【短編055】 地面の下:六月二十三日に、靴を玄関に置いたまま。
読んでくださってありがとうございます。
沖縄を舞台にした四作目です。観光の沖縄は、これまでの三作で書いてきました。今回は、その隣にある地面の話です。
静かな短編です。お時間のあるときに、どうぞ。
祖母が亡くなって一年が経った夏、渚は初めて平和祈念公園に行かなかった。
毎年、行っていた。祖母と二人で、六月の二十三日に。
慰霊の日だから、ということではなかった。祖母がそうしたかったから、渚もそうしてきた。ただ、そういう人だった。
今年は、行けなかった。
行けない理由は、なかった。
六月二十三日の朝、渚は靴を手に取って、玄関に置いた。それだけだった。
それでも、行かなかった。
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祖母の家は読谷村にあった。
今は渚が一人で住んでいる。三十二になった今も、ここ以外に帰る場所を持てていない。
庭の土は赤い。本土の土とは違う、鉄分の多い赤土で、雨が降ると靴の裏に貼りついた。子どもの頃から、この色が当たり前だった。
台所の棚に、祖母が使っていた泡盛のコップがある。割れそうで割れない、古いガラスのコップ。祖母はいつも夕食の後、このコップで一杯だけ飲んだ。渚の隣に座って、テレビを見ながら、ゆっくりと。何も話さない夜の方が多かった。それでも、渚はその時間が好きだった。
一度だけ、洗いながら落としたことがある。床で弾んで、欠けなかった。
あのとき、渚は少し泣いた。理由は分からなかった。割れなかったのに、泣いた。
ハルは縁側にいた。
いつからいるのか、分からない。去年の秋に気づいたら庭にいて、冬になったら縁側で丸まっていた。黒い猫だった。耳の先だけが、少し焦げたように茶色い。人に慣れているのか慣れていないのか、渚が近づいても逃げないが、触らせることもなかった。ただそこにいた。
誰かが捨てたのか、もともとどこかの猫なのか、分からないままだった。
分からないまま、追い払う気にもなれなかった。
首輪はない。
でも「ハル」と呼ぶと、たまに振り向いた。
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七月になって、観光客が増えた。
国際通りには本土からの家族連れが溢れ、レンタカーが渋滞を作り、ホテルの前に大きなスーツケースが並んだ。渚は仕事帰りにその列を抜けながら、毎年同じことを思った。
午後ずっと蛍光灯の下にいた目に、夕方の空の明るさが少し痛かった。誰かと話した記憶のない一日の終わりに、人混みだけが多かった。
悪いことではない、と。
本当に、悪いことではない。
ただ、観光地と呼ばれる場所のすぐそこに、まだ掘り返されていない地面がある。
そのことを、知っている人間と、知らない人間が、同じ道を歩いている。
それだけのことだった。
誰かを責める話ではなかった。
ある夜、窓の外から花火の音がした。
遠くの、どこかのホテルか、ビーチか。
渚は布団の中で目を開けたまま、天井を見ていた。
音は三回鳴って、止んだ。
また静かになった。
静かになってから、少しの間、耳が鳴った。
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祖母は戦争の話を、ほとんどしなかった。
一度だけ、渚が中学生の頃、夕食の後に少しだけ話したことがあった。
そのとき祖母の顔が、普段とは違う顔になったことを、渚は覚えている。
すごく近くにいるのに、どこか遠い場所に行っていた。
渚は何も聞けなかった。
祖母はすぐ話を止めて、「ご飯、もう少しある?」と言った。
渚はよそった。
それで終わった。
あの話の続きを、渚はもう聞けない。
そのことに気づいたのは、祖母が亡くなってからだった。
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お盆が近くなって、渚は仏壇の前に座った。
線香を立てた。
煙が細く上がった。
祖母の写真が、見ていた。
何か言おうとして、やめた。
言葉にしたとたんに薄くなるものが、あった。
ハルが縁側から入ってきた。
畳の上をゆっくり歩いて、仏壇の前に来て、座った。
渚の隣に、ではなく。
仏壇の正面に、まっすぐ向いて。
煙が揺れた。
ハルは動かなかった。
渚はしばらく、ハルの横顔を見ていた。
黒い輪郭が、煙の向こうでぼんやりしていた。
何かを知っているような顔ではなかった。
何も知らない顔でもなかった。
ただ、そこにいた。
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八月になって、渚はようやく平和祈念公園に行った。
一人だった。
初めて、一人で来た。
公園の駐車場は、本土ナンバーの車が多かった。
家族連れが歩いていた。
ガイドの声が、風に乗って聞こえた。
渚は礼拝広場を通り過ぎて、「平和の礎」の前に立った。
刻まれた名前の一つを、渚は指でなぞった。
石は熱かった。
八月の太陽が、一日中温めていた。
この名前の人は、生きていた。
ここに刻まれている全員が、生きていた。
それが当たり前のことなのに、石の前に立つたびに、改めてそう思う。
祖母の名前は、ここにはない。
祖母は生き残った側だった。
それが何を意味するのか、渚には一生分からないと思っていた。
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祖母が一度だけ言ったことがある。
「生き残ったのが、ずっと重かった」
それ以上は言わなかった。
渚も、それ以上は聞かなかった。
あの言葉を、渚は今でも持て余している。
受け取ったのに、どう持てばいいか分からない。
重い、と言っていた。
重いまま、祖母は八十七年生きた。
重いまま、泡盛を飲んで、笑って、渚に料理を教えた。
その重さは、どこに行ったのだろう。
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帰りに、売店でサーターアンダギーを買った。
袋を開けると、懐かしい匂いがした。
祖母がよく作っていた。形がいびつで、表面が割れていて、でも甘くて。
市販のものとは全然違う。それでも、この匂いだけは同じだった。
一つかじった。
甘かった。
甘いのに、少し苦かった。
油のせいだと分かっていた。
分かっていても、そう感じた。
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家に帰ると、ハルが縁側にいた。
渚が袋を持ったまま縁側に腰を下ろすと、ハルが少し近づいてきた。いつもよりも、少しだけ。
サーターアンダギーの匂いがするのか、鼻を動かした。
それから、渚の手の甲に顔をすり寄せた。
初めてだった。
渚は動かなかった。
息を止めるようにして、そのままでいた。
ハルの鼻は、冷たかった。
頬は、柔らかかった。
それだけのことだった。
それだけのことが、渚の目に何かを持ってきた。
ずっと遠かったものが、温度を持って、ここにあった。
泣くほどのことではなかった。
泣いた。
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縁側から、庭が見えた。
空が暗くなっていた。
夕立の前の色だった。
遠くで雷が鳴った。
ハルは逃げなかった。
まだ渚の隣にいた。
地面の下に、何があるか。
この島の、どこを掘れば、何が出てくるか。
渚は生まれたときからそれを知りながら育った。
知っていることと、感じることは違った。
感じていることと、言えることも、違った。
雷がまた鳴った。
近くなっていた。
ハルの耳が、ぴくりと動いた。
渚は祖母の泡盛のコップのことを思った。
落としても割れなかった、あのコップ。
台所の棚に、今もある。
空のまま、ある。
雨が来た。
庭の土が、濃い色に変わっていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
渚が何を受け取ったのかは、書いていません。読んでくださった方の中に、何かが残っていれば嬉しいです。
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