【1】誠意という名の同調圧力。10年後に世界を蹂躙する『種子』の誕生
◆1ー1◆黒染めの誠意
2018年4月。京都大学。
京都盆地が桜のピンク色から新緑へと移ろい始める頃。
京都大学、西部講堂の裏手にある古びたサークル棟の一室、「京都大学投資クラブ」の部室は、相変わらず埃とコーヒー、そして加熱したPCの排熱の匂いが充満していた。
「おいマモル、またサーバー落ちたぞ。大学の回線が貧弱すぎるんだよ。これだから日本のインフラは終わってるんだ」
とぐろを巻くLANケーブルの山に埋もれながら、加賀タクミがキーボードを叩きつけて吠えた。
画面には無数のチャートと、彼が独自に組んだ自動売買プログラムのコードが流れている。
「文句を言うなタクミ。そもそも、部費で勝手にグラフィックボードを買い込むなよ。今の会計、赤字スレスレなんだぞ」
長机の向かい側で、保科マモルが分厚い帳簿とレシートの束を睨みつけていた。
彼は20歳にして、すでに熟練の証券マンのような生真面目さを全身から発しており、サークルの「良心」であり「財布の紐」だった。
「まあまあ、お二人とも。新歓の時期なんだから、もう少し穏やかにいきましょうよ」
窓辺の特等席で、メイファンが優雅に紅茶を啜っている。
本名は王美帆。
中国の大財閥の令嬢でありながら、なぜかこのむさ苦しい部室に入り浸っている彼女は、いつも嵐の中の台風の目のように静かだ。
部長であるケニー・サワタリは、そんな三人の喧噪から少し離れた場所にある洗面台で、苛立った様子でタオルを動かしていた。ゴシゴシ、と乱暴に髪を拭うたびに、白いタオルがどす黒く汚れていく。
「……クソッ、なかなか落ちないな」
ケニーが低く毒づいた。
「あら、まだやってたの? ケニー」
メイファンが面白そうに声をかける。
「笑い事じゃないよ。指通りが最悪だ」
ケニーは濡れた髪をかき上げた。本来の美しいアッシュブラウンの髪が、粘り気のある黒色に濁っている。
事の発端は、数週間前の説明会だった。地毛である金髪のまま参加したケニーに、人事担当者は『黒く見せるのが誠意だ』と言い放った。
それ以来、彼は説明会があるたびに、コンビニの黒染めスプレーで自身のアイデンティティを塗りつぶして参加していた。 だが、彼を蝕む不条理はそれだけではない。
今朝も、大学へ向かう途中で警察官に呼び止められたばかりだ。
ただ自転車に乗っているだけで、犯罪者予備軍のように在留カードの提示を求められる。
さらに昨日、引っ越しのために訪ねた不動産屋では、京大生という肩書きも、家賃を払うに十分な経済力も無視された。
『オーナーさんが、外国人はちょっと……と言っていまして』
担当者の申し訳なさそうな顔が、かえってケニーの神経を逆撫でした。
英国人の父と日本人の母を持つ彼は、幼少期を激動の香港で過ごし、高校から日本へ移り住んだ。
日本語は完璧に操れる。
同時に、父から受け継いだ英語と、香港の雑踏で身につけた中国語もネイティブそのものだ。
三つの言語と、国境を跨ぐ複合的な視野をその身に宿し、誰よりも世界をクリアに見通しているという自負がある。
それなのに、この国のシステムは、彼の「外見」と「血」をノイズとして弾き出し続ける。
ここではどれほど優秀であろうと、彼は「日本語の上手な、少し変わったお客様」の域を出ることはできないのだ。
「ケニー、お前もなんか言ってやれよ。部長だろ?」
タクミが椅子を回転させて同意を求めた。
「……マモル、タクミの言う通りだ。回線の遅さは機会損失に繋がる。部費が足りないなら、また稼げばいい」
ケニーは黒く汚れたタオルをゴミ箱へ投げ捨て、ソファに身を沈めた。
「ほらみろ! さすがケニー、話が早い!」
「甘やかすなよケニー……お前、耳の裏にまだ黒いのが残ってるぞ」
三人が笑い合う。その輪の中にいながら、ケニーだけは薄いガラス一枚の壁を感じていた。
彼らは「日本人」だ。マモルのような生真面目さも、タクミのような生意気さも、すべてはこの国の文脈の中で許容されている。
メイファンですら、その圧倒的な資金力で、この場に溶け込んでいる。
だがケニーは違う。
どれだけ馴染もうとしても、ある時は「便利な英語要員」として消費され、ある時は「和を乱す不純物」として黒く塗りつぶされる。
この部室は居心地がいい。それは間違いない。
けれど、ここですら彼にとっては「仮宿」でしかないのだという冷めた感覚が、不自然な黒髪の感触と共に、胸の奥に沈殿していた。
◆1ー2◆「和」という名の檻
部室を後にした四人は、百万遍の交差点近くにある行きつけの大衆中華料理店「火楓源」にいた。
油で煤けた黄色い短冊メニューが並ぶ店内に、場違いなほど鮮やかなメイファンの刺繍ブラウスと、ケニーの端正な顔立ちが浮いている。
「ねえ、この『天津飯』って料理、中国にはないわよ。誰が考えたのかしら、この不思議な妥協の産物は」
メイファンがレンゲで餡を掬い、皮肉めいた微笑を浮かべる。彼女はどれほど安っぽい店にいても、常に値踏みするような視線を崩さない。
「美味けりゃいいんだよ。メイファンは理屈が多すぎ。なあマモル、この餃子、あと2人前、追加していいか? 部の経費で」
「却下だ、タクミ。さっきの回線費の相談はどうした。お前の食欲は常に期待利回りを下回っている」
マモルが即座にレシートの裏に数字を書き込み、タクミの野心を封じ込める。数字こそが正義であると言わんばかりの、淀みのない拒絶だった。
そんな三人のやり取りを、ケニーは手付かずの冷やし中華を前に、ただ静かに眺めていた。
耳の裏には、まだ落としきれなかった黒染めスプレーの染料が、乾いた泥のように張り付いている。
「……日本は、本当に不思議な国だよ」
ケニーがぽつりと零した。
「天津飯みたいに、外から来たものを勝手に作り替えて、それらしい顔をして並べている。中身が何であるかより、この『和』の形に収まっているかどうかが重要なんだ」
ケニーの視線は、窓の外を歩くリクルートスーツの群れに向いていた。
「タクミ、お前はプログラムの美しさを信じている。マモル、お前は数字の正確さを信じている。メイファン、君は資本主義の力を信じている。……でも、この国が一番、重視しているのは『空気と協調性』だ」
ケニーの声は、熱を帯びるのではなく、むしろ冷徹に研ぎ澄まされていく。
「どれほど相場で利益を叩き出しても、どれほど鮮やかに資産を倍増させても、この『単一民族』という強固な檻の中では、僕は一生、外から来た不純物のままだ。……僕は行きたい。自由の国へ」
「自由の国……アメリカのこと?」
メイファンがレンゲを止め、ケニーを見つめる。
「そうだ。あそこは多種多様なルーツが混ざり合う多国籍の海だ。誰がどこから来たかなんて、誰も気にしない。人種という属性よりも、純粋に『何ができるか』、その能力だけで評価される。混ざり合っていることが前提の世界なら、僕もただの『一人』として呼吸ができる。不純物として指を差されることに怯えなくていい、実力主義の荒野だ」
ケニーは、箸を割り、器の中に沈んだ不自然に赤い紅生姜を横に除けた。
「日本は、僕の肌には合わないんだ。ここはあまりに清潔で、あまりに均一すぎる」
その独白は、食事の席を包んでいた親密な空気を、鋭い剃刀のように切り裂いた。タクミとマモルは顔を見合わせ、メイファンはただ静かに、ケニーの瞳の奥にある乾いた渇望を見つめていた。
◆1ー3◆民主主義への宣戦布告
2018年10月。
大講義室の空気は、昼下がりの眠気に支配されていた。教壇では不破教授が「現代政治経済学」の退屈なレクチャーを続けていたが、一人の学生の居眠りを咎めたのをきっかけに、不意に矛先をケニーへ向けた。
「……では、そこで熱心に原書を読んでいるサワタリ君。君はどう考える? この出口の見えない国家財政の停滞と硬直化した社会。これを、民主主義の手続きによって打破することは可能だと思うかね」
ケニーはゆっくりと顔を上げた。隣ではタクミがスマホでトレードの板を追い、前列ではマモルが几帳面な筆致でノートを埋め、メイファンは興味なさげに窓の外を眺めていた。だが、ケニーが口を開いた瞬間、その場のすべての空気が一変した。
「不可能です。民主主義や選挙というシステムは、すでに耐用年数を過ぎたオワコンですから」
静寂が講義室を支配した。ケニーは立ち上がり、教壇の横にある黒板の方へ迷いなく歩み出ると、チョークを手に取った。
「いいですか。戦後80年以上、人類は『国を良くするためには民主主義にして、自由選挙にするしかない』と思い込んできた。いや、それを唯一の正解だと信じ込み、考えることを放棄していたと言ってもいいでしょう。ずっとその方法でやってきた結果はどうですか? 世界を見渡せば、安定していない国はまだまだ山のようにある。既存の制度はもう限界なんです」
ケニーは教授を、そして室内の学生たちを一人ずつ射抜くように見回した。
「企業を見てください。経営が悪ければ株が売られ、社長は必死になる。この『市場の即効性』こそが最強の統治システムだ。4年に一度、紙に名前を書くだけの『選挙』なんて、政治家へのプレッシャーとしてはあまりに弱すぎる」
ケニーは黒板に、国家(STATE)を「企業(INC.)」として再定義する巨大な円を描き殴る。
「私は新しい制度で、世界中の国々を安定させたい。そして世界中の人類を幸福にしたい。……先生、私は10年以内に証明してみせます。」
チョークを置き、ゆっくりと振り返ったケニーの瞳には、一切の迷いも揺らぎもない。
教壇に立ち尽くす不破教授は、困惑と憤りが混ざり合った表情で、目の前の教え子を凝視している。
「…君は何を言い出すんだ?」
教授の冷淡な言葉を、ケニーは鼻で笑うことさえせず、淡々と、しかし確信に満ちた声で継ぐ。
「私には構想がある。見ていてください。感情や血筋、あるいは数だけの暴力である選挙ではなく、市場という最も残酷で公平な審判に国家を晒す。それが、この狂った世界を再構築する唯一のロジックです」
ケニーの言葉が止まった瞬間、講義室に失笑が漏れた。
「……おい、聞いたか? 世界を再構築するんだってよ」
「中二病もあそこまで行くと清々しいな。投資にかぶれたハーフの戯言だろ」
学生たちの冷ややかな嘲笑がさざ波のように広がる。
教壇の不破教授は、怒りで顔を真っ赤に染めていた。
「傲慢だよ、サワタリ君! 君は歴史の重みを何だと思っている! 先人たちが血を流して勝ち取った民主主義を、市場の論理に置き換えるなど……。そのような過激な思想は、知性の敗北だ!」
「歴史が解決できなかったから、僕はロジックを話しているんです」
ケニーは表情一つ変えず、教授の怒号を冷たく受け流した。
周囲の学生たちが呆れ、教授が激昂し、講義室が混沌とした否定の空気に包まれる中。
ただ三人の席だけは、凍りついたような静寂を保っていた。
タクミはスマホを机に置き、「面白い……最高にイカれてる」と、その不気味な構想に震えるような笑みを浮かべていた。
マモルは、ケニーが描いた「黒板」の図解から目を離せず、その論理の背後にある途方もない危うさと、それを裏打ちする知性に戦慄していた。
そして窓際のメイファンは、先ほどまでの退屈を完全に消し去っていた。
初めてその瞳に強い光を宿し、世界を敵に回して立ったケニーを、品定めするような、熱い視線で見つめていた。
この時、彼が黒板に描いた歪な円こそが、10年後、世界を蹂躙する『プラチナ・パスポート法』の、あまりにも早すぎた種子であった。




