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【短編055】 地面の下:六月二十三日に、靴を玄関に置いたまま。

掲載日:2026/10/25

読んでくださってありがとうございます。

沖縄を舞台にした四作目です。観光の沖縄は、これまでの三作で書いてきました。今回は、その隣にある地面の話です。

静かな短編です。お時間のあるときに、どうぞ。

 祖母が亡くなって一年が経った夏、渚は初めて平和祈念公園に行かなかった。


 毎年、行っていた。祖母と二人で、六月の二十三日に。

 慰霊の日だから、ということではなかった。祖母がそうしたかったから、渚もそうしてきた。ただ、そういう人だった。


 今年は、行けなかった。

 行けない理由は、なかった。

 六月二十三日の朝、渚は靴を手に取って、玄関に置いた。それだけだった。

 それでも、行かなかった。


---


 祖母の家は読谷村にあった。


 今は渚が一人で住んでいる。三十二になった今も、ここ以外に帰る場所を持てていない。

 庭の土は赤い。本土の土とは違う、鉄分の多い赤土で、雨が降ると靴の裏に貼りついた。子どもの頃から、この色が当たり前だった。

 台所の棚に、祖母が使っていた泡盛のコップがある。割れそうで割れない、古いガラスのコップ。祖母はいつも夕食の後、このコップで一杯だけ飲んだ。渚の隣に座って、テレビを見ながら、ゆっくりと。何も話さない夜の方が多かった。それでも、渚はその時間が好きだった。

 一度だけ、洗いながら落としたことがある。床で弾んで、欠けなかった。

 あのとき、渚は少し泣いた。理由は分からなかった。割れなかったのに、泣いた。


 ハルは縁側にいた。


 いつからいるのか、分からない。去年の秋に気づいたら庭にいて、冬になったら縁側で丸まっていた。黒い猫だった。耳の先だけが、少し焦げたように茶色い。人に慣れているのか慣れていないのか、渚が近づいても逃げないが、触らせることもなかった。ただそこにいた。


 誰かが捨てたのか、もともとどこかの猫なのか、分からないままだった。

 分からないまま、追い払う気にもなれなかった。

 首輪はない。

 でも「ハル」と呼ぶと、たまに振り向いた。


---


 七月になって、観光客が増えた。


 国際通りには本土からの家族連れが溢れ、レンタカーが渋滞を作り、ホテルの前に大きなスーツケースが並んだ。渚は仕事帰りにその列を抜けながら、毎年同じことを思った。

 午後ずっと蛍光灯の下にいた目に、夕方の空の明るさが少し痛かった。誰かと話した記憶のない一日の終わりに、人混みだけが多かった。


 悪いことではない、と。

 本当に、悪いことではない。


 ただ、観光地と呼ばれる場所のすぐそこに、まだ掘り返されていない地面がある。

 そのことを、知っている人間と、知らない人間が、同じ道を歩いている。


 それだけのことだった。

 誰かを責める話ではなかった。


 ある夜、窓の外から花火の音がした。

 遠くの、どこかのホテルか、ビーチか。

 渚は布団の中で目を開けたまま、天井を見ていた。

 音は三回鳴って、止んだ。

 また静かになった。

 静かになってから、少しの間、耳が鳴った。


---


 祖母は戦争の話を、ほとんどしなかった。


 一度だけ、渚が中学生の頃、夕食の後に少しだけ話したことがあった。

 そのとき祖母の顔が、普段とは違う顔になったことを、渚は覚えている。

 すごく近くにいるのに、どこか遠い場所に行っていた。


 渚は何も聞けなかった。


 祖母はすぐ話を止めて、「ご飯、もう少しある?」と言った。

 渚はよそった。

 それで終わった。


 あの話の続きを、渚はもう聞けない。

 そのことに気づいたのは、祖母が亡くなってからだった。


---


 お盆が近くなって、渚は仏壇の前に座った。


 線香を立てた。

 煙が細く上がった。

 祖母の写真が、見ていた。


 何か言おうとして、やめた。

 言葉にしたとたんに薄くなるものが、あった。


 ハルが縁側から入ってきた。

 畳の上をゆっくり歩いて、仏壇の前に来て、座った。

 渚の隣に、ではなく。

 仏壇の正面に、まっすぐ向いて。


 煙が揺れた。

 ハルは動かなかった。


 渚はしばらく、ハルの横顔を見ていた。

 黒い輪郭が、煙の向こうでぼんやりしていた。


 何かを知っているような顔ではなかった。

 何も知らない顔でもなかった。

 ただ、そこにいた。


---


 八月になって、渚はようやく平和祈念公園に行った。


 一人だった。

 初めて、一人で来た。


 公園の駐車場は、本土ナンバーの車が多かった。

 家族連れが歩いていた。

 ガイドの声が、風に乗って聞こえた。


 渚は礼拝広場を通り過ぎて、「平和の礎」の前に立った。


 刻まれた名前の一つを、渚は指でなぞった。

 石は熱かった。

 八月の太陽が、一日中温めていた。


 この名前の人は、生きていた。

 ここに刻まれている全員が、生きていた。

 それが当たり前のことなのに、石の前に立つたびに、改めてそう思う。


 祖母の名前は、ここにはない。

 祖母は生き残った側だった。

 それが何を意味するのか、渚には一生分からないと思っていた。


---


 祖母が一度だけ言ったことがある。


「生き残ったのが、ずっと重かった」


 それ以上は言わなかった。

 渚も、それ以上は聞かなかった。


 あの言葉を、渚は今でも持て余している。

 受け取ったのに、どう持てばいいか分からない。


 重い、と言っていた。

 重いまま、祖母は八十七年生きた。

 重いまま、泡盛を飲んで、笑って、渚に料理を教えた。


 その重さは、どこに行ったのだろう。


---


 帰りに、売店でサーターアンダギーを買った。


 袋を開けると、懐かしい匂いがした。

 祖母がよく作っていた。形がいびつで、表面が割れていて、でも甘くて。

 市販のものとは全然違う。それでも、この匂いだけは同じだった。


 一つかじった。


 甘かった。

 甘いのに、少し苦かった。


 油のせいだと分かっていた。

 分かっていても、そう感じた。


---


 家に帰ると、ハルが縁側にいた。


 渚が袋を持ったまま縁側に腰を下ろすと、ハルが少し近づいてきた。いつもよりも、少しだけ。

 サーターアンダギーの匂いがするのか、鼻を動かした。

 それから、渚の手の甲に顔をすり寄せた。


 初めてだった。


 渚は動かなかった。

 息を止めるようにして、そのままでいた。


 ハルの鼻は、冷たかった。

 頬は、柔らかかった。

 それだけのことだった。


 それだけのことが、渚の目に何かを持ってきた。


 ずっと遠かったものが、温度を持って、ここにあった。


 泣くほどのことではなかった。

 泣いた。


---


 縁側から、庭が見えた。


 空が暗くなっていた。

 夕立の前の色だった。

 遠くで雷が鳴った。


 ハルは逃げなかった。

 まだ渚の隣にいた。


 地面の下に、何があるか。

 この島の、どこを掘れば、何が出てくるか。

 渚は生まれたときからそれを知りながら育った。

 知っていることと、感じることは違った。

 感じていることと、言えることも、違った。


 雷がまた鳴った。

 近くなっていた。


 ハルの耳が、ぴくりと動いた。


 渚は祖母の泡盛のコップのことを思った。

 落としても割れなかった、あのコップ。

 台所の棚に、今もある。

 空のまま、ある。


 雨が来た。

 庭の土が、濃い色に変わっていった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

渚が何を受け取ったのかは、書いていません。読んでくださった方の中に、何かが残っていれば嬉しいです。

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