【3】永住権(グリーンカード)は運ゲーですか? 努力と2億円を嘲笑う覇権国の「非効率」に、僕は宣戦布告する
◆3-1◆シカゴの風、充実した日々
1年後、2021年3月、
シカゴ。ハイド・パークの並木道を歩くケニーの足取りは軽かった。
ミシガン湖から吹きつける「ウィルソン・アベニューの風」は刺すように冷たかったが、今の彼には心地よい。
背後から追いついてきたリカルド・モラレスが、親しげにケニーの肩を叩く。
彼はメキシコ系二世で、この名門シカゴ大学に奨学金で潜り込んだ秀才だ。
「次はもっと残酷な数式を用意しておくよ、リカルド」
「はは、勘弁してくれ。俺は君と違って、この学位がないと親父に顔向けできないんだ。この街で、俺たちが『まっとうな人間』として認められるための、たった一つの通行証なんだからな」
リカルドは笑いながら、自分の胸ポケットを叩いた。そこにはシカゴ大学の学生証が入っている。
「通行証……か」
「ああ。俺の親父はな、国境を越える時に全財産を奪われた。それでも、俺にこの国の『ブルー・パスポート(アメリカ国籍)』を残してくれたんだ。これさえあれば、世界中のどこへ行ってもアメリカが俺を守ってくれる。俺にとって、この国籍は金で買えない最強の資産なんだよ」
リカルドの言葉には、特有の野心と、そして揺るぎない誇りが混じっていた。
ケニーは、警察官の前を自転車で横切っても、在留カードを求められる気配すらない街の空気を吸い込んだ。
「……リカルド、君はいいな。その『資産』の重さを最初から知っている」
「何言ってんだよ、ケニー。あんただって、今はこの風景の一部だろ?」
ここでは、警察官の前を自転車で横切っても、在留カードを求められる気配すらない。
イギリス人の父譲りの端正な顔立ちも、日本語と英語が完璧に混ざり合う思考回路も、この「人種のサラダボウル」の中では、ただの数ある個性の一つとして風景に溶け込んでいる。
京都で黒染めスプレーにまみれていた自分を思い出した。
あの時、洗面台を汚していたドス黒い水は、ここではもう流さなくていい。
講義が終わった後、ケニーは大学近くの『プレジャンス・コーヒー』へ向かった。
「いつもの、トリプルショットのラテを」 店員は、彼の顔を見て「OK、ケニー」と短く答える。
日本にいた頃、コンビニで買い物をすれば「日本語がお上手ですね」と壁を作られた。
しかしここでは、彼はただの「シカゴ大学のケニー」という風景の一部だった。
(……僕は、ここで初めて『透明』になれたんだ)
ミシガン湖から吹きつける、皮膚を裂くような冷たい風。
それさえも、自分を特別視しないこの街の「自由の重み」のように感じられた。
◆3-2◆決意:覇権国の鍵、設計者への渇望
2021年10月。ケニーは、大学の掲示板で見つけた「海外投資家フォーラム」の参加資格を読み込み、舌打ちした。
「非居住者、学生ビザ保有者:一部の取引及び起業支援プログラムへの参加不可」
どれほど優れたマーケットデザインを構想しても、どれほど投資で利益を上げても、彼の足元には「F-1(学生ビザ)」という名の鎖が絡みついている。
「また『お客様扱い』か」
ケニーは、大学のラウンジの窓から、ダウンタウンにそびえ立つ摩天楼を見上げた。
隣の席では、自分より遥かに成績の劣るアメリカ人の学生が、将来のホワイトハウス入りを当たり前のように語っている。
彼らには「市民権」という、この国、ひいては世界のルールを書き換えるためのパスポートがある。
(マモルは日本を中から変えると言った。タクミはルールからログアウトすると言った。……なら、僕は世界のルールの中心に居座ってやる)
アメリカは世界の覇権国だ。ここでの決定は、バタフライエフェクトのように世界中へ波及する。
日本で黒染めスプレーにまみれていた頃の自分を思い出す。あの屈辱を二度と味わわないためには、選ばれる側の「客」ではなく、ルールを敷く側の「主人」にならなければならない。
「アメリカ……国籍が欲しい」
それは単なる帰化の願望ではなかった。
世界を再構築するための「武器」を手に入れるという、冷徹な戦略的決意だった。
◆3-3◆シカゴの風、充実した日々応募:不条理なサイコロへの賭け
2021年11月の深夜。学生寮の狭いデスクで、ケニーは米国国務省の公式サイトを睨んでいた。 『Diversity Immigrant Visa Program (DV-2021)』
「……結局、今の僕にできるのはこれだけか」
皮肉なものだ、とケニーは思った。
どれほど知性を磨いても、現在の制度下では、永住権を手にするための最短ルートの一つが、この「抽選」という名のギャンブルなのだ。
画面上の入力フォームに、慎重にタイピングしていく。
氏名:Kenichi Sawatari 出生地:Japan 学歴:Master's Degree...
「運」などという、計算不可能な不確定要素に自分の人生を委ねる。
それはケニーが最も嫌う行為だった。
しかし、この「不合理な壁」を突破しなければ、その先にある「合理的な世界」へは辿り着けない。
「10年以内に証明してみせる。……そのためには、まずこの国の『内側』に入り込む必要があるんだ」
ケニーは最後に自分の顔写真をアップロードした。
無機質なフラッシュの中で、一度も瞬きをせずにレンズを凝視した。その瞳には、自分の将来に対する絶対的な自信と、それを阻む制度への隠しきれない苛立ちが混在していた。
『Submit』
クリックひとつ。 画面が切り替わり、確認番号(Confirmation Number)が表示された。
「待っていろ、アメリカ。僕は君のルールを、誰よりも鮮やかに乗りこなしてみせる」
ケニーは手帳の隅に、その番号を刻み込んだ。
それが、神のサイコロによって自分の知性が試される、最初の審判になるとは、この時の彼はまだ信じていなかった。
◆3-4◆シカゴの風、充実した日々応募:不条理なサイコロへの賭け
2022年6月、ロックダウン下のシカゴ。
永住権抽選の結果発表。
ケニーは震える指で、一ヶ月延期された「審判」の照会サイトを開いた。
画面に現れたのは、無機質で冷酷な一文。
『HAS NOT BEEN SELECTED(選出されませんでした)』
「……嘘だろ」
マウスを握る手が白く震える。シカゴ大学での知性、叩き出した投資収益、積み上げた絶え間ない努力。その全てが、無能なアルゴリズムが振ったサイコロ一つで、無価値な「外れ」として切り捨てられたのだ。
合理的な世界を信じていた彼にとって、これは単なる落選ではなく、自身の存在そのものへの「侮辱」だった。
どんなにスペックを磨こうと、巨大な国家制度の前では自分は「選ばれるのを待つだけの家畜」に過ぎない。
「……ハハッ、ゴミみたいな確率論か」
喉の奥から込み上げる吐き気。秩序への信仰が音を立てて崩れ去った。 ルールに従う側にいる限り、一生この非合理な不条理に怯え続けることになる。
暗い部屋の中、ケニーの瞳から光が消え、システムそのものをハッキングしようとする「悪魔」の熱が宿り始めた。
◆3-4◆既存制度への挑戦:投資家ビザプログラム
2024年2月。シカゴ・ループの高層ビルに構えた自社オフィス。
ケニーは、京都大学投資クラブ時代から磨き上げた運用スキルを武器に、個人資産を2億円(約150万ドル)まで膨らませていた。
2022年「抽選(運)」に裏切られた屈辱。
ケニーはその不条理を上書きするため、アメリカが用意している唯一の資本主義的ショートカット、永住権獲得のため「EB-5 投資家ビザプログラム」に挑むことを決意した。
しかし、これは「国籍を買い取る」こととは程遠い、歪な制度だった。
投資額105万ドル(約1.5億円)に加え、10名以上の現地雇用を維持し、数年に及ぶ当局の「お目溢し」を待つ。それは権利の購入ではなく、「多額の供物と引き換えに、国家という神殿への入場許可を乞い願う」という、極めて前近代的で非効率な手続きに過ぎなかった。
それでも、当時のケニーにはそれが唯一の合理的な選択肢に見えていた。
彼は不動産投資会社を設立し、シカゴ現地のスタッフ12名を雇用。
EB-5の最難関要件である「実体のある雇用創出」を、弱冠26歳で完璧にクリアしてみせた。
「条件はすべて揃えた。金も、雇用も、実績も。これで文句はないはずだ」
ケニーは105万ドルの送金指示を出し、分厚い申請書類にサインした。
国家という巨大な壁に対し、彼は「最上位のルール順守」という形で挑んだのだ。
◆3-5◆二度目の敗北:商品ではなく慈悲
「……審査完了まで、あと4年? 冗談だろう」
2024年4月。
意気揚々とサインしたあの日から数ヶ月後、ケニーの声がオフィスに冷たく響いた。
「残念ながら、これがEB-5の限界です。申請が多すぎて処理が追い付かないのです。」
弁護士は、古い法典を閉じるように告げた。
「この制度は『国籍の販売』ではありません。あくまで国家が投資家の『誠意』を長期間かけて吟味し、最後に『慈悲』として居住権を与える手続きです。当局のバックログは48ヶ月を超えることもあります。あなたの資産が1ドル単位でクリーンであることを証明するために、さらに数年を要する。4年待った挙げ句、役人が『疑わしい』と判断すれば、その瞬間に全ては却下されます」
愕然とした。2億円を稼ぎ出し、12人の人生を支える実業家になっても、自分はまだ国家という巨大な窓口に並ぶ「物乞い」に過ぎなかったのだ。
「金も雇用も実績も差し出した。なのになぜ、僕にはまだ『永住権』が手に入らない?」
ケニーは、札束という武器が、国家という官僚組織の「非効率」という盾に跳ね返される無力感を骨の髄まで味わった。今の制度は、資本主義を装った「封建制度」に過ぎない。
「……分かったよ。この国はまだ、国籍を『価値ある商品』として扱う知性すら持っていないんだ」
窓の外、冷酷にそびえ立つシカゴの摩天楼を見つめるケニーの瞳から、既存のルールへの敬意が消えた。代わりに、狂気にも似た純粋なロジックが脳内を駆け巡る。
(審査も、雇用義務も、背景調査もいらない。時価という名の『価格』を付け、決済した瞬間に権利を付与する。それこそが国家を市場という審判に晒す唯一の正解だ)
後に世界を蹂躙する『プラチナパスポート』
「最短発行、審査簡略、純粋な金額による国籍販売」という破壊的な構想の種火が、この時、制度への憎悪と共にケニーの心に灯った。




