【8】有名は無力、無名は有力――姿を消した最強のハッカーが仕掛ける『プラチナパスポート』の衝撃。
◆8-1◆ 上海:資産家たちの「出口」
上海。黄浦江の夜景を一望する、ワン・グループ本社ビルの最上階。
深夜、王美帆は、重厚な沈香の香りが漂う父の執務室にいた。
正面の壁一面を占めるモニターには、ホワイトハウスのプレスルームからの中継映像が静止し、漆黒の背景に黄金の文字が浮かび上がっている。
【US CITIZENSHIP: $7,000,000 - APPLY NOW】
「……お父様」
メイファンは、傍らに座る父、王 徳賢(ワン・ダーシェン / Wang Dexian)の横顔を伺った。
一族を率いる老練な総帥の顔は、かつてないほどの驚愕に固まっている。
「この金額……アメリカは財政赤字解消に本気よ。国籍を『商品』に変えたわ」
父は深い溜息をつき、震える手で茶杯を置いた。
「……メイファン。中国やロシアの富裕層にとって、資産を国内に留めておくことは、常に刃を突きつけられているのと同じだ。我々はいつだって、逃げ場を探してきた。だが、これまではその『出口』は常に不透明で、危険な地下銀行や複雑な裏ルートを通るしかなかった」
「ええ。でも、アメリカはたった一度の演説でその檻を壊したのよ。700万ドル(約10億円)を払えば、彼らは喜んで我々を迎え入れる。不透明な資金は『合衆国への正規の投資』という大義名分を得て、世界で最も強固な『安全保障』に姿を変える。……そんな誘惑に抗える者が、この国にどれだけいるかしら」
メイファンは画面を見つめ、背筋に走る戦慄を抑えられなかった。
「誰がこんな仕組みを考えたのかしら。論理が、あまりに冷徹で美しい。……国籍という神聖な概念を、市場の力で解体してしまった」
彼女の脳裏に、かつて京都の油臭い中華料理屋で、紅生姜を端に避けながら「市場の審判」について静かに語っていた男の横顔が、鮮明に蘇っていた。
◆8-2◆あいつがよく言っていた「有名は無力、無名は有力」
東京・霞が関。経済産業省、本府庁舎。
廊下のあちこちに設置されたモニターの前に、職員たちが吸い寄せられるように集まっていた。
普段は淡々と数字とグラフを追うエリートたちが、今は言葉を失い、食い入るように画面を凝視している。
報道特番の画面には、ホワイトハウスのプレスルーム。
演壇に立つリバーシ大統領が、かつてないほど冷徹な表情で最後の一撃を放った瞬間だった。
『700万ドル。これは諸君らが自らの意志で合衆国という最強の武器を手に入れるための、自由の時価だ』
「……嘘だろ」
保科マモルは、厚い資料を抱えたまま廊下の中央で立ち尽くしていた。
背後では、上司や同僚たちが「外為法はどうなる」「即刻、財務省と連絡を取れ」と怒号に近い声を上げている。だが、マモルの耳にはそれらの雑音は一切届かなかった。
画面の下部に表示された【米国市民権:7,000,000ドル ― すぐ申請、すぐ取得】という鮮烈な通知。
それは単なる法案の施行ではない。
国籍という、これまで「神聖不可侵」とされてきた概念が、マーケットの冷酷な値札へと置き換わった瞬間だった。
(この、吐き気がするほど衝撃的で完璧なロジック……まさか)
マモルの脳裏に、数年前、京都の中華料理屋で、冷めた目で「世界を値踏みしてやる」と語っていた男の顔がよぎった。
いてもたってもいられなくなった。
マモルは手に持っていた資料を近くのデスクに放り出すと、上着も掴まずに庁舎を飛び出した。
午後8時。東京・外苑前。
スタイリッシュな全面ガラス張りのビル。
その最上階付近にあるのが、加賀タクミが率いるユニコーン企業『Swaply』のヘッドオフィスだ。
「あらゆる商品を、秒速でスワップする」を掲げるこのC2C決済プラットフォームは、若者の間で爆発的な支持を得ていた。
オフィス内は、霞が関の重苦しさとは対照的な、狂熱を帯びた空気に包まれている。
「マモル! 連絡もナシにどうした、その顔」
開放的なカフェスペースのようなデスクで、複数のモニターに囲まれていたタクミが、肩で息をするマモルを見て不敵に笑った。
「タクミ……見たか。今日のアメリカの発表」
「ああ、見てるぜ。最高に『Swaply』な展開じゃねえか」
タクミは、淹れたての熱いエスプレッソをマモルの前に置いた。
オフィス内のモニターには、世界中から合衆国政府の特設サイトへ流入するトラフィックの波が視覚化されている。
「最高……? 世界から、個人資産が、一瞬にして太平洋の向こう側へ吸い込まれていくんだぞ。止めようがない。日本からも流出するかもしれない。これは国家による略奪だ」
マモルは震える手でコーヒーカップを握った。
タクミは窓の外、ライトアップされた神宮外苑の銀杏並木を顎で指した。
「少し歩こうぜ。お前の頭、オーバーヒートしてる」
二人はオフィスを出て、夜の神宮外苑を歩き始めた。
冬の冷たい空気が、マモルの火照った顔を刺す。
「なあ、マモル」
タクミが並木道の落ち葉を蹴りながら、声を落とした。
「あの大統領の演説……あの『国籍を商品に格下げして、財政赤字を解消する』っていう狂った合理性。誰の仕業か?簡単に心当たりがつくよな。」
「ああ……あいつだな。あいつならやりかねん。表に名前は出ていないが…」
「ああ。有名は無力、無名は有力……。あいつがずっと言ってたことだ。世界中が大統領という派手な広告塔に目を奪われている間に、カーテンの影で世界そのものをハックするコードを打っている奴がいる。あいつ、ついに国家そのものを商品にしやがった」
マモルは立ち止まり、夜の空を仰いだ。
「信じられない……。いくらあいつが天才でも、合衆国の国家構造そのものを書き換えるなんて」
「……なあマモル。大学の頃、一度だけケニーがひどく酔っ払った夜のことを覚えてるか?」
「ああ。珍しく荒れていた時だな」
「あいつ、言ってたよな。『国籍なんてゴミだ』って。……俺たちはあの時、ただの酔っ払いの戯言だと思って聞き流した。だが、あいつの目は笑ってなかった。」
タクミは夜空を見上げた。
「あいつの根っこにあるのは、野心じゃねえ。もっと暗くて深い、絶望みたいなもんなのかもしれねえな」
タクミは神宮外苑の冷たい夜風に吹かれながら、身震いするように肩をすくめた。
「絶望……?」
「ああ。たぶんあいつは、俺たちの知らないどこかで、一度、心を『壊された』ことがあるんじゃないかな。国というシステムにな」
タクミは空を見上げた。
「だから根こそぎ、書き換えたいんじゃないか。この世界のルールそのものを」
「確かにな。何があいつをここまで動かしているんだろうな」
天才・ケニーサワタリ。
彼が日本に来る前――12歳までの香港で過ごした日々に、何かがあったのでは?
その巨大な闇の片鱗に触れた気がして、マモルは震える手でコートの襟をかき合わせた。
◆8-3◆ 最安値の「命の保証」
リバーシ大統領による「特別国籍販売法」の電撃施行から三日が経過した。
東京・霞が関、経済産業省。
保科マモルのデスクには、経済構造分析室が急遽まとめた「対米個人資本流出に関する暫定試算」という極秘レポートが置かれていた。
「……半年間で約一兆円、か。人数にして千人から千五百人規模」
マモルは、レポートの末尾に記された数字を苦い思いで見つめた。
日本は法治が安定し、治安も良い。中国やロシアのような「国を捨てなければ個人資産が没収されるかもしれない」といった緊迫感は薄い。
そのため、この数字は官僚たちの間では「限定的」と評価されていた。
だが、マモルの見方は違った。
「流出するのは単なる金じゃない。日本というシステムの維持に最も貢献してきた、超富裕層という『エンジン』そのものだ」
彼らが「保険」として米国籍を買い始めたら、その次に来るのは物理的な移住と、さらなる資本の逃避だ。マモルは、まだ静まり返っている霞が関の廊下を眺め、目に見えない浸食が始まっていることを確信していた。
同じ頃、上海。 王美帆は、外灘のプライベートクラブで、友人の陳と向かい合っていた。陳はシリコンバレー帰りの投資家で、大陸の資金動向に最も敏感な男の一人だ。
「メイファン、聞いたか? 君のお父様の古い友人で、レアメタル企業のオーナーの李氏のことだ」
陳が声を潜めて切り出した。
「李おじ様が? どうかなさったの?」
「昨夜、あのアメリカの専用サイトから申請を入れたんだが、今朝にはもう『仮承認』の通知が届いたらしい。面接も、過去の経歴調査すらなしだ。ただ七百万ドルを指定口座に送金するだけで、世界最強のパスポートが手に入る。李氏は狂喜乱舞して、即座に送金指示を出したよ。これまで永住権のために何年もロビー活動をしてきたのが馬鹿らしくなると言っていた」
メイファンは、手元のタブレットに映る「7,000,000ドル」という数字を見つめた。
「李おじ様ほどの立場の方が、それほどまでにあっさりと……」
「審査なんて名ばかりさ。システムが自動で口座残高とインターポールのリストを照合するだけ。あとは金だ。金さえ払えば、過去も思想も関係ない。李氏は言っていたよ。これが歴史上、最も安くて確実な『命の保証』になるだろう、とな」
陳の話を聞きながら、メイファンは背筋に走る戦慄を抑えられなかった。
父はまだ沈黙を保っているが、李氏のような実利主義のオーナーたちが動き始めた意味は重い。
◆8-4◆ ワシントンから7つのクイズ
その時だった。
三人の手元で、同時にスマートフォンが震えた。
数年前、シカゴからワシントンへとケニーが旅立ってから、
一度も動くことのなかったあの四人だけのグループLINE。
かつての京都大学・投資クラブ。
沈黙の聖域が、突如として青白い光を放った。
【送信者:Kenny】
マモルは霞が関で、タクミは外苑前のオフィスで、メイファンは上海のクラブで。
三人は、息を呑んでその通知を開いた。
数年ぶりのメッセージは、あまりに不遜で、あまりにケニーらしいものだった。
「久しぶりだな。みんな。世界が『値踏み』される音は、そちらまで届いているか?
君たちの推測通り、合衆国のOSを書き換えたのは僕だ。
しかしプラチナパスポートによる外貨調達は、この設計図におけるただの『序章』に過ぎない。
これから世界には、僕が意図した『7つの副次的作用』が自動的に発生する。
したがって僕の仕掛けは、この『特別国籍販売法』だけで充分だ。
世界というシステムの構造を根底から書き換える、たった一手の『会心の一撃』。
これ以降、僕が手を下す必要は何もない。
ハンドルはすでに切られ、アクセルも踏み込まれた。
あとは慣性の問題だ。
本題に入る。ここで親愛なる君たちにだけ、特別な問いを投げよう。
僕の隠された狙い。7つの副次的作用を当ててくれ。
世界の在り方がどう変わっていくのか。
かつての部室で、システムの裏側を覗き合っていた君たちなら、その真意に辿り着けるはずだ。
世界が、どんな“形”に最適化されていくのか?答えはもう出ている。
君たちは、それを見つけるだけだ。
回答期限は、それぞれのドミノが倒れるその瞬間まで。
さあ、考えてくれ。新しい世界の『形』は、すでに僕の手の中にある」
それっきり、グループLINEの更新は止まった。
「クイズだと? 世界をこれほど混乱させておきながら、俺たちとなぞなぞごっこを始めるつもりか」
外苑前のオフィスで、タクミが低く、しかし熱を帯びた声で笑った。
モニターに映る爆発的な取引ログの反射が、彼の瞳を野性的に光らせる。
「最高だぜ、ケニー。お前が世界に放り込んだその『7つのなぞなぞ』俺が一番に回答してやるよ」
一方、マモルは震える指先でスマホを握りしめ、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。
借金返済は入り口に過ぎないだと。
ならば、ケニーはこの「値札」を使って、既存の国家システムにどんな致命的な改革を起こそうとしているのか?
「7つの副次作用……。ただの金集めじゃないなら、最初の一手は何だ?」
マモルは、呪文を読み解くようにケニーの文字列を凝視した。
ワシントンからの宣戦布告。
それは、かつての友人たちを巻き込んだ、地球規模の「知能戦」の幕開けだった。
「……負けないぞ、ケニー。君が世界を書き換えるというのなら、僕は君のロジックを叩き潰して、この国を守ってみせる」
激動の2025年7月。
世界がプラチナパスポートという表面的な「狂乱」に目を奪われている隙に、四人の天才たちによる、音のない知能の闘争が始まった。




