その3
『いやっ……お兄ちゃん!』
暗い道をただ走り続ける。イツキが黒く霧散していく姿を、消え行く光の幻影を捕まえようとする。
(もう、限界……っ。)
足が止まりかけ、そして――
「はっ!」
がばっと起き上がる。寝汗がひどい。夏なのに冷汗で寒い。
ここ最近、ユキは悪夢を見続けていた。彼女が異常に早起きなのは、この悪夢のせいでもある。(もとより純健康優良児であったが。)
「また、夏休み入ってからずっと同じ夢……。」
力の入らない白い手をぼんやり見つめ、彼女の表情は不安に染まる。
「お兄ちゃん、何もなければいいけど……。」
祈るように呟くと、彼女は障子窓を開けて東雲を遠く見遣った。
「これ、ユキ。」
高橋家朝餉の席にて。食パンと目玉焼きを初めて見た稲荷神那由多――もとい稲荷山ナユタ――は、目を丸くしてユキに尋ねる。
「ふぇ……何ですか?」
ウィンナーをかじっていたユキは箸を置いた。
「……この黒い飲み物……コーヒーというのか? ……これはうまいのか?」
俺の目の前のコーヒーカップを指差して、那由多は鼻をひくひくさせた。うーん、こういうところは動物っぽいよなあ。
「ええと……それは……。」
困ったようにユキは俺の方を見る。まあ中1でブラックコーヒーがうまいかどうか説明するのは難しいわな。というわけで俺は妹に代わってコーヒーの味を語ってやった。
「……うまいかうまくないか以前に、結構苦いぞ。」
ずずっとコーヒーをすする。それを目で追う那由多はまだきょとんとしている。
そして思い立ったかのように
「……ユキ、私にもコーヒーを淹れろ。」
何故か口を尖らせて言った。
「……。」
コーヒーを前に神妙な面持ちの那由多。一応彼女は動物の神様ってことで、猫舌のようだった。(カレーのときは平気だったくせに。)すっかり冷めたコーヒーを飲んでも美味しいとは思えねえぞ?
「むう……。」
一口。
眉根を寄せる。やっぱ冷めたインスタントコーヒーほど不味いものはないからな。
「不味いだろ。」
俺が湯気も立ち上らないカップを下げようとすると、那由多にその手を掴まれてしまった。
「いや、美味であったぞ!」
……は?
「独特の風味、香り、何より苦味!このようなものを今まで知らなかったとは……なんともったいない!」
……おい、味覚がおかしいぞ。冷めたコーヒーが好きな狐なんて聞いたことねえよ。亜鉛サプリでも飲ませたほうがいいか?
「ユキ、毎朝私にもコーヒーを淹れてくれ! 目が覚めるような味だからな。」
……つまりそれは目が覚めるほど不味かったということじゃないのか?
まあどうでもいいか。平和なら結構、それ以上を高望みするほど俺は煩悩に塗れていない。
「――なゆたんさん。」
襖をそっと開け、半分だけ顔をのぞかせるユキ。
「……来ると思っていたぞ。」
兄が買い物に出かけた頃を見計らい、ユキはここ連日見続けている夢を那由多に相談しようと思っていた。毎晩の悪夢を見る理由も、(不本意ながら)この狐神に訊けば何かわかると踏んだのだ。
「え……。どうして私が来るって……?」
ほんの少し驚くユキ。
「忘れたか?私は全知全能に等しい神、那由多サマだ。」
視線だけをこちらに向ける那由多。
「たとえそれが、人の心であってもな。」
妖しく光るその翡翠に、ユキは息を呑んだ。
「……お願いします。」
「――なるほどな。その夢がイツキの身に何か起こる前触れではないか、と……。」
「そうなんです。私、お兄ちゃんが心配で……!」
ユキの顔は今にも泣き出しそうだった。それほどまでに、その悪夢は現実味を帯びていたのだ。
「わたし……私じゃ何もできなくて……。だからなゆたんさんなら何か知ってるんじゃないかって、そう思ったんです。悔しいけどっ、本当は私がなんとかしたいけど……でも、ダメなんです。何もわからなくて……。お兄ちゃんを助けられるの、なゆたんさんだけなんです! だからお願いします!!」
額を畳に擦り付け、ユキは必死に訴える。
(大切な人のため、か……。)
那由多はほんの少し目を細め、そして立ち上がった。
「そこまで言うなら仕方ない、教えてやろう。ただし、約束が二つある。……いいな?」
「はいっ!」
「やっべ、もう夕方……!」
夕日をバックに疾走する一台の自転車。その運転手は爽やか系苦労性男子高校生高橋一葵だ。
舗装されているもののデコボコの道路は相変わらずで、おかげで前カゴに乗っているスーパーの袋の中身は飛び出しそうになっている。こんなところで荷物をゴロゴロ落として拾うハメになるなんて恥ずかしすぎる。でも早く帰りてえ。というわけで俺は、荷物に細心の注意を払いつつ急いで自転車を漕ぐという大技を成し遂げているのだ。どうだ、スゲーだろ。
……なんて考えてる自分がアホらしい。
そもそもこんなことをやるハメになった元凶は、スーパーでばったり高橋に会っちまったことだ。偶然なのかそうじゃないのか(まあ実際そうじゃないんだろうが)、俺は週末の買出しに出るとなるとやたら高橋に出くわす。あと、バイト先の和菓子屋でも。彼女自身は偶然を装ってるようだが、やたら気合を入れて可愛いカッコして来るもんだからバレバレだ。ああ、俺ってちょっと、いやかなり酷いかな?(すまん高橋。)
だって考えてもみろよ。あんな気の弱そうな子なのに顔真っ赤にしながら話しかけてくるんだぜ。俺は彼女のその努力を無下に扱えないし、そんなことをしたら加藤にボコボコにされる。(加藤はやたら強いオタクだからな。)だから俺にできることは気づかないフリをしてやることだけだった。
そして彼女にそんな気遣い以上の感情を抱くことも……その時の俺にはなかった。まあ、今これを書いている瞬間もないしな。(ちょっと可哀相だけど。)
とりあえず俺は那由多と二人きりで気まずいだろう妹の気持ちを考慮し、帰途を急ぐのであった。
「っはー。ただいま。」
スーパーから自転車で10分。急いで8分。山道坂道の多いこんな田舎になんだって俺は住んでるんだろうね。いや、別に田舎であることは悪くない。悪くないが……やはり自動車って便利だなあ。俺も早く免許取りたいぜ。
兎にも角にも俺はビニール袋片手に、息せき切らして無事帰宅した。さて、ユキはっと……。
「遅かったな、イツキ。」
スニーカーを脱いで顔を上げた途端、ぬっと視界に現れたのは何を隠そうお稲荷様なゆたんである。この疫病神……ではなく幸福の神様は素敵で素晴らしくて本当にいいお方なので俺は早く彼女にご飯を作って差し上げたいなあ。(畜生、「疫病神」って思った途端無言の圧力かけやがって。)
「イツキ、腹が減った。早うしてくれ。」
またも心を読まれてしまった可哀相な俺は、疲れてるってのに一息つくこともなく台所に立つことにした。いや、今日の料理当番は俺だけどさ。
(出張中の父さん母さん、どんどん家長代理の立場を弱めていってごめんなさい。)
「あ。お兄ちゃん帰ってたんだ。」
俺たちの声を聞きつけて、ユキがひょこっと顔を出した。意外と平気そうだな。えらいぞ、ちゃんとお留守番できて。
「ごめん、遅くなった。ほれ、ちゃんと買ってきたぞ。これで全部だよな?」
「ありがと。」
にっこり笑うユキにレシートとビニール袋を預けて、俺はとりあえず冷蔵庫の中身を確認する。
(今日は手早く飯作らねーとな……。)
もう忘れていたんだ、俺は。
あいつは俺の「日常」にあまりにすんなりと溶け込んでしまったから。
俺はこんなにもニブい奴だったか?
妹の、たとえほんの僅かだとしても、その変化に気づけないなんて。兄貴失格だよな。
そして、あいつの目がいつもよりほんの少し、厳しく鋭かったことに。
ユキは一人寝床の上で想う。
昼間、(にわかには信じがたいが)神との対話。
『――まずは条件を二つ言おう。絶対にイツキに言わないこと。いいかユキ、何を聞いても気を落とすなよ。イツキに気取られるな。』
那由多は長い睫毛を伏せ、その影を下瞼に落とした。
『……はい。』
拳を握るユキ。流れる張り詰めた緊張感と、永遠にも感じられる束の間の沈黙。
そして那由多は少し間を置いてから口を開いた。
『それからもうひとつは……イツキはもうすぐ死ぬ。』
『……えっ?』
ユキは伏せていた顔を一気に上げる。その目はこれでもかというほど見開かれ、唇は、何か言おうと言葉を探しては諦めていた。
再び張り詰める沈黙。
30秒後。先に口を開いたのは、その言葉の意味するところすべてをゆっくりと(受け入れたかはともかく)理解したユキだった。
『お、お兄ちゃんが……死んじゃう?』
彼女の声は小さく、しかしはっきりと震えていた。
『ふん。まあ信じろと言われて信じられる話ではないだろうな。だが、今は無理にでも心しておけ。……よいか、何があっても目を逸らすな。』
那由多は少し語調を強めた。諭すように、促すように、決して優しくない二つ目の条件を、厳しく紡ぐ。ユキは金色の毛並みを持つ女神から目を離さない。……逸らせない。唇を強く噛んでいることにようやく気付く。
『いいかユキ、忘れるでない。』
那由多はユキを指差し、翡翠の瞳を鋭く光らせて続ける。
『私は全知全能の稲荷神、“那由多”だ。だから、何事も懼れるでない。』
まだ年端も行かぬ幼い少女に、心から頷かせるための言葉を。
そして彼女にこれから起こることも、何があったのかもを「少しだけ」話した。
『お前は、そうだな、わかりやすく言えば霊感が強い。だからそのような夢を見る。』
真っ直ぐ見据える那由多と、押し黙るユキ。
『今まで、自分でもそう思ったことがあろう?』
『はい。でも、昔よりも随分はっきり見えるようになったんです。今まで黒い靄みたいだったのが、なんだか生き物みたいな形に見えたり……。』
俯くユキの顔は前髪に隠れている。
『そうか。……恐らくは、私の影響だろうな。何せ、イツキにも靄が見えるほどだからな。』
(庶民の家に似つかわしくないほど高価そうな)立派な透かし彫りの施された机に頬杖をつく那由多。ここは、彼女にあてがわれた客間である。
『え……お兄ちゃんも見えるように?』
『ああ。今までイツキには見せまいと隠れて悪霊を追い払っていたが……。』
那由多は考え深げに目を細めた。その瞳はどこか遠くを見つめているようだった。
『悪霊……だったんですか、やっぱり。』
那由多は答えない。
『そっかあ……お兄ちゃん、死んじゃう……のかあ……。』
先ほどは我慢できたこみ上げる気持ちを、今度は耐えられそうになかった。
『――ッ、――――っく……。』
ユキの嗚咽は、それでも長く続かなかった。
『なゆたんさん。』
ごしごしと瞼を擦って、ユキは顔を上げた。その瞳には、揺ぎ無い強さ。
『お兄ちゃんをお願いします。』
「兄の死」などという、どうしようもなく受け入れたくない現実に真正面から立ち向かう勇気を、那由多は強く感じた。
『(ふ、気丈な娘よ……。)』
那由多はユキの真摯な瞳に、軽く微笑んで答えた。ユキは彼女に垣間見た慈愛を、とても美しいものだと悟った。
「お兄ちゃん。」
暗がりの中、ユキは腕を伸ばし、小さな手を見つめる。
「お兄ちゃん、私なゆたんさんを信じるよ。」
タオルケットを強く掴んでみる。
「だから、お兄ちゃんはきっと大丈夫だよね。……ちゃんと、ずっと私のお兄ちゃんでいてくれるよね……。」
那由多の言葉を思い出し、ユキは安堵の眠りにつく。
「……あ、と……ふつ……か……。」
「お兄ちゃーん!あ、さ、で、す、よ!!」
「う……うう……(あと5分……くそ)。ああ、おふぁよ……。」
午前7時。妹によって創り出された夏休みの規則正しい生活サイクルは本日も健在である。とっくに朝食の支度を済ませているユキには脱帽するね。
というわけで今日も今日とて食卓に向かうと、やはりアホみたいに早起きの(どこの年寄りだっつの)那由多が新聞を広げていた。
「おはよー、なゆたん。」
「相も変わらず妹に毎朝起こされるとは、幸せものだな、『おにーちゃん』?」
ケラケラと笑って那由多は朝っぱらから俺を小ばかにしやがる。
「うるせー。」
俺は洗面所に向かおうとして……はたと思い出した。
「はーん、那由多サマ。今日が何の日だか、全知全能の神様ならご存知だよなあ?」
那由多の眉毛がぴくっと動いた。妹は、俺が那由多と会話している方が多いことにむすっとしている。
「……何の話だ。」
ちょっと不服そうだ。たまには仕返しだ、このやろー。
「そんなナマイキな口ばっかり利いてる居候には、自転車買ってやらねーぞ。」
今度は狐耳がぴくっと反応する。俺は思わずニヤリ……。やべえ、楽しいぞコレ。
「ほう、給料日か。」
まだ不服そうな那由多、だが今度は言い方に棘がない。
「学校行ったら、英語の予習のとこ教えろよ。」
俺と神様との間で、薄ら暗い取引が行われた。
(出張中の父さん母さん、那由多の影響で性格をちょっと悪くしてごめんなさい。)
かちゃかちゃ。
ユキは食器を片していく。
「明日……か……。」
那由多の予言がぐるぐると頭を巡る。
『――イツキは明後日死ぬのだ。』
今日は部活に身が入りそうにないな、とユキは溜息をついた。
「ほれ、早く乗れよなゆたん。遅刻すっぞ。」
那由多があんまりにも
『本当に自転車を買ってくれるのだろうな!?』
なんて何回も何回もうるさいもんだから、すっかり那由多が家を出るはずの時間を越してしまった。もう自転車じゃないと間に合わない。
俺は不本意ながら、カップルさながら那由多と自転車二人乗りという大暴挙に出たのだ。
本当は違反だけどまあいいだろ。どうせ警察に見つかっても「やめなさーい」くらいしか言われない。
那由多は始め、おっかなびっくり俺にしがみついてくるものだから少し漕ぎにくかった。女なんて後ろに乗せるもんじゃないぜ。
「イツキ、間に合うのか。」
すっかり慣れ切ったような那由多は、俺が少し焦っているのを感じ取ったのか、偉そうに聞いてくる。後ろでゆったり感じる風はさぞかし気持ちいいんだろうぜ。俺は乗ったことがないがな。(いつも貧乏くじは俺に回ってきやがる。)
「間に合うよ。二度とお前とは二ケツしねーからな。」
……結構ギリギリだ。那由多の予習プリント写す時間あるかな。
英語はキライだ。(めんどくせー。)
「はー、セーフ……。」
補習の始まる7分前。那由多のプリントを写す時間は……まあ、急げば大丈夫だろう。
「おっはよーす、イツキ~!」
ゾワッと背中に鳥肌が立った。ああ、そうさ。予想通りの加藤だ。もう今日は疲れた。無視決定!
「なあなあ、今日は稲荷山さんと一緒に登校か~? いつも来る時間より遅いし、息切れしてるし……」
聞きたくないな。やめてくれ。
「――そうか! 稲荷山さん後ろに乗せてラブラブ登校かー! 高橋さんというものがありながら、憎いぞイツキ!!」
その辺にしとけ、キレるぞ。だが徹底無視。
「……あの、高橋君……その、おはよう。」
最悪のタイミングで来ちゃう高橋だ。絶対聞いてたろうな……。憎いのはお前だ、加藤。
「ああ、はよ……。」
誤解だ高橋。俺はあんな高飛車女神とラブラブなんてしてないししたくもないんだ。
「やっぱり……仲いいんだ……。」
ボソッと高橋は呟いた。憐れ、“純粋に”いたいけな同級生は悲愴な面持ちを隠しきれていない。
事の張本人稲荷山ナユタはとっくに自分の席についていた。俺たちのことなんてどうでもいいんだろうな……。
俺の重大ミッション、那由多の完璧予習プリントを写すこと――任務失敗。(明日の分を写させてもらうことで取引は成立したが。)
最悪な一日の幕開けだな、まったく。あ、ヤバい。英語全然わかんねー。
結局その日の英語の補習は、当てられてしどろもどろに答えることしかできなかった。ついでに言うと、俺の次に当たった隣席の高橋も、補習の内容が頭に入ってないようで、「わかりません」と小さく答えるのみだった。(成績良いのにな。)
全ては加藤の責任なので、俺と高橋のジュース代はヤツ持ちだ。きっちり奢ってもらうからな。
「じゃあ、俺はこのまま夕方までバイトだから。」
空気を読まず帰りまで無理矢理自転車の荷台に乗り込んだ那由多とは、家まで半分来たところで別れた。
「ちゃんと給料を持ってくるのだぞ。」
最後の最後まで俺に念を押していった那由多の顔は、極限まで極上の笑顔で満たされていた。
「あーもー、わかったからとっとと帰れ。」
しっしと彼女を祓って(悪霊はあいつだ)、俺はこの辺では多少名の通った和菓子屋「もちづき」まで愛車を走らせた。
「さて、仕方あるまい。徒歩で帰るか。……ん?」
イツキと別れた那由多は、遠くから走ってくる人影を見つけた。
「あれは……。」
目を凝らすと、それはクラスメイトの高橋みづきのようだった。
「イツキを慕っておる小娘か……。」
那由多は、彼女が自分を追ってきたわけをなんとなく理解した。
「……ふ、少しからかってやるか。」
(――イツキの心を手に入れるには、障害を乗り越えるほどの強さがなければな。)
この時点で俺の命はあと1日。そう、俺だけが知らなかった。
でも、生きてる。今の俺は確かに生きてる。俺は今でも「ユキの兄」の高橋一葵だ。
――あの時以外はな。
とてつもなく空いてしまいました。申し訳ございません。
夏休みに少しでも書き溜めておきます!…多分。