私との新婚旅行に、幼馴染も連れていくのですか
「セシルも一緒に行くことになった」
オリヴィエは、私が広げた旅程表の上へ、別の宿の案内を置いた。山に囲まれた建物の絵が描かれている。海辺の町には見えず、私は紙をずらして、その下に隠れた地名を確かめた。
「どなたの旅行のお話?」
「僕たちのだよ。セシルは医師に、温泉で静養するといいと言われたそうなんだ」
式は五日後だった。結婚した翌朝に出発し、海辺の町で六日間過ごす。半年も前から決めていた予定で、私は昨日、旅先で使う帽子を受け取ったばかりだ。風で飛ばされないように、顎の下で結ぶリボンをつけてもらった。
オリヴィエは案内を開き、庭に面した長椅子の絵を指した。
「ここなら、セシルも気に入るだろう。湯に入らなくても、空気がいいらしい」
「新婚旅行に、セシル様もいらっしゃるの?」
「ああ。もちろん、部屋は別だ。向こうの侍女も来る」
念を押すように言ってから、彼は私へ笑いかけた。私が気にすることは、もう解決してあるつもりなのだろう。私は膝の上へ手を戻した。彼の隣に座り、宿の案内を一緒に見るために寄せていた椅子が、急に近すぎる気がした。
「私との新婚旅行に、幼馴染も連れていくのですか」
彼の笑みが薄くなる。
「だから、そう言っているだろう」
「二人で行く約束だったわ」
「せっかく休みが取れるんだ。僕たちと一緒なら、彼女も心強いだろうと思って」
セシル様は、幼いころから彼の家へ出入りしていた方だ。人見知りで、知らない場所へ行くのが苦手だと聞いている。夜会ではオリヴィエのそばにいることが多く、私も何度か、彼女が落ち着くまで待ったことがあった。
それでも夜会が終われば、私たちはそれぞれの家へ帰った。今回は、結婚して初めて二人で過ごす旅行だった。
「でしたら、ご家族といらっしゃればよいのではないかしら」
「彼女の父上は領地を離れられない。母上も膝が悪くて、長い移動はつらいそうだ」
「あなたが付き添うなら、別の日にはできないの?」
「僕だって、そう何度も仕事を休めないよ」
彼は指先で宿の案内を押さえた。私はその手を見てから、自分の旅程表を引き寄せる。港の市場へ行く日の横には、知らない魚を食べてみる、と小さく書いてあった。何があるか分からないから、行ってから選ぼうと楽しみにしていたのだ。
「海辺の宿は、どうするの?」
「取り消してくれないか。君の方で手配したものだから、その方が早いだろう」
「もう、温泉の宿に申し込んだの?」
「空室を問い合わせている。セシルには、こちらで何とかすると伝えた」
私は顔を上げた。
「私に聞く前に?」
「君がそこまで嫌がるとは思わなかったんだ」
オリヴィエは椅子の背へ身を預けた。私は彼の機嫌が悪くなる前に、説明しなければと思った。セシル様に療養へ行ってほしくないわけではない。けれど、どこから話せば、二人で行きたかったという言葉を聞いてもらえるのか、分からなかった。
「私、この旅行を楽しみにしていたの」
「僕もだよ」
「あなたと二人で過ごせると思っていたから」
彼は一瞬、困ったように眉を寄せた。それから身を乗り出し、私の手へ自分の手を重ねる。
「結婚したら、二人の時間なんていくらでもあるじゃないか」
私は、その手の下で指を伸ばしたまま動けなかった。婚約してから、同じような言葉を何度か聞いている。今日はセシルがいるから。今度は君の好きなところへ行こう。結婚したら、もっと一緒にいられる。
「その最初の旅行なのよ」
彼の手が離れた。
「では、セシルに来るなと言えというのか」
「二人で行きたいと言っているの」
「彼女はもう喜んでいる。今から断ったら、君が嫌がったからだと思うだろう」
「……私は、嫌だとお伝えしているわ」
言い終えると、胸が苦しくなった。こんなにはっきり言ったのは、初めてだったかもしれない。彼も驚いた顔をしたが、すぐに、仕方のない人を見るような目になった。
「マノン。体調の悪い人に、そこまで張り合わなくても」
私は旅程表を畳んだ。折り目が合うよう、ゆっくりと端を揃える。その間に落ち着こうと思ったのに、指が震えて、一度ではうまく畳めなかった。
「今日は、お返事できません」
「何の返事だ」
「旅行のことも、これからのことも」
彼はしばらく私を見ていた。やがて立ち上がり、温泉の宿の案内を卓上へ残す。
「少し考えてみてくれ。悪い宿ではないよ。君が見たいという滝もある」
滝を見たいと話した覚えはなかった。海の近くにある古い灯台のことだろうか。聞き返す前に、彼は帰りの挨拶をした。私は立って見送ったけれど、玄関まではついていかなかった。
*
オリヴィエが帰ったあと、母が応接室へ来た。手には衣装屋から届いた箱を抱えている。私の旅行用の手袋が仕上がったらしかった。母は卓上の案内と私の顔を交互に見て、箱を脇へ置いた。
「どうしたの」
私は、セシル様も同行することになったのだと話した。行き先が変わること、海辺の宿を取り消してほしいと言われたことも。母は途中で口を挟まなかった。最後まで聞いてから、卓上の案内を閉じる。
「お父様には?」
「まだ。今夜もお戻りは遅いのでしょう」
「ええ。明日の晩には、お話しできるわ」
父に相談することを考えると、急に事が大きくなる気がした。旅行へ行く人が一人増えるだけだと、オリヴィエなら言うだろう。私が折れれば、宿を変えるだけで済む。母は私の隣へ座った。
「あなたは、どうしたいの?」
「二人で行きたかった」
「今も?」
すぐには答えられなかった。今からセシル様の同行を断ってもらえたとして、彼と並んで海を眺められるだろうか。宿で彼女から手紙が来たら、私はまた、気持ちよく送り出せるかを問われるのだろうか。
「分からないの」
母が頷いたので、私はようやく顔を上げた。
「でも、今のままでは行きたくないわ」
「では、そのつもりで考えましょう」
母は旅行用の手袋を箱から出し、薄紙の上へ並べた。長い道中で汚れても手入れしやすい、柔らかな革の手袋だった。試しにはめると、指先までよく合う。私は手を握り、開いた。
「宿へは、いつまでに連絡しなければいけないのかしら」
結婚をどうするかは、まだ決められない。それでも、行くかどうか分からない宿を、そのままにしておくことはできなかった。母は、明日一緒に商会へ行こうと言ってくれた。
*
翌日、ラクロワ商会の扉をくぐると、帳場からバジル様が顔を上げた。
「マノン様。ちょうど、港の迎えの件でご連絡しようと思っていたところです」
彼は父の友人の息子で、今は父親の商会で船便の手配を担当している。今回の旅行でも、宿への連絡を取り次ぎ、港から宿までの道や、荷物を預けられる場所を教えてくれた。
彼は書類を一枚取り出しかけ、母が一緒なのを見て手を止めた。私は挨拶を返し、鞄から旅程表を出す。何度も折り畳んだ角が、柔らかくなっていた。
「旅行を、取りやめるかもしれません」
彼は驚いたようだったが、理由を尋ねる前に応接室へ案内してくれた。扉を閉め、お茶を頼んでから、私たちの向かいへ座る。
「日程の変更でしょうか。それとも、今回はお出かけにならない?」
「まだ、そこまで決められていないの。結婚のことから、考え直しているので」
バジル様は頷き、用意していた書類を脇へ置いた。私は事情を短く話した。温泉地へ行くことも、セシル様が同行することも、口にするたび、また腹が立った。聞いてもらったお礼を言うころには、疲れて、海辺の宿も何もかも取り消してしまいたくなっていた。
「お手数をおかけして、ごめんなさい。あんなに調べていただいたのに」
「それは構いません。宿の条件を確認します」
彼は呼び鈴へ手を伸ばしかけ、私が握っている旅程表へ目を落とす。
「海へ行くのも、やめたいのですか」
私は紙から指を離した。
「オリヴィエ様と行かないのなら……」
「お母様と行くこともできます。もちろん、お二人のご都合が合えばですが」
母を見ると、すぐには返事をせず、私の顔を見ていた。
「私は、予定を変えられるわ」
「でも」
「あなたが行きたいなら」
私は旅程表を卓上へ置いた。海へ行きたいかと聞かれたら、行きたかった。窓から船を眺め、市場で何を食べるか迷い、まだ誰にも詳しく話していない、あの展示館にも入ってみたかった。
バジル様が棚から地図を取り出す。私は、それを広げる手を見ながら、鞄の底に入れた冊子のことを思い出していた。
「お母様との旅行に変える場合も、宿には確認が必要です。部屋を分けるなら、なおさら」
「まだ決めていないのに、調べていただいてもよいの?」
「取り消したあとで、やはり行きたかったと言われる方が困ります」
私が礼を言うと、彼は地図の端へ文鎮を置いた。母は窓際の椅子へ移り、帳場から届いた宿の返金規定を読んでいる。
「まず、行きたかった場所を教えてください」
「もう旅程表に書いてあるでしょう」
「これは、どなたが決めた予定ですか」
私の指が、紙の縁を折りかけた。
午前は領主の館を訪問し、午後は会員制の庭園へ。その次の日は、婚約者の知人が所有する帆船を見学する。清書をしたのは私だったけれど、そこに書かれた場所を選んだのは、ほとんど彼だった。
「……宿から海が見えれば、それで」
「宿からは見えます。ほかには?」
バジル様が鉛筆を持って待っている。私は鞄の留め金を外し、一度閉じた。それから、底にしまっていた薄い冊子を取り出す。
「ここへ、少しだけ」
彼は差し出した頁を読み、眉を寄せた。
「船乗りの持ち帰ったもの展示館」
「ご存じ?」
「前を通ったことはあります。店先に、大きな木の魚がぶら下がっていたような」
「魚ではないそうです」
「では、何です」
「それを確かめたかったの」
彼は冊子から目を上げた。私は隣の頁を指す。収蔵品を紹介した小さな絵の下に、見慣れない品々について説明がついていた。
「館長のお祖父様が外国から持ち帰ったものらしいのだけれど、魚だと言うと館長が怒るのですって」
「何なのか、ここには書いていませんね」
「だから、見たいの」
バジル様はもう一度、絵へ目を落とした。木彫りのそれには尾らしいものがあり、腹の下には足が四本ついている。しばらく眺めてから、彼は鉛筆の先で、自分の地図の余白を叩いた。
「魚でしょう」
「足があります」
「外国の魚です」
「便利な外国ね」
窓際で、母がお茶を置く音がした。咳払いにしては、楽しそうな声だった。私は冊子を引き戻そうとしたが、バジル様が次の頁へ指を挟んでいるので手を止めた。
「こちらの、蓋が七つある壺は?」
「どれを開けても、同じところにつながっているそうよ」
「なぜ七つも」
「家族全員で同時に使うためかもしれません」
「七人で壺を囲むんですか」
「仲のよいご家族なら」
彼の口元が緩んだ。笑うと、普段の仕事の話をしているときより、若く見えた。私は次の展示品も教えたくなり、頁へ手を伸ばす。けれど、壁の時計が目に入ったところで、その手を引っ込めた。
「ごめんなさい。こんなものに、お時間を取らせて」
「まだ壺の使い道が決まっていません」
「決めてから行くの?」
「現地で違ったら、考え直せばいいでしょう」
彼は冊子を閉じずに、地図の上へ並べた。
「ここは旧港のそばです。午前中に見て、そのあと食事をするなら……」
「灯台も近いのね」
「ええ。ぜひ登ってください。上から湾が全部見えます」
「階段は?」
「二百八十六段です」
「どうしてそんなに正確なの」
「数えたので」
私は彼を見た。彼は真面目な顔で見返してくる。
「途中で嫌になりませんでした?」
「二百を越えたあたりで。ただ、そこまで数えた以上、やめられません」
「私は下でお待ちすると思うわ」
「まだ誘ってもいません」
言われて、顔が熱くなった。彼も口を閉じ、地図へ視線を落とす。鉛筆で港の周囲をなぞってから、私の方へ向け直した。
「灯台の下にも茶店があります。登らなくても、船はよく見えますよ」
私は頷いた。冊子を鞄へ戻そうとすると、彼が、借りてもよいかと尋ねた。旧港の通りには似た名前の建物が多いので、場所を確かめたいという。
帰宅してから、母と旅行の話をした。宿に空きがあれば部屋を二つにし、難しければ寝台を追加してもらおう。馬車には侍女も乗れる。細かなことを考えるうち、少しずつ、本当に行けるのだと思えてきた。
その晩、父にもオリヴィエの話をした。父はしばらく黙ってから、彼との返事が決まったら、自分に知らせるよう言った。式の準備が済んでいることを理由に結婚する必要はない、とも。
*
翌朝、ラクロワ商会から冊子が返ってきた。宿の部屋は二つ用意できるという知らせと、細い紙が一枚挟まっている。
展示館は水曜日が休みで、私たちの到着予定日と重なっている。行くなら翌朝がよいこと、宿から頼める馬車の料金、雨でも開いていることが、バジル様の字で書かれていた。
私はそこを読み直した。自分で旅程表へ書くことさえ遠慮していた場所に、行けるようになっている。雨の日のことまで考えてくれた人がいた。
お礼の手紙を書き、最後に付け足す。
『木彫りが何だったか、帰ったら必ずお話しします』
封をする前に、もう一行書いた。
『二百八十六段の灯台にも、少し興味が出てきました。』
書き終えた手紙の隣には、婚礼の打ち合わせに使っていた帳面があった。式まで、あと三日だ。
母と二人で海へ行くことを考えると、胸が軽くなる。それなのに、結婚をやめると口にするのは怖かった。送ってしまった招待状や、仕立て終えたドレスのことが、何度も頭に浮かぶ。
帳面を開くと、最初の頁に、オリヴィエと私の名が並んでいた。二つの名前の間を花で飾ったのは、半年前の私だ。
あのころは、彼と海を見られるのが嬉しかった。旅行の相談を始めた日には、二人で市場を歩き、知らない料理を食べたいと話した。彼は笑い、道に迷ったらどうする、と尋ねたのだった。
私はそのとき、迷ったら一緒に考えればいいと答えた。彼も、それなら帰るまでには道を覚えられるねと笑っていた。
*
オリヴィエが来たのは、その日の午後だった。
応接室へ入ると、彼は椅子から腰を浮かせ、私の顔を見て座り直した。卓上には温泉地の案内が広げてある。私も向かいへ座ったが、彼は隣に腰を下ろした母を気にする様子もなく、宿の絵を指した。
「部屋が取れた。セシルも、君が分かってくれてよかったと喜んでいる」
「分かったとは、言っていないわ」
「昨日、宿の取り消しに商会へ行ったと聞いたよ。だったら、同じことじゃないか」
確かめるような口調ではなかった。彼の中では、もう話が済んでいるらしい。私は鞄から海辺の町の旅程表を出した。彼はそれを見ると、眉を寄せる。
「まだそちらへ行きたいのか」
「ええ。母と行くつもりです」
オリヴィエは母を見た。それから私へ視線を戻し、困ったように笑った。
「お義母様まで同行するのは、少し……」
「あなたとは結婚しません」
彼の笑みが消えた。声を出した途端、私の手が冷たくなった。膝の上で握り合わせても落ち着かず、片方の爪がもう片方の手袋に引っかかる。母が隣で姿勢を正す気配がした。
「何を言っているんだ。式は三日後だぞ」
「分かっています」
「旅行のことで、そこまでする必要があるか?」
私は一度、息を吸った。彼が怒ると、言うつもりだったことが頭から抜けてしまう。けれど今日は、黙って頷くことだけはしたくなかった。
「二人で行きたいとお願いしたでしょう」
「セシルが療養を必要としているのは、説明したはずだ」
「だから、別の日に付き添って差し上げてと申し上げたの」
「そう簡単に休みは取れない」
「それなら、私との旅行を別の日にできるか、相談してほしかったわ」
彼は口を閉じた。
あの日、知らされたときには、もう宿へ手紙が送られていた。セシル様には同行を約束し、彼女のご両親も安心しているという。私が嫌だと言えば、その全員を困らせることになっていた。
「どうして、決める前に聞いてくださらなかったの?」
「君なら、構わないと思ったんだ」
「構うとお伝えしたあとも、変わらなかったでしょう」
オリヴィエは温泉地の案内を畳んだ。紙の端がずれ、折り目が二重につく。
「分かった。セシルには断る。それでいいだろう」
その言葉を聞きたくて、あの日は何度も頼んだ。けれど今、胸に湧いたのは喜びではなかった。彼は私を見ている。譲ってやったのだから、今度は私が折れる番だというように。
「結婚はできません」
「今、断ると言ったじゃないか」
「結婚をやめると申し上げるまで、私の嫌だという返事は、聞いていただけなかったのね」
彼の顔が赤くなった。すぐに何か言い返そうとしたが、母が私の名を呼び、お茶を勧めた。私は杯を持った。温かかったけれど、飲む余裕はなかった。
「マノン。僕と結婚したかったんじゃないのか」
私は頷いた。そこまで嘘にしてしまうことはできない。ドレスの仮縫いも、招待状を選んだ日も、彼の家で暮らすために荷物を分けていた時間も、楽しみだった。
「したかったわ。だから、新婚旅行は二人で行きたかったの」
オリヴィエは何も言わなくなった。私は杯を戻し、卓上の旅程表を自分の方へ引いた。
*
その晩、父に結婚をやめると伝えた。父は、まず先方の父親と話をすると言い、すぐに使いを出した。
翌日の話し合いで婚約解消が決まり、招待客へ式を取りやめる連絡が始まった。私も何通か、親しい方へ手紙を書いた。書き終えるたびに胸が痛んだが、結婚します、と書き直したいとは思わなかった。
最後にオリヴィエが、もう一度だけ会ってほしいと頼んできた。
応接室には父にもいてもらった。彼は前のように案内を広げず、私へ一通の手紙を差し出す。セシル様のご家族へ、同行できないと断った手紙の控えだった。
「温泉の宿も取り消した。海辺の宿がまだ使えるなら、旅行だけでも、予定どおりにできないだろうか。僕の両親にも来てもらえば……」
彼は今度こそ、元の旅程表を持っていた。半年前、私が何度も書き直したものだった。
「市場にも行こう。君が食べたいと言っていた料理も」
「覚えていらしたのね」
「忘れていたわけじゃない」
その返事が、かえって苦しかった。覚えていても、あとでよいと思われていたのだ。彼は旅程表を見下ろし、声を落とした。
「セシルは昔から、困ると僕を呼ぶんだ。断れば傷つくだろうと思って」
「私は、断っても傷つかないと思った?」
「……そういうつもりでは」
「私が悲しいと言っても、あなたは彼女を傷つけない方を選んだわ」
オリヴィエの指が、紙の上で止まった。
私は彼を責め続けたいのではなかった。けれど、そんなつもりではなかったと言われるたび、自分が傷ついたことまで取り下げなければならない気がした。
「次からは、必ず君に相談する」
次、と言われて、私は首を振った。
「一緒に暮らして、また同じことになったらと思うと、怖いの。今の私は、あなたと結婚する約束をできません」
彼は父を見た。父は私の方へ目を向けてから、娘の返事は変わらないと言った。
長い沈黙のあと、オリヴィエは旅程表を畳んだ。私が書いた名前を内側へ隠すようにして、上着の胸へしまう。
「君は、僕が行かなくても、行けるんだな」
小さな声だった。
私は頷いた。彼はそれ以上引き止めず、立ち上がった。扉の前で振り返ったとき、何か言われるかと思ったけれど、私の顔を見ただけで出ていった。
そのあと、手配を変更してほしいとラクロワ商会へ手紙を出した。私と母の名を書き、宿の部屋を二つお願いした。
夕方には確認の返事が届いた。バジル様の整った字で、馬車が迎えに来る時刻と、宿の住所が記されている。最後の一行は、小さな字で添えてあった。
『木彫りの正体は、私も楽しみにしています。道中、お気をつけて』
*
海は、思っていたよりも緑色だった。
港に着いて最初にそう言うと、母は、絵葉書の青い海を期待していたのかと笑った。風が強く、帽子のリボンを顎の下で結び直す。馬車へ乗るまでに、私たちの髪はすっかり乱れていた。
宿では部屋を二つ用意してくれていた。窓からは湾が見え、下の通りを魚売りの荷車が通る。母が荷解きをしている間に、私は窓辺へ椅子を寄せた。
何もする気にならない時間もあった。取りやめた式のことを思い出して、鏡の前で泣いた朝もある。それでも、部屋の外へ出れば、まだ知らない町が待っていた。
翌日、旧港の展示館へ向かった。軒先には、冊子で見た木彫りがぶら下がっている。実物は絵よりずっと大きく、口を開けた顔には、妙に愛嬌があった。
出迎えた館長へ魚の話をすると、ようやく説明できるとばかりに、目を輝かせた。
「これは海竜です。外国の船大工が、娘に作ってやったものを、私の祖父が譲り受けましてね」
「海竜」
「足がありますでしょう」
母が私を見た。私は笑いをこらえて頷く。
「でも、魚と間違える方も多いのでは?」
「皆、尾しか見ておらんのです」
バジル様へ、そのまま伝えようと思った。
館長は木彫りの背中を示し、そこに小さな座面があることを教えてくれた。竜に乗って海を渡る遊びをしたのだという。私はもう一度見上げ、短い足が四本ある理由に、ようやく納得した。
七つ蓋の壺は、商人が見本として持ち歩いた品だった。客が好きな形の蓋を選び、注文できるようにしてあったらしい。
「家族で囲むためではなかったわね」
母が残念そうに言うので、私はとうとう声を出して笑った。
出口では、小さな海竜の木彫りを売っていた。いくつか顔つきが違い、そのうち一つだけ、ひどく真面目そうな眉をしている。
私はそれを買い、薄い紙で包んでもらった。バジル様に渡したとき、何と言うだろう。魚だと言い張るかもしれない。足を見せれば納得するだろうか。包みを鞄へ入れた。
*
帰宅した二日後、私は母と一緒に商会を訪ねた。
バジル様は帳場で書類を見ていたが、私たちに気づくと立ち上がった。挨拶をしようとして、私の手の包みへ視線が動く。
「それは」
「まだ何も申し上げていません」
「大きさが、ちょうど」
応接室へ通されると、母は商会の奥へ挨拶に行った。私は卓上へ包みを置く。薄紙を開いたバジル様は、木彫りを持ち上げ、裏側まで確かめた。
「海竜だそうです」
「やはり足が」
「そこは認めてくださるのね」
私が館長の説明をすると、彼は子供用の乗り物だったのかと頷いた。それから木彫りを卓へ置き、離れて眺める。
「仕事中に目が合いますね」
「邪魔でした?」
「いえ。目を逸らすと言い負けた気がします」
私は笑い、七つ蓋の壺の話もした。バジル様は私の向かいに座り、家族で囲む壺というのも悪くなかったのにと残念がる。
港の市場で母が値段を聞き違え、大量の干物を買いそうになった話をすると、彼は途中で笑って、続きを待つよう片手を上げた。
旅行の手配のお礼は、最初に伝えていた。それでも彼は席を立たず、次にどこへ行ったのかと尋ねた。
「灯台には登りました?」
「途中まで」
「何段です」
「数えるのを忘れたわ」
「それでは、私の記録が確かめられません」
「景色を見に行ったのだもの」
彼は残念そうな顔をしたけれど、口元は笑っていた。
私は、海側の窓から入る風が強かったことや、踊り場で母と菓子を分けたことを話した。途中まででも港はよく見えた。いつか上まで行きたいと付け足すと、彼が頷いた。
「次は、もう少し涼しい季節がよいでしょうね」
「ええ」
*
それからバジル様とは、商会の外でも会うようになった。
彼の家の食事会で、私が魚料理の名前を間違えると、海竜かもしれませんよと小声で言う。私が笑いをこらえている間、彼は何事もなかったように澄ました顔で食べている。
街の露店で蓋のない壺を見つけたときには、二人とも黙って立ち止まった。先に吹き出したのは私だった。
冬の初めには、父の誕生日に出す菓子を買いに行くのに付き合ってもらった。甘いものならバジル様に聞くとよい、と彼のお母様が言ったのだ。
店に入ると、彼は思いのほか詳しかった。日持ちするものと、当日に食べた方がよいものを分けて教えてくれ、父の好きな果物まで尋ねた。
「これはどうかしら」
私が指したのは、箱に詰められた小さな焼き菓子だった。彼は考え、隣の品を勧める。
「贈り物なら、こちらの方が形が崩れにくいです」
「でも、あなたはこちらがお好きなのね」
バジル様は返事をせず、私が指した箱を見た。そこへ来てから、彼の目が何度か向いていたのを、私は知っている。
父への菓子を注文したあと、私は焼き菓子も二つ包んでもらった。店を出て一つ渡すと、彼は驚いてから、照れた顔になった。
「そんなに見ていましたか」
「ええ。展示館の壺よりも」
彼が笑った。私も包みを開け、通りの端の長椅子へ並んで座る。菓子は、端が少し欠けていた。口へ入れると、ほろほろと崩れて、焦がした砂糖の味がした。
「贈り物にしなくて正解でしたね」
「そうね」
私は彼の袖についた菓子の欠片を払った。彼は一瞬動きを止め、それから自分の包みへ目を落とす。
私も、もう一口食べた。その日は帰ってから、父にどの菓子を買ったかより、バジル様がどんな顔で食べていたかを先に思い出してしまった。
春になるころ、彼から散歩へ誘われた。
母と彼の妹が少し前を歩いている。私は新しく買った靴が痛くならないか気にしていたが、彼は道の先ばかり見て、いつもより口数が少なかった。
「何か、お仕事で困っているの?」
「仕事ではありません」
彼はそこで立ち止まり、私へ向き直った。
「マノン様。今度は、私から旅行に誘ってもよいでしょうか」
思わず彼の顔を見た。彼はすぐに言い足す。
「今すぐ二人きりで、ということではありません。まず、ご両親にお許しをいただいて、あなたとお付き合いをしたい。先のことも、考えていただけるなら」
最後の方は早口になった。
私は、あの小さな海竜を思い出した。訪ねるたび、彼の机の上にある。書類が積まれても、ちゃんと顔が見える場所へ置き直されていた。
「どちらへ連れていってくださるの?」
「あなたが、もう一度行きたいところへ」
「それでは、あなたの行きたい場所は?」
バジル様は口を閉じた。しばらく考えてから、観念したように答える。
「灯台へ。今度は、頂上からの景色を一緒に見たいです」
私は頷いた。彼が息を止めたように見えたので、もう一度、今度は言葉にする。
「私も、あなたと行きたいわ」
彼の顔が緩んだ。私へ手を差し出しかけ、ためらってから、掌を上に向ける。その手に自分の手を重ねると、彼は歩幅を合わせて歩き始めた。
「ただし、踊り場では休ませてくださいね」
「もちろんです」
「お菓子も持っていきます」
「それは登山ですか、茶会ですか」
「二百八十六段もあるのですから、両方にしましょう」
前を歩いていた母が振り返った。私たちの手を見て、それから私の顔を見る。私は手を離さず、母へ笑い返した。
灯台の上まで行くのに、どれくらいかかるかは分からない。途中で何度も休み、持っていった菓子を食べ、海を見ながら話していたら、思ったより遅くなるかもしれなかった。
隣でバジル様が、菓子は潰れないものがよいと言っている。私は、まず一緒に買いに行きましょうと答えた。




