第一章 穴
こんにちは。数ある作品の中から本作を開いていただき、本当にありがとうございます。
日常のふとした瞬間に感じる「見えない壁」や、胸の奥を吹き抜ける冷たい風。
この物語は、そんな誰もが一度は経験したことのある「心の違和感」から始まります。
主人公の悠が教室の片隅で見つけた景色を、どうか一緒に見つめていただけたら嬉しいです。
それでは、第一章「穴」をお楽しみください。
人の心には、ときどき穴が開く。
それは物理的な欠損でも身体的な傷でもない。だから音もなく、血も流れない。
心臓が痛むような気がして内科の医者に診てもらっても、当然異常は見つからないし、どれほど精密なレントゲンやMRIを通しても、その空洞が黒い影として映し出されることは決してない。
しかし、確かにそれはそこに存在している。
気づいたときには、まるで隙間風のように、胸のずっと奥深く、肋骨の内側あたりに冷たい風を通している。すうすうと、体温を奪っていくような嫌な感覚だけが残るのだ。
悠がその「穴」の存在に初めて気づいたのは、十七歳の春だった。
高校二年の教室。三学期も終わりに近づき、クラス替えの足音が少しずつ近づいてきている、そんな時期。
暖房で息苦しくなった空気を入れ替えるため、窓は少しだけ開けられていた。そこから忍び込んでくる風は、かすかに春の湿気を帯びていながらも、まだ冬の刺すような冷たい匂いを色濃く残している。
昼休みの特有の熱気。
甘辛い卵焼きの匂い、コンビニのホットスナックの油の匂い、そして、あちこちで沸き上がる、ざわざわとした無責任で平和な会話の数々。机をくっつけ合い、箸をつつき合いながら、昨日のテレビ番組やスマートフォンのゲームの話で盛り上がる声が反響している。
その平穏な喧騒のなかで、教室の後ろの方から、ひときわ高い笑い声が聞こえた。
「なあ、見た?」
「何を?」
「あいつだよ、あいつ」
「誰?」
「アリ」
悠は、弁当のハンバーグを口に運ぼうとしていた箸を、空中でピタリと止めた。
アリは、去年の秋にこのクラスにやってきた留学生だった。中東の方から来たと先生は紹介していたが、詳しい事情をクラスの誰も知らない。彼は日本語があまり得意ではないらしく、いつも教室の最後列、窓際から一つ離れた隅の席に静かに座っていた。
「また一人で食ってるぜ」
「まあ、言葉通じないしな。友達いないのかな」
「なんかさ」
その声は、悪意というよりも、無邪気な優越感を含んで少し笑っていた。
「近寄りづらいよな。何考えてるかわかんないし」
「わかる。目とかすげえギラギラしててさ」
それは、決して大きな笑い声ではなかった。クラス全体を巻き込むような陰湿ないじめの合図でもない。
むしろ、彼らにとってはただの軽い雑談、暇つぶしのための消費される言葉の羅列だった。
けれど、その何気ない言葉の欠片は、彼らが思っているよりもずっと遠くまで飛び火し、見えない毒のように空気を汚染する。
悠は、音を立てないようにゆっくりと視線を向けた。
教室の隅。
アリは、持参したタッパーに入った、黄色いスパイスの匂いがする見慣れない米の料理を、静かに食べていた。
周囲の喧騒など一切耳に入っていないかのように、顔を上げることもなく。
ただひたすらに、ゆっくりと。
丁寧に、スプーンを口に運んでいる。その背中は、見えない壁で自分を必死に守っているように見えた。
その孤独な姿を見たとき、悠の胸の奥で、カチリと何かが動いた。
心臓の少し下あたり。
違和感だった。
うまく言葉にできない、ざらっとした小さな引っかかり。飲み込みそこねた魚の小骨のような、かすかな痛み。
「悠」
不意に、隣の席で唐揚げを頬張っていた親友の真琴が声をかけてきた。
「どうした? 腹でも痛いのか?」
「え?」
「さっきから箸、止まってるぞ。ハンバーグ食わないならもらうけど」
悠は自分が箸を持ったまま、奇妙な姿勢でぼんやりしていたことに気づいた。
「いや、なんでもない。食うよ」
そう言って、無理やりハンバーグを口に押し込み、逃げるように視線を窓の外に向けた。
校庭では、昼休みを利用してサッカー部の連中が声を上げながら走り回っている。土煙が上がり、平和な日常の風景がそこにあった。
そのとき悠は、まだ知らなかったのだ。
自分の胸の奥の柔らかな場所に、音もなく、小さな穴が生まれていたことを。
そしてその穴が、これから自分の世界の見方を根本から変えてしまうことを。
第一章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
教室の平和な喧騒の中で、悠が初めて気づいた胸の奥の違和感。
この「小さな穴」が開いたことで、彼が見ている日常の景色は少しずつ変わり始めます。
次回は、私たちが無意識のうちに足元に引いている「線」についてのお話です。
もし第一章を読んで「この先が少し気になる」「悠の視点に共感した」と思っていただけましたら、ページ下部より「ブックマークに追加」や「ポイント評価」をしていただけますと、今後の執筆の何よりの励みになります!
3日に1話ずつ、投稿していこうと思っています。
次回の更新も、どうぞよろしくお願いいたします。




