【5】聖域の偽善と、地下経済の奴隷。崩壊した国境で見つけた「最高効率の統治術」
◆5-1◆新政権の移民
2024年12月上旬。ワシントンD.C.
次期大統領ブラックウッドが使用している、政権移行チーム専用フロア。
屈強な警備員に導かれ、ケニー・サワタリは重厚なドアの前に立っていた。
ここはまだ「公の権力」が足を踏み入れられない空間。
だが同時に、すでに次の四年間を決定する判断が下されている部屋でもある。
ドアが開く。
室内の中央には、仮設の執務机。
しかしその上に置かれているのは、紙の政策資料ではなく、
タブレットに映し出された市場データと、
机上に無造作に並べられた黒いオセロの石だった。
ドナルド・“リバーシ”・ブラックウッド――
次期アメリカ合衆国大統領は、盤面から目を離さず、短く言った。
「座れ、エイリアン」
その声には、
勝利の陶酔と、次の獲物を探す捕食者の冷静さが同時に宿っていた。
ケニーは静かに椅子に腰掛け、
ブラックウッドが最後の一石を置くのを待った。
「君のレポートを読んだよ、サワタリ。
……実に不愉快で、そして最高にエキサイティングだった」
ようやく顔が上がる。
その瞳は、国家元首のものではない。
巨大企業のCEOが、新しいM&A案件を見るときの目だった。
「今の政府を『機能不全のボランティア組織』と断じたのは、君が初めてだ」
次期大統領がようやく顔を上げ、ケニーを凝視した。
その瞳には、獲物を見定めた投資家のような鋭い光が宿っている。
「私は学長に、三つの条件で人材を探せと命じていた。『20代であること』『外国人であること』そして『圧倒的に優秀であること』だ。……なぜ、私がアメリカ人ではない人間を求めていたか、わかるか?」
ケニーは動じず、冷徹に答えた。
「アメリカ人は、この国を『故郷』や『信仰』として見てしまう。それでは市場の歪みは見抜けません。必要なのはアメリカを『利益を生むべき一つの巨大な商品』として解釈できる、外側の視点です」
「ハッ、正解だ!」
次期大統領はデスクを叩いて笑った。
「その通りだ。ワシントンの古い連中は、愛国心だの民主主義だのというノイズに邪魔されて、経営判断ができない。だが君は違う。この国に何の義理もなく、ただ数理的な美しさだけで解決策を出そうとしている。……君のような20代の若い知能だけが、20世紀のゴミを捨て去ることができるんだ」
次期大統領はデスクの引き出しから、一通の契約書を取り出した。
それは政府の公式な採用書類ではなく、大統領個人との「私的顧問」の契約書だった。
「ケニー・サワタリ。今日から君を、私の『大統領個人顧問兼ビジネスコンサルタント』に任命する。これは政府の役職じゃない。私個人が、私の資産……つまり『合衆国という名の株式会社』をより良くするために雇う、特別な外部パートナーだ」
「公的な役職(補佐官)ではないのですね」
「そうだ。そうすれば国籍も、面倒な議会の承認も、背景調査も必要ない。君のボスは私一人だ。……どうだ? O-1Aビザの更新に怯える日々を終えて、盤面をひっくり返す側に来る気はあるか?」
ケニーは、目の前の「リバーシ」次期大統領が差し出したペンを、一切の迷いなく受け取った。
それは、彼が京都から追い求めてきた「ルールのハッカー」としての、正式な入場許可証だった。
「いいでしょう。ただし大統領、私のコンサルティング料は高くつきますよ。……この国の『国籍』という概念そのものを、書き換えることになるのですから」
二人の間に、不敵な笑みが交わされた。
2024年12月上旬。ワシントン。
ホワイトハウスの奥深くで、世界を蹂躙することになる『プラチナパスポート』の種火が、ついに国家の心臓部に灯った瞬間だった。
◆5-2◆境界線のバグ(エルパソ査察)
2024年12月中旬。シカゴ、ケニーの経営する不動産投資会社のオフィス。
ワシントンD.C.のホワイトハウスにて個人コンサルタントに就任してから数週間後。
ケニー・サワタリは窓外の空を見つめていた。その背後に、一人の女性が歩み寄る。
ケニーの不動産投資会社で実務のすべてを取り仕切り、彼が2億円の個人資産を築き上げる過程で、冷徹なオペレーションを一手に引き受けてきたCOO兼秘書、ソフィア・ヴァンスだ。
「ケニー、来月に予定されているワシントンでの一回目の会議前に、確認しておくべき『致命的なバグ』があるわ」
ソフィアはタブレットをデスクに置き、テキサス州エルパソの地図を表示させた。
「ドナルド・"リバーシ"・ブラックウッド次期大統領が苛立っている課題のひとつ。財政赤字以外にもあるわよね……あなたは既に予測しているわよね? 官僚たちが『人道』と『秩序』の間で右往左往し、一歩も進めずにいる、あの巨大な負債を」
「不法移民問題だな」
「ええ。だからこそ、今すぐエルパソへ飛ぶべきよ」
ソフィアは迷いのない瞳でケニーを見据えた。
「最高権力者の懐に深く潜り込むには、彼が喉から手が出るほど欲しがっている『カオスの真実』を、直接あなたの目で査定してくる必要があるわ。机上の空論家だと思わせたら、そこで終わりよ」
ケニーは薄く笑みを浮かべた。
ソフィアは、ケニーが何を目指しているかを、本人以上に理解している。
「いいだろう。ソフィア、君も同行してくれ。僕の数式には、君の冷徹な査定が必要だ」
テキサス州エルパソ。
数日後、ケニーとソフィアは、焼け付くような太陽の下、国境沿いの未舗装路を走るSUVの中にいた。窓外には、巨大な鉄格子のフェンスが延々と続いている。
◆5-3◆物理的なハッキング:密入国
リオ・グランデ川のほとり。
二人は、警備隊の目が届かない死角で、影のような一団が音もなく川を渡り、フェンスを乗り越える光景を無機質に見守った。
警備隊の姿は遠く、侵入はあまりに容易に行われていた。
「見て、ケニー。壁はあちこち穴だらけ。なのに政府は、ただ眺めているだけで何も直そうとしないわ」
ソフィアは冷ややかに言い放った。捕まった密入国者は収容施設へ運ばれるが、そこでは彼らを維持するための食費や医療費が、秒単位で膨大な税金を消費し続けている。
「ソフィア、これは単なる治安の問題じゃない。純粋な逆ザヤだ。彼らを1人捕らえて収容し、本国へ送還するまでのコストが1万ドル。一方で、彼らが国境を越えるたびに、合衆国のクレジット(信用)は1万ドル分ずつ毀損しているんだ。 防衛費という名のメンテナンスコストを払いながら、システムのセキュリティホールから資産が垂れ流されている」
ケニーの目には、彼らが国家の資産を食いつぶす「不良在庫」にしか見えなかった。
◆5-4◆潜伏するオーバーステイ
二人はエルパソ市街へ向かい、寂れたモーテルや農園の作業員宿舎を巡った。
そこには、空港から観光ビザで堂々と入り、そのまま期限が切れても居座り続ける「オーバーステイ」の人々が数万人単位で潜んでいる。
「彼らは正規のビザを持って、笑顔で入国審査を通り抜ける。だが、そのまま二度と帰らない。国境にどれだけ高い壁を作っても、一度中に入り込んで居座る連中を捕まえることはできないんだ。入国後の管理すらまともにできていない。この国のシステムは、最初から破綻しているんだ」
◆5-5◆地下経済の奴隷:影の労働現場
エルパソ郊外。地平線まで続く広大な綿花農場の入り口で、ケニーとソフィアはSUVを止めた。
遮るもののない灼熱の太陽の下、数百人の男女が腰を屈め、真っ白な綿を摘み取っている。彼らは一言も発さず、ただ機械的に手を動かし続けていた。
現金の取引
「見て、ケニー。あそこが『給与支払所』よ」
ソフィアが指差した先では、ピックアップトラックの荷台に座った白人の監督官が、茶封筒を次々と作業員に手渡していた。
「銀行口座も、社会保障番号(SSN)も必要ない。一日の労働が終われば、最低賃金を大きく下回る現金が手渡される。所得税も、雇用保険も、医療保障も一切なし。この農場で怪我をすれば、彼らはただ捨てられるだけ。代わりはいくらでもフェンスを越えてくるから」
ソフィアは手元のタブレットで農場の収益構造を瞬時に計算した。
「この農場主は、不法就労者を使うことで労働コストを60%カットしているわ。その恩恵は、全米のスーパーマーケットに並ぶ安い衣料品として消費者に還元される。誰も、その安さの裏に『存在しない人間』の犠牲があるなんて考えもしない」
「ソフィア、それだけじゃないぞ。この農場主がポケットに入れている60%のコストカット分は、本来なら連邦政府が受け取るべき『手数料』だ。国家は、自分の庭で勝手に行われている商売から1セントも抜けていない。これは経営放棄だよ。 巨大な労働市場がありながら、政府はその決済プラットフォームにすらなれていない。ただの『場所貸し』にすら失敗しているんだ」
◆5-6◆聖域の正義と、その死角
二人は最後に、エルパソ市街の中心にある教会前広場を訪れた。
そこは、国境を越えてきたばかりの人々に対し、無償の食事と「法的助言」を配る支援拠点となっていた。人道支援団体『リバティ・フォー・オール』を率いるエレーナ・ロドリゲスが、数百人のデモ隊と支援者に囲まれ、熱を帯びた声で訴えている。
「彼らは犯罪者ではない! 自由の女神は貧しい者を拒まないはずです! 私たちの使命は、この境界線で失われかけている『人間性』を繋ぎ止めることなのです!」
エレーナの瞳には、打算のない純粋な光が宿っていた。彼女は本気で信じている。
目の前の一人を救うことこそが、合衆国の誇りであり、絶対的な正義であると。
広場の中央、一段高い演壇には、まばゆいフラッシュを浴びながら一人の女性が立っていた。
彼女の名は、メキシコからの不法移民、マリア・ガルシア。『リバティ・フォー・オール』の活動を全米に知らしめるための「広告塔」として選ばれた女性だ。
10年前、幼い子供を抱えてリオ・グランデ川を渡り、以来一度も法の光を浴びることなく、この国の底辺を支え続けてきた。エレーナは慈しむようにマリアの隣に寄り添い、その震える肩を力強く抱いている。
「……私は、ただ、生きたかっただけなんです」
マリアがマイクに向かって語り始めた。テレビカメラの赤いランプが一斉に彼女に向けられ、全米にその「悲劇」が中継される。
「10年間、毎日朝の四時に起きて、皆さんがまだ寝ている間にオフィスの床を磨き、トイレを掃除してきました。指先が動かなくなるほど冷たい水で、皿を洗ってきました。一度も仕事を休んだことはありません。三人の子供たちは、このアメリカの学校に通い、英語しか話せません。彼らにとって、この国が唯一の故郷なんです」
マリアは、節くれだった自分の手をカメラの前に晒した。
洗剤で荒れ果て、皮膚は硬くひび割れ、爪の間には何度洗っても消えない、この街の「汚れ」が染みついている。その手は、彼女が歩んできた10年の泥臭い歴史を、どんな言葉よりも雄弁に物語っていた。
「私は犯罪者ですか? 汗を流して働き、子供を育て、誰にも迷惑をかけず静かに暮らしてきた。ただ『紙切れ(ビザ)』を持っていないというだけで、明日、この子たちから引き離されて、見も知らぬ国へ放り出されなければならないのですか? 神様、これが自由の国の正義なのですか?」
マリアがその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らす。
エレーナがすかさずマイクを奪い取り、天を仰ぐように怒号のような声を張り上げた。
「聴きましたか! これが血の通った人間の叫びです! 彼女から『居場所』を奪うことは、我々自身の人間性を捨てることだ! 慈悲なき法に、何の意味があるというのか!」
広場を埋め尽くした群衆から、地鳴りのような共感の拍手と喝采が巻き起こる。その熱狂から数十メートル離れた日陰で、ケニーとソフィアはSUVのボンネットに寄りかかり、その光景を無機質な眼差しで見つめていた。
「……彼女は本気ね」
ソフィアが小声で、しかし冷ややかに告げた。
「エレーナ・ロドリゲス。彼女は自分を聖女だと思っているし、実際にその善意に嘘はない。でも、これは制度の脆弱性を突いた『タダ乗り(フリーライド)』の推奨に過ぎないわ」
「ああ。彼女の『正義』は、はたから見ればただの偽善だ」
ケニーは、泣き叫ぶマリアと、それを抱き寄せるエレーナを、まるで「修復不可能な欠陥データ」を見るような目で見つめた。
「エレーナは自分たちが善いことをしていると信じている。だがその実態は、感情という名のパケットを大量に送りつけてシステムの機能を麻痺させる、国家へのDDoS攻撃だ。彼女たちが情緒的な正義を叫ぶたびに、合衆国という名のサーバーには過度な負荷がかかり、真の最適化が遠のいていく」
ケニーはSUVのドアを開け、ワシントンへの帰路を急がせた。
「ソフィア、ワシントンへ戻るぞ。大統領が求めているのは、あのように『救われるべき弱者』と定義され、社会のコストになっている層を、一瞬で『価値ある資産』へと反転させる冷徹な数式だ。感情という不確かな通貨でハックされたこの国を、損得という現実の通貨で上書きしてやる」
エルパソの砂塵が舞う中で、ケニーの頭の中には、後に世界を震撼させることになる『プラチナパスポート』の完璧なロジックが、一つのエラーもなく完成していた。




