女に思いを打ち明けたくなったのだろう?
「え、その……。」
「私に協力しろとでも言いに来たのか?」
那由多は微笑を崩さない。心臓がなおいっそう大きく脈打つ。
「そ、そういうわけじゃ……。だから、その……。」
高橋は必死で二の句を考えた。しかし、言葉がまとまらない。何と言うのが正解なのかがわからなかった。
「ふん、よかろう。ならば私がお前の言いたいことを言ってやろうじゃないか。……お前は私が、イツキに少なからず好意を抱いて、それで今朝一緒に登校していたのではないかと多少の疑念を抱いておるのではないか? そして、お前の気持ちを知っている上で、見せ付けるようにした……。」
高橋はぎくっとした。全てを見抜かれていたからではない。彼女の言葉を聞いて、自分の無意識な気持ち――嫉妬――に気付いたからだ。
「そっ、それは……!」
高橋は首を振った。自分の考えを全否定した。――違う、そうじゃない。それは私じゃない……。
「ふふ。浅はかなものよ。お前に私がそう見えていたとは、心外だな。私はあくまでイツキの従姉妹、それ以上のものではない。」
高橋はうつむく。那由多は続けた。
「鈍感なのは、お前の方だったな。残念だ。イツキはとうにお前の気持ちなど知っておるというのに。」
「……え?」
はっと顔を上げる背の低い高橋を見下ろすように、那由多は目を細めた。
「やはりな。お前が何を懼れているのかは知らぬが、私にはわかる。お前は運動以外でもどうしようもなく鈍いということがな。」
高橋は固まったまま動かない。彼女は何を言っている……? 彼女は何と言っていた……?
「イツキくんが……私を……?」
汗が一滴、頬の横を通っていった。蝉がどこかで鳴いている。逆光の彼女の表情が、よく見えない。……まぶしい。
「高橋、ひとついいことを教えてやろう。」
彼女はもう話は終わったというふうに、きびすを返した。
「イトコはな、結婚できるんだぞ?」
那由多はからかうように笑った。高橋には、その表情が見えない。
固まったままの高橋を置いて、彼女は風とともに去っていった。
「……稲荷山ナユタさん。」
バイト代を後ろ手に持ち、俺は食後にくつろいでいる那由多の背後に立った。おっさんみたいな格好で寝転がりながらテレビをつまらなさそうに見ている彼女が神様だなんて、たぶん誰も信じないだろう。ああ、俺も信じない。
「……おいこら、返事は? ナユタさん。」
イライラしだした俺の声を聞いて、那由多はテレビの電源を切った。そして顔だけをこちらに向ける。じとっとした目が俺を突き刺す。
「お前、自転車買ってやらねーぞ。」
「……それでこの私を脅しているつもりか? 愚かな……。」
やっぱりムカつくわ。
「お前な……。大体、いつまでこの家に居憑く(ここで敢えて“憑”の字を使わせてもらう)つもりなんだよ。俺は使わなくなるような自転車代を払ってバイト代を無駄にしたくねえんだ。」
ため息をつくと、彼女がこちら向きに座りなおした。
「イツキ、座れ。」
しょうがないので俺は腰をおろした。妙に釣りあがっている目が俺を捉える。……残念なことに妹は風呂だ。
「――残念だったな。私は明日社に帰る。……用が済んでからな。」
「……は?」
いくらなんでも突然すぎる。背筋が震えた。(……ん?)俺は自転車のことなどどうでもよくなった。
「なんでだよ? お前、この家を護るとか何とか……」
「落ち着け、イツキ。」
俺は那由多の扇子で額を小突かれた。……こいつ、力は有り余ってるからマジで痛い。
「…………。」
とりあえず、俺は那由多の説明を待つことにした。
「妹にも伝えておけ。今まで世話になったな。礼を言うぞ。だが自転車は明日買ってもらう。……確かに、約束したぞ。」
彼女は扇子で自分の肩を叩く。……え、それだけ?
「おま、もっとちゃんと説明しろよ!」
那由多は俺を無視して立ち上がった。緋袴が俺の足をかすめる。
「……ふう。お前も鈍いヤツだな。悪霊だ。」
彼女はふっと笑うと、居間を足早に出て行った。そういえば、背中に悪寒が走っていたんだ。これも悪霊の影響か?
とりあえず俺は、混乱から抜け出して握ったままのバイト代を見つめた。……自転車だけは買えって……ワケわかんねー。
「なんだアイツ……。」
ユキに那由多のことを話しても、さして驚きはしなかった。ただ、少し寂しそうな顔をした。気丈な妹だ、こんな顔をするなんて珍しい。親が出張するときだって、嬉しがってたくらいだぜ? どうしたんだ、と訊いても彼女は曖昧に濁したままだった。
「明日はお別れ会しよう!」
とユキは言った。なにやら張り切って今日のうちから料理の下ごしらえをしている。俺はとてもじゃないがそんな気になれなかったので、彼女を手伝う気にはならなかった。……あれ、そういえば。
「なあ、なゆたんは?」
悪霊退治に行ったっきり半時戻ってこない例の女神様を思い出した。ユキは慎重に人参を星型に切っている。
「へ? なんかお風呂から出た後すれ違って、もう寝るって言ってたけど?」
……どこまでも勝手な女だ。
とりあえず俺は風呂に入ることにした。ぐちゃぐちゃな頭すっきりさせたい。
その日の俺は、珍しく一睡もできなかった。きっとそれは、深夜から降り出したうるさい雨音だけのせいではないだろう。
(出張中の父さん母さん、知らないうちに同居人を増やして、また減らしてごめんなさい。)
――翌朝。運命の日。
相変わらず妹の7時ピッタリコールで俺は、とうに夜が明けてるのに気付いてはいたものの起床した。熟睡してるフリをするのも面倒なものだ。だが妹に心配はされたくない。俺が珍しく早起きしたりしただけで、何か変だと疑ってくるようなヤツだからな。(失礼な)
「あれ、なゆたんは?」
居間に入って俺は、いつもなら朝の挨拶代わりに嫌味を言ってくる女がまだいないことに気付いた。
「……んーとね、何か今日は朝ご飯はいらないって。それから、補習も出ないって。」
妹は心配そうに言った。何か変だ。アイツがそんなことを言うなんて、今日は雪でも降るんじゃないか?
「……ちょっと呼んでくる。」
俺が客間に行こうとすると――
「お兄ちゃん待って! ……その、なゆたんさんが出てくるまで、部屋には入るなって言ってたから……。」
ユキが俺の腕を掴んで制した。――そんなことを言った? ますます怪しい。
「とにかく、お兄ちゃん。ご飯食べて学校行かなきゃ。今日は雨だから自転車乗れないし……。」
「……わかった。」
俺は不審に思いながらも、妹の言葉に従ってとりあえず朝食をとることにした。
案の定、学校で那由多が休んだことに対する質問攻めにあった。まさかアイツが部屋に引きこもってるとも言えまい、ごまかすのに骨が折れた。まったく、どれだけ人気者なんだアイツは。隣のクラスのヤツまで訊きに来たぞ。ちょっと“設定”をオーバーにしすぎなんじゃないのか? それと、高橋が少しほっとしたような顔をしたのも気になる。なんだか今日は、朝から変な日だ。
苦労した補習を終えて、俺は中途半端な舗装をされた道を足早に、妙な胸騒ぎを覚えたまま家へと急いだ。制服のズボンの裾が、少し泥で汚れた。えらく土砂降りな雨がシャツをベタベタにする。
「――ただいま。なゆたん?」
まだ部屋に引きこもったままなのか? 俺はそう思いながら、居間の戸を開けた。
「……歩きの割には早かったな、イツキ。」
雨で薄暗いってのに電気もつけないで、那由多は座っていた。彼女は笑っているように見える。
「……お前! どうしたんだよ!?」
(悔しいが)心配してたのがアホらしくなって、俺はエナメルバッグを床に落とした。早く帰ってきて損した気分だ。時間を返してくれ。できるだろ、神様なら?
「バカなことを言うでない、愚か者よ。」
ちっ。
「……今日はまた、随分と荒れてるな、イツキよ。反抗期はまだ終わらぬか? お兄ちゃん?」
那由多は立ち上がった。そして、ムカついてる俺の目の前まで来るとこう言った。
「イツキ、さよならだ。」
――――え? 気がつくと、那由多は俺の首に腕を回していた。そう、なぜか俺は那由多に抱きつかれていた。彼女から、わずかに梅の香りがした。そういえば、那由他稲荷には白い梅の木が何本か植わっていたな……。
そう思った瞬間、ふっと全身の力が抜けていった。頭がクラクラする。数年前にインフルエンザに罹ったのを思い出した。膝から崩れ落ちそうだった俺を、那由多が前からがっしり支えていた。顔が那由多の肩に乗り、背中に回された腕がきつく俺を締め付けた。女の子に抱きかかえられてるとか、情けねーぜ、俺……。
「な……ゆ、た……?」
声を出そうとして驚いた。まともに口が開かない上に、のどが枯れているみたいだ。どうしたんだ、俺は?
「そろそろ出てくる頃だと思っていたぞ。」
クラクラする頭の中で、那由多の声が妙に大きく聞こえる。エコーがかかってるみたいに響いて、とても耳障りに聞こえる。いや、耳障りなのは雨音の方か? ――両方か。ああ、意識が火星までぶっ飛びそうだ。だが俺は、なんとなく、しかし確信をもって、「意識を手放してはいけない」と抵抗していた。ここで意識を失ったら、何か取り返しのつかないことになりそうな気がした。
(出張中の父さん、母さん、こんなところで死にそうでごめんなさい……。)
腕がだらんと下がって、フラフラ状態で、頭も働かなくって、今にもばったりイきそうで、それでも俺はまだ懸命に無意識の闇と闘っていた。(泣けてくるほど健気だぜ、俺。)……くそ、目が霞んできた。那由多は何してるんだ? ダメだ、もう限界か……。
「……っ、……。」
那由多、と言おうとしたが声にならなかった。俺はそこで負けを認めた。俺が死ぬのだと、そこでわかった。
そう考えたところで、俺の意識はブラックアウトした。
これだけ時間かけておいて、全然いつもの文字数(約8000字)に足りてません(笑)
さて、これからどうしましょう…。