第三章 駅
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
第三章「駅」をお届けします。
前回、私たちが無意識に引いてしまう「線」の存在に気づいた悠。
今回の舞台は、骨まで凍えるような冬の夕暮れ、駅のホームです。
冷たい風が吹き込むホームの端で、悠は一人の見知らぬ老人と出会います。
悠が初めて自らの意志で「見えない線」を越える瞬間の景色を、どうぞ見届けてください。
一月下旬の、骨まで凍えるような冬の夕方だった。
空は重苦しい鉛色に沈み、時折吹き付ける北風が、カミソリのように頬を撫でていく。 悠は、塾に向かうために私鉄の駅のホームで電車を待っていた。帰宅ラッシュが始まりかけたホームには、疲れた顔をしたサラリーマンや、スマートフォンに夢中な学生たちが等間隔で並んでいる。
そのホームのいちばん端、屋根が途切れ、寒風が直接吹き込む場所に、一人の老人が立っていた。
季節外れに薄手で、あちこちが擦り切れた古いラクダ色のコート。
かかとのすり減った、汚れの目立つ革靴。
手入れされていない、白く伸びた髪と無精髭。
手には、使い古された布製のバッグを提げている。
周囲の人々は、まるでそこに目に見えない結界でも張られているかのように、その老人から少しだけ離れて立っていた。
誰かが「離れろ」と指示したわけではない。老人が何か迷惑な行為をしているわけでもない。ただじっと、線路の先を見つめているだけだ。
しかし、自然に、そして残酷なほど明確に、距離ができている。
まるであの教室の隅のアリの席のように、見えない線が引かれているようだった。「異物」を避けるための、社会の無言のルール。
悠も最初は、他の人々と同じだった。
老人から数メートル離れた安全な場所で、イヤホンを片耳だけつけ、スマートフォンの画面に視線を落としていた。関わり合いにならないほうがいい。そう本能が告げていた。
しかし、ふと画面から顔を上げ、ホームの端に視線をやったとき。
老人と、目が合った。
ほんの一瞬だった。老人の濁った、しかし深海のように静かな瞳が、悠を真っ直ぐに捉えた。
何かを訴えるわけでも、助けを求めるわけでもない。ただ、世界から見捨てられたことを受け入れているような、ひどく諦観した目だった。
それだけなのに、悠の胸の奥が、ぎゅっと静かに痛んだ。
あの「穴」に、ホームの冷たい風が直接吹き込んだような感覚。
自分もまた、彼を避ける「その他大勢」の一人であるという事実が、突然恥ずかしく、やりきれなくなった。
気づけば悠は、ゆっくりと歩き出していた。
見えない線を、またぐように。
人々の訝しげな視線を背中に感じながら、悠は老人のすぐ隣、風の当たる場所に立った。
老人は少し驚いたように悠を見上げ、それから、かすれた声で言った。
「……寒いな」
それは、独り言のようでもあり、悠への問いかけのようでもあった。
悠は少し緊張しながら答えた。
「……そうですね。今日は特に冷えます」
「学生か」
「はい。高校二年です」
「こんな時間まで、大変だな。勉強か?」
「塾へ行く途中です。学校帰りで」
老人は、深く刻まれた皺を寄せて、小さく笑った。
「そうか。偉いな」
会話が途切れた。
沈黙が降りる。
冷たい風が吹き抜け、老人の薄いコートの裾を揺らした。
そのとき悠は、胸の奥にある空洞の輪郭を、これまでになくはっきりと感じた。
見えない穴。
なぜか、その具体的な大きさが直感的に分かった。
——半径18ミリ。
1円玉ほどの、小さな小さな穴。
その穴は、老人の孤独と共鳴するように、静かに、しかし確かに冷たい風を通していた。
第三章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ホームの端で孤立する老人の隣に並んで立った悠。この時初めて、彼は自分の胸に開いた空洞の大きさ——「半径18ミリ」という具体的な輪郭を直感します。
1円玉ほどの小さな小さな穴ですが、ここから悠の世界はさらに大きく変わり始めます。
次回(第四章)では、この見知らぬ老人との不器用で静かな対話が描かれます。彼らが共有した時間の中で、老人が語る「ある真実」とは……。
もし本作を楽しんでいただけていましたら、ページ下部より「ブックマークに追加」や「ポイント評価」をポチッとして応援していただけると、日々の執筆の大きな力になります!
3日に1話ずつ、投稿していこうと思っています。
次回の更新も、どうぞよろしくお願いいたします




