その1
俺が今から話すことを、信じてもらえる自信はない。というか、ぶっちゃけ信じるほどの内容でもない。こんなような、ある意味ありふれた話はその辺の本屋に行けば山積みになっているだろう。ただ、俺の中でその“日々”の記憶は今でも鮮明に残っているし、だからこそ、ここまで詳しく書き付けることができた。まあ、日記をまとめたような物と思って欲しい。そして、今日もまた、いつしか記憶に残る“日”になるのだろう。なぜならその“日々”は、今も継続中だからだ。
俺の家の近くにはお稲荷様がある。ごく普通の古くて小さなお稲荷様で、俺は縁日がやってるときくらいしか行ったことがない。なにせ、名前も知らなかったお稲荷様なのだから。
その稲荷神社から、自称「お稲荷様」が俺の前に現れたのはいつのことだったか。
「おいそこのお前、私に供物を提供しろ。」
ちょうど夏休みに入ってすぐくらいに、俺は例のお稲荷様の前を通りかかった。時刻は友達の家から帰ってきたあたりだったから、たぶん夕方だろう。いきなり俺に命令口調で話しかけてきたのは、高校生か、それより少し年上に見えるくらいの女の子だった。最初、彼女が何を言っているのか理解できなかった俺は、さぞかしマヌケ面をしていたことだろう。女の子は眉間に皺を寄せて、俺の反応に構うことなく続けた。
「ん。どうした、持っていないのか? ならば仕方ない、行くぞ。」
女の子はイライラしたように、俺の腕を掴んだ。
「え、えっと……あの?」
あまりに突然すぎる事態に、当然のことながら俺は困惑する。出会ってから5秒後にはもう、美少女に腕を引っ張られているなんて、ありえない。
その女の子は、薄紫色のロングヘアに、吊り上がった緑色の瞳、巫女さんみたいな服を着ていて、何より“特に”普通じゃないのは獣耳と尻尾を持っていることだった。そして、結構かわいいのでそれがまたよく似合う。別に俺はオタクが好きな萌えだとかはよく知らないが、まあ今ならその気持ちが少しわかる気がする。ただこの現実世界において、獣耳ひっさげて紫色の頭をしている娘なんて、アニメの中くらいの話だろう。
兎にも角にも、俺はどうしていいかわからなかった。こういうとき、表紙が萌えイラストの小説みたいなもの(ライトノベルっていうんだったか?)を読んでる諸君は、実に興奮したに違いない。そしてその本の主人公と同じような行動を取っただろう(繰り返すが、俺はそういうことに疎い。ただ、友人からちょろっと聞かされたくらいの知識だ)。俺の友人はそのクチだ。興味もないのに無理矢理そういう本を貸してくるからな。まったく迷惑甚だしい。最近は「俺が異世界に行ったら――」だの、「俺の目の前に突然可愛い宇宙人が現れて――」だの、わけのわからない安い妄想話をメールで送ってきやがる。実につまらんよ。読んでみるか? もっとも、俺はすぐにそのくだらないメールを削除するから、直接ヤツに頼んでくれ。(間違っても俺経由では教えないからな!)
だが現実はそう甘くないのだ。自分がその話どおりに行動を起こしたとして、誰かが書いた筋書き通りにその女の子が動くはずもない。かくして俺は、その女の子(見た目がキツネっぽいのでお稲荷様と俺は呼ぶことにした)に引っ張られるまま、成り行きに身を任せた。なにせその女の子は、本当に女か? と思うほどの馬鹿力だったからだ。
「な……なあ、君は一体……?」
俺は新手のキャッチセールスに捕まった気分だった。もしかしたら本当にこういうオタクを狙った手口があるのかもしれない。もっとも、俺の住んでる片田舎にそんなキャッチセールスは出没しない。中学の家庭科の授業で見せられたビデオで得た知識から、そう想像したのだ。
「なんだ? よく聞こえぬぞ。もう一度言え。」
ずんずんと大股で早歩きする女の子に、俺は小走りでついていかないと転びそうだった。まったく情けない。
「い、いえ……なんでもないです。」
女の子がこっちを睨んだような気がして、すっかり俺は縮こまってしまった。俺は契約書にはサインするまいとか、財布の中身があとどれくらいだとか、なんだかくだらないことを考えていた気がする。
「よし、着いたぞ。」
早歩きで5分。コスプレお稲荷様に連れられた先は、なんというかこう……昔ながらのお豆腐屋さんだった。平成生まれの俺に、「昔ながら」の何がわかるだとか怒られそうなのだが、たまにやってる、「地域のいいところをぶらり歩き」的なテレビ番組で紹介されるような感じのお豆腐屋さんなのだ。俺の乏しいボキャブラリーではそう表現するのでいっぱいいっぱいなので勘弁して欲しい。
「えっと……ご飯を奢れって……?」
まさかキャラ作りでもしてるのか、本当に豆腐屋に連れて行かれるとは思わなかった。そこまでやるだろうか、普通? 俺はまだわけわからぬままだった。
「うむ、これでよい。」
お稲荷様は整った顔立ちをこれでもかというほど極上の笑顔に仕上げて、油揚げを指差した。それがあんまりにも可愛いので、俺もまあ油揚げくらいならという気になってしまった。
そう、まさか本当にお稲荷様だなんて、俺は夢にも思わなかった。
「えっと……おいしい、油揚げ?」
俺は、店主に多少ジロジロ見られるという苦難を乗り越えて手に入れた油揚げを夢中でほおばっているお稲荷様をちらりと見る。あんまりにも幸せそうに食べているので、なんだかこっちもちょっと嬉しくなってしまう。
「……ふ、この味も百年ぶりか……。やはりここの油揚げは絶品だな。」
もう満腹、という様子でお稲荷様は手を合わせた。実際に食べたのは油揚げ3枚で、小食なんだな、と俺は思った。
「お前、なかなかよくできた人間だな。この私を助けたこと、いずれはありがたー……く思うだろう。」
お稲荷様はそう言って、真っ白な犬歯を見せて笑うと、立ち上がった。いよいよ何か売りつけられるのか、と俺は覚悟した。だが、彼女は予想の斜め上を行った。
「お前、私をお前の家に住まわせろ。」
今度こそ俺は心底驚愕したね。ついさっき遭ったばかりの(ここで敢えて“遭”の字を使わせてもらう)女の子に、タカリ宣言ばかりか、同棲宣言までされたのだから。俺は、まさかの恋愛詐欺だろうか、このいたいけな男子高校生を捕まえて、などと考えていた。今思えば、よくこんな奴に付き合ったな俺。
「えっと……それ、本気で言ってるのか?」
俺はいい加減怒り出したい気分だった。その気持ちが相手に伝わったのか、彼女はこう答えた。
「ふむ、そうか……藪から棒に言われても、確かに困惑するのも無理ないな。では……。」
お稲荷様は懐から何やら取り出すと、ふうっと息を吹きかけた。
それが何か理解する間も無く、おそらく0コンマ8秒後。俺の身体は、真っ白な和紙にがんじがらめにされていた。
「うわ!?」
ぎりぎりと締め上げられ、おまけに身体は地面から離れている。どうなってるんだ。
「私の頼みを聞かぬとは、まったくこの土地の人間の信仰心も薄れたものだ……。」
お稲荷様が指を動かすと、俺の身体は彼女のすぐそばまで持っていかれた。彼女の顔が、間近に迫る。
「これでわかったろう。さて、そろそろ名乗ってやるとでもするかな。……私の名は那由多。正真正銘、お前のよく知る那由他稲荷の稲荷神だ。さて、もう一度訊こうか。お前、私をお前の家まで連れて行け。」
「く、苦し……!」
彼女の息が吹きかかる距離にまで来て、ようやく俺は、彼女の顔が恐ろしい表情になっていることに気付いた。有無を言わせぬオーラを感じる……なんとなく。
「どうするのだ?」
首に絡まる和紙と、この世で一番恐ろしい笑顔を見た俺の返答は、もちろん一つであった。
(出張中の父さん母さん、情けない息子でごめんなさい。)
「た、ただいまー……。」
なるべく音を立てないように、俺は玄関の引き戸を開けた。しかしこの家もまあまあ年季が入っている。俺の思いとは裏腹に、――畜生。建て付けの悪い戸め――容赦なく戸はガラガラ言ってくれた。それに気付いて、妹が廊下を走ってくる音が聞こえた。
「おっ兄ちゃん、おっかえりー……い!?」
満面の笑顔から一瞬で氷のように固まる妹。まるで俺が彼女でも連れてきたことにショックを受けているような顔だ。(安心しろ、俺は彼女いない暦17年を死守している。)
「え、えーと……。」
俺は後ろにいるお稲荷様をどう説明しようか悩んでいた。無論、信じてもらえるとは思わないが。
「その人……誰?」
血の気の引いた顔で、妹は尋ねてきた。口ごもる俺と、その後ろで玄関をキョロキョロ見回してる変な女の子。史上最強に変な絵ヅラだったろうな。
「あーと……せっ、説明は後でするから! ちょっと部屋に戻ってろ、由季。」
お稲荷様の手を引いて、俺は家に上がった。俺があんまりにも慌てているものだから、彼女は草履をまともに脱げないまま俺に着いて来た。かたっぽの草履は玄関に放り出され、もうかたっぽは廊下にひっくり返って転がっていた。玄関前の妹は、まだ呆然と立ち尽くしていた。
「……え、えっと……君って、本当にあの稲荷神社のお稲荷様なの?」
俺は自分の部屋に彼女を上げて、テーブルを挟んで向き合っていた。妹の誤解を解く方は、とりあえず後回しだ。……少し心配だが。
座布団の上にちょこんと座る彼女は、可憐な巫女さんと言った印象で(変な耳と尻尾は付いてるが)、とてもじゃないが神様には見えない。ちょっとコスプレをたしなんでいる(頭も含め)可愛い女の子だ。
(アイツが俺と一緒じゃなくて良かった……。)
アイツとは、今日俺が一緒に遊んでいた友人のことである。先ほど言った、アニメやらゲームやらなんやらが大好きな迷惑なオタクで、こんなお稲荷様に出くわしたら間違いなく興奮してうるさかったろう。今日も女ばっかりしか出てこないアニメのDVDを押し付けられそうになった。
「お前、まだ私のことを信用しておらんのか? どこからどう見ても、稲荷神であろう!」
ふん! と鼻息を吐いてふんぞり返る彼女に、俺は「どこからどう見ても、ちょっと頭のネジが足りないコスプレイヤーです。」なぞ畏れ多いことは言えなかった。(ちなみに彼女が胸を張った姿は、和服を着ているというのに出ているところの大きさが強調されて……まあ、そういうことだ。)
「まあよい。しかしウサギ小屋のような家だな。この私の住む家がこんなところか?」
お稲荷様――もといナユタ様――は、頬杖をついて俺の部屋を見回した。そりゃあ神様の住むところにしちゃあちょっとボロ臭いかもしれんが、那由他稲荷のお社だって、この家より遥かに小さいしボロボロだ。それに俺の家は田舎だけあって、都会の狭い土地に無理矢理建てられた家なんぞより幾分かは広い。っていうか人ン家に「ウサギ小屋」はねえだろ。
――などということを俺が言えるわけもなく(もう和紙で縛られるのはこりごりだ。俺はMじゃない。)、ただ「はあ……すいません。」と、別にこの家を建てたのも、彼女を連れてきたのも俺の責任じゃないのに謝るしかなかった。
「ふっ。ただの高校生のお前がこの私と共に住むのだ。感謝こそすれ、そのように腹を立てられる覚えもないわ。お前は心の底から喜ぶべきところだぞ? 言ったであろう、有り難く思うはずだと。」
那由多に心を読まれ、俺はぎょっとした。しかも俺の年齢まで知ってる。彼女の前で滅多なことを考えるものじゃない、と俺は理解した。またしても俺は彼女に謝るハメになったのだ。
「ふふん、よいよい。この私が住むというだけで、この家はあらゆる災厄から守られるのだからな。最高のもてなしを期待してるぞ?」
那由多はどこからか扇子を取り出し、それを扇ぎながら高笑いした。茶色い尻尾がゆらゆらと揺れ動いている。彼女から視線を外すと、襖の向こうにちらりと覗く瞳と目が合った。……ユキか。覗いてやがったな。
俺とお稲荷様の、奇妙な同居生活の始まりである。
「そういえばお前の妹の名はわかったが、肝心のお前の名をまだ知らんな。教えろ。」
人様の家でくつろぎ倒している神様に名前を聞かれ、とりあえず俺は自己紹介しておくことにした。ていうか、年齢がわかるのだから名前もわかりそうなものだが……と俺は考えようとして止めた。また心を読まれかねない。
「あ……えっと、俺はイツキ。高橋一葵。歳は17で、えっとあとは……ああ、妹の名前は由季で、13歳の中一です。両親は今出張で、夏休み終わるまで帰ってこないから……えーと、」
「もうよい。」
どもる俺を制して、彼女は茶菓子の煎餅をつまんだ。異様に静かな家中に、ボリボリと煎餅を砕く音だけが響く。
「おい、そこの娘……ユキといったか? 出て来い。」
さすがは神様、那由多も妹に気付いていたらしい。視線だけを襖に向けて、妹を呼んだ。妹はそろーっと襖を開けて、恐る恐る出てきた。
「えっと……そのー……。」
目が泳いでいる。覗いていたことがバレてびくびくしているのだろう。妹は俺の隣に座って、
「ご、ごめんなさい!」
と開口一番謝った。いつも強気な妹も、目の前の神の貫禄に圧倒されている。俺と大差ない歳に見える女の子でも、やはり神様は神様か。
「ふん、覗きとは趣味が悪いが、この際水に流してやろう。今日からお前にも世話になるのだしな。私が稲荷神であることも聞いていたであろう?」
こくこくと何度も妹はうなずく。よく信じたな、妹よ。正直すぎるのもいかがなものかと思うぞ。キャッチセールスに捕まらないようにな。
「ならば話は早い。お前は今日から私の世話係となれ。よいな?」
勝手に話を進める那由多を、妹だけは巻き込むまいと俺は止めた。
「ま、待て! 妹までどうして、」
「少し黙っていろ。お前にもちゃんと仕事をやる。」
……彼女に軽くあしらわれ、俺はちょっとヘコんだ。
「まあ基本的に私の食事の世話だのなんだの、最低限のことをしてくれるだけでよい。そうすればこの家も安泰だろうて。なんなら万年の繁栄を約束してやろうか。」
……俺の家はそんな大層なお家柄じゃない。
「任せて! 料理は結構得意なの!」
妹は慣れたのか、ガッツポーズを取りつつ彼女にヘタクソなウィンクを送った。いいのか、妹よ。
「うむ、兄とは違い聞き分けの良い子供だな。」
那由多に褒められて照れる妹を見て、俺はちょっと傷ついた。
「……さて、肝心のイツキ、お前だが。」
指をさされて、俺は背筋を伸ばした。なぜかコイツの前ではちゃんとしてないといけないような気がする。
「今日から私は、お前のクラスメイトの“稲荷山ナユタ”ということになっておる。私が夏休みの補習に参加していても驚くな。」
「はあ!?」
制服姿の那由多を想像して、少し鳥肌が立った。
「この家は生気に満ち溢れておるからの。いつ悪霊が取り憑くやも知れぬ。私もこの家の生気は惜しい。みすみす悪霊にくれてやるよりは、この私自ら守ってやると言うのだ。もちろんお前たちもな。」
「え……?」
俺と妹は声を合わせて言った。構わず那由多は続ける。
「だがある日突然このようなうら若き……とは言えお前らの何百倍の年を迎えておるが……こほん。うら若き乙女が、男子高校生と一つ屋根の下に暮らせば怪しまれる。よって私は今日からお前たちの親戚の女子高生・“稲荷山ナユタ”として暮らす。異論はないな?」
まったく話について行けない。生気だの悪霊だのなんだの……一体なんなんだ? 返事を待たずして、彼女は勝手にこの家に住み着くことを決意してしまった。(ていうか偽名がそのまんますぎるだろ……。)
「なお、今日から私のことは“なゆたん”と呼んでくれて差し支えない。以上だ。では私は疲れたので寝るぞ。本尊から抜け出してくるのはかなり力を消費するからな……ふわ~あ。」
大あくびをして俺の部屋を出て行くと、彼女は勝手に妹の部屋で寝転がっていた。……“なゆたん”って呼んでもらうのが憧れだったのだろうか。
(出張中の父さん母さん、どうか食費が増えても怒らないでください。)
翌朝。
「おにーちゃん! お兄ちゃんてば、起きてよもう! 朝ごはんできてるよー!」
夏休みくらい惰眠を貪りたい俺は、妹の手によって毎朝規則正しく7時に起こされ、俺の願望は未だ叶っていない。妹にも、いつか夏休みにダラダラ昼まで寝たい気分がわかる日が来るよう祈るばかりだ。
「そうだぞイツキ。早寝早起きは生活の基本だ。私なぞ新聞配達員が来る音で毎朝5時半に起床するわ。少しはユキを見習わぬか。」
妹以外の女の声が聞こえて初めて、俺は同居人が増えたことを思い出した。そういえば、親になんて説明しようと考えながら眠ってしまったらしく、風呂にも入っていない。
「あ、ああ……なゆたんか……。二人ともおはよ……。」
ぼーっとしながらも、俺は布団から起き上がる。今朝も蒸し暑いので、俺はシャワーを浴びてから朝食をとると伝えた。早速“なゆたん”と呼んでもらって嬉しいのか、昨日突然やってきたお稲荷様はちょっと顔を赤らめていた。その様子をむっとした表情で見つめる妹。
「おお、なかなかやるではないか、ユキよ!」
妹の作った朝飯に大興奮しているのは、昨日やってきたお稲荷様だ。ご飯に味噌汁(もちろん具は油揚げだ)に焼き鮭なんて、逆に現代の日本の朝食には少ないのかもしれないが、とりわけ目を輝かせるほど珍しいものでもないだろう。ご飯も味噌汁も鮭も食べたことないヤツなんていないだろ? だが目の前の神様には、こんな質素な朝食がご馳走に見えるらしい。
「え? そ、そうかな……?」
良く言えば兄思い、悪く言えばブラコン(これは俺の目から見てもそう思える)の妹は、突然増えた同居人にライバル心を燃やしているように見えたが、褒められれば素直に嬉しいらしい。ちょっと照れた様子でもじもじしていた。
「ううむ、このようなもてなしを受けたのは百年振りだ。鮭の味が忘れられんでな……。」
早速なゆたんは箸をつけた。鮭を一口ほおばるたびに、ほっぺたが落ちるんじゃないかと俺が心配するほど、ものすごく幸せそうな顔をする。神様のご機嫌を朝飯でとるとは、我が妹よすごいぞ。
「それじゃあ行ってくるけど……なゆたんさんにちゃんとお昼ご飯作ってあげてねっ。」
俺と那由多が二人きりになるのがよほど嫌だったのか、妹は先ほどまで、部活に行きたくないとごねていた。なんとか俺が宥めてようやく支度させることに成功したところだ。ちなみになゆたんは扇風機に大興奮中だ。
「わかってるって。部活頑張れよ、ユキ。」
俺がちょろっと応援してやると、コロッと態度が変わって元気良く返事する妹。単純なヤツめ。17年も生きてると、妹なんて思いのままに動かせるようになるものだ。
妹は手を振って走り出していった。さっきまでごねていて遅刻ギリギリらしい。まあ、ソフト部1年レギュラーのあいつが走ったら余裕で間に合うと思うが。
「……さてと。」
妹が門を開けて出て行くのを確認して、俺は居間に戻った。
「あ゛~~~。」
一生のうち一度は必ずする子供染みた行動を、那由多は楽しそうに満喫していた。
「……もしかして、神様のクセに扇風機も知らなかったのかよ。」
それを壁に寄りかかって眺める俺に、那由多は振り返ることもなく返事した。
「何を言う、ずっとあの社でここの土地を守ってきたのだ。現代の知識を摂取する暇などあるわけなかろう。」
「あ、そ……。」
相変わらず那由多は扇風機の前を陣取っているので、俺は暑くてたまらなかった。一週間前からクーラーは壊れており、両親が帰ってくるまで我慢しなければならない。実に1ヶ月ほどは地獄の生活だ。
「暑……。」
俺のわずかな、扇風機の風をこちらに送って欲しいという希望も、那由多に届くことはなかった。
「――イツキ。住まわせるついでに、もう一つ私に頼まれてはくれぬか?」
突然、那由多は正座して俺に向き直った。何か重要な話なのかと、こちらも正座する。
「……って、“折り入って頼むこと”がアイス買ってこいって……人をアゴで使いやがって、あんのクソギツネー!!」
自転車のペダルを一杯こいで、俺は鬱憤を晴らすために叫んだ。比較的大きな施設が増えたとはいえ(田畑のど真ん中にショッピングセンターがあるようなイメージである)、やはり田舎は田舎だ。コンビニまでは自転車を使う距離がある。
『もう一つ私に頼まれてはくれぬか?』
『……できることなら協力はするけど……?』
『うむ、よくぞ言った、イツキ! それで頼みというのはだな……。』
『うん?』
『“あいす”とやらを食べさせて欲しいのだ!』
目を輝かせて顔を近づける那由多。
『……は? 今、なんと……。』
『だから、“あいす”だ! 知らんのか?』
怪訝な顔をする那由多と、ぽかんとする俺。
『……“アイス”っていうのは、つまり食べ物のアイスクリームってことですか?』
『おお、そうだそうだ、あいすくりいむ! それが食べたいのだ!』
那由多は俺の両手を強く握り、ぶんぶんと揺らす。それに合わせて尻尾も左右に勢いよく振れる。
『なゆたん。お前さっき、“現代の知識を摂取するヒマはねえ”とかなんとか言ってなかったか?』
『ああ、言ったが?』
『なんでアイスは知ってんだよ。』
『縁日のときに、いつも人間が咥えておったからな。』
『……自分で買ってこればいいだろ……。』
『ふむ、それも考えた。しかしここはやはり、イツキに私の役に立ってほしくてな。』
そういうと那由多は、懐に手を伸ばした。昨日和紙でがんじがらめにされたことを思い出して、ドキッとする。彼女は明らかに俺を脅していた。
『……わーったよ! お役に立てさせていただきます!!』
俺は唇をかみ締め、財布をポケットに突っ込み自転車の鍵を握り締め出て行った。
それが20分前。俺は汗だくで干からびながら帰ってきた。アイスが溶けないよう必死で自転車を漕いできた脚がガクガクしている。帰宅部で身体の鈍っている俺にはキツい運動だ。
「おい、買って来たぞ、なゆたん。……なゆたん?」
どさり、と力の抜けた手からビニール袋が落ちる。今、彼女は真っ黒な霧と対峙していた。
「やっと帰ってきたか、イツキ。遅いぞ。早くあいすをしまって来い。」
こちらを一切見ることもなく、彼女は黒い霧から視線を外さない。俺はその異様な光景に本能的な危険を感じ、後ずさった。
「……っ!?」
こちらを睨まれた気がした。強い視線を俺は感じた。苦しくて、金縛りみたいに動けない。(俺は金縛りにあったことはないが。)
「スキありだ!!」
畳まれたままの扇子で霧を指す那由多。叫んだ口から真っ白な犬歯がちらりと見え、黒い霧はあっというまに消えてしまった。金縛りが一気に解け、俺はへたり込む。那由多が何をしたかは知らないが、実に一瞬のできごと。
「大丈夫かイツキ。それとも腰が抜けたか?」
那由多はいつもの調子で笑う。さっきの尖った吊り目も、今はいくらか柔らかい印象の吊り目に変わっていた。
(見えてはいけないものを見た気がする。)
ひらたく言えば、悪霊とやららしいが。
「イツキ、あいすは溶けていないか?」
我に返り、俺はビニール袋の中のものを確かめる。……ちょっと柔らかい。カップアイスにしてよかった。
「なゆたん、今のって……?」
アイスを冷凍室に入れながら、那由多に問う。すっかり俺の汗は引いて、少し寒い。……寒いのはそれだけのせいじゃないかもしれないが。
「見てわからんかったのか?悪霊だ。あ・く・りょ・う!」
……聞きたくなかったな。俺は少し後悔した。相変わらず扇風機の前を陣取る那由多は、俺の気持ちなんてちっとも考えていないのだろうか。
「悪霊て……。」
沈黙。俺たちの間には扇風機のファンが回る音だけが聞こえていた。
(出張中の父さん母さん、留守中に神様と悪霊をいっぺんに呼び込んでごめんなさい。)
俺はこの先を想像して、少し怖くなった。
続……?
一応連載小説になってはいますが、短編のつもりで書いておりますので短い連載の予定です。あくまでも予定ですが…。
あわよくばシリーズ化を狙ってますけれども(笑)
これからもこの哀れな男子高校生イツキ君とブラコンなユキちゃんとやたら尊大ななゆたんを見守ってやってください。