【9】一族全員でアメリカへ亡命するぞ!と息巻く父に対し、私は一人「支配者」としてこの国に残ることにした
◆9ー1◆逆回転する時計
2026年1月。リバーシ大統領による「特別国籍販売法」の電撃施行から半年が経過していた。
東京・霞が関。
年明けの冷たい空気が、経済産業省本府庁舎の分厚い窓ガラスを静かに締め付けている。
空は高く澄み、街から湿り気という概念が失われたかのようだった。
保科マモルは、デスクに映し出されたホログラムディスプレイを凝視していた。
画面には、ニューヨーク・マンハッタンに設置された「米国債時計」のリアルタイム映像が流れている。
長年、一秒たりとも止まることなく増え続けてきたアメリカの累積債務。それが今、信じがたい挙動を見せていた。
「……本当に債務が減っている。実際に購入する層は確実に存在する」
マモルが低く呟いた。
ケニーがホワイトハウスの影で書き上げた「そもそもの目的」は、100万枚の国籍販売で700兆円を確保し、米国の財政赤字と借金問題を解決することだった 。
半年という月日は、世界中の懐疑論を黙らせるのに十分な時間だった。
特設サイト『PLATINUM PORTAL』のカウンターは、全世界で「100,000人」という大台を突破したことを示している。当初の目標である100万人にはまだ遠いものの、たった半年で10万人の富裕層が「700万ドル(約10億円)」という価格を即金で支払い、合衆国という名の「最強の武器」を手に入れ、太平洋の向こう側へと移り住んだのだ 。
10万件×700万ドル。総額7,000億ドル――日本円にして約100兆円。
その莫大な資金が直接、米国の国庫へ流れ込んだ。
アメリカという国家の「借金」が、史上初めて物理的な勢いで解消されつつある現実。
世界最大の債務国が、突如として史上最強のキャッシュ・リッチへと変貌を遂げようとしていた。
「保科室長、最新の国内推計が出ました」
若手職員が差し出したタブレットには、「日本からの個人資本流出状況」という秘匿ラベルが貼られていた。マモルはページを捲り、ある数字で目を止めた。
「日本からは……1,000名か」
半年前、経産省がまとめた暫定試算では半年で最大1,500名程度の流出を予測していた。
実績の1,000名という数字は、予測を下回る「限定的」な結果に見える。
周囲の官僚たちは「日本人の愛国心はまだ死んでいない」「法治国家としての信頼の差だ」と楽観的な声を上げていた。
だが、マモルは震える指先でコーヒーカップを握りしめた。
ケニーのロジックを知る彼にとって、この1,000名は「少なすぎる」のではない。むしろ最も「純度の高いエンジン」が確実に、そして静かに奪われたことを意味していた。
「やつは言った。これはまだ序章に過ぎない……」
マモルは窓の外の暗雲を見つめた。
アメリカの財政赤字が消えていく。
その裏で、世界中の富が、知能が、そして「国家の正体」が、ケニーの打ったコードによって書き換えられていく。
(ケニー……お前は700兆円という札束で世界を驚かせ、その隙に何を『デバッグ』しようとしているんだ?)
マモルの脳裏に、あの不遜なLINEの文字列が蘇る。
『外貨調達は、この設計図におけるただの「前提条件」に過ぎない』
借金問題の解決という巨大な「表向きの正解」の陰で、次なるドミノが倒れる音が、マモルの耳には確かに聞こえていた。
◆9ー2◆沈みゆく巨船、あるいは「お茶」の温度
上海、外灘。
歴史的な石造りの建築が並ぶ一角にある、ワン・グループ本社ビルの最上階。
深夜、重厚な沈香の香りが漂う執務室に、場違いなほど質素な人民服を着た男が座っていた。
「王徳賢主席。我々はあなたのこれまでの多大なる社会的貢献を高く評価しております」
男は、慇懃無礼な笑みを浮かべながら、一通の赤い表紙のファイルを机に置いた。
そこには『共同富裕基金への自発的寄付に関する提案書』という文字が踊っている。
ワン・ダーシェン(メイファンの父)がページを捲ると、そこには彼の個人資産の実に三割に及ぶ具体的な金額が、無機質な数字となって並んでいた 。
「三割……。これは寄付ではなく、没収ではないか」
「言葉が過ぎますな。これは成功を収めた者が、その果実を国家という庭に還元する、極めて名誉ある『共同富裕』への賛同です 。富とは本来、国家という土壌があってこそ実るもの。庭師が熟しすぎた果実を摘み取るのは、庭全体の調和のためです 」
徳賢は、喉の奥が焼け付くような感覚を覚えた。
この国では、成功すればするほど、その富は自分のものではなく、国家からの「一時的な借り物」であることを突きつけられる 。この男の背後にある国家という巨大な意志に抗えば、明日にはこのビルも、地位も、全てが霧散する。それは確実な死刑宣告に等しかった。
そして数週間後の夜。
深夜の静寂を切り裂いたのは、一族の資産管理会社を担う従兄弟、王毅の秘書からの悲鳴に近い電話だった 。
「主席……毅先生が、先ほど連行されました!」
「何だと? 容疑は何だ。毅は慎重な男だぞ」
「わかりません……。予告もなく当局の監査官が執務室に現れ、『最近のグループの経営状況について、少し場所を変えて詳しくお話ししたい。素晴らしいお茶が用意してあるから』と…… 」
お茶(喝茶)。 その符牒を聞いた瞬間、徳賢の全身の血の気が引いた。
中国の富裕層にとって、当局との「お茶」は、具体的な罪状がなくとも行われる任意の呼び出しであり、事実上の拘束と資産没収の始まりを意味する 。
一度連行されれば、数ヶ月の隔離は当たり前だ。
その間に資産は凍結され、尋問の末、罪を捏造されて全てを失うこともある 。
ワン・イーが連行されたということは、包囲網はすでに自分の喉元まで達していると考えられる。
ダーシェンは、執務室の窓から見える上海の夜景を見つめた。
数えきれないほどの監視カメラが赤く点滅し、逃げ場のない檻のように彼を取り囲んでいる。
(次は、私かも……。物理的にこの場所に留まっていること自体が、最大のリスクなのでは )
ダーシェンは、自分の指先が小刻みに震えていることに気づいた。
これまで資産を国外へ逃がすための「不透明な地下銀行」や「複雑な裏ルート」を探すしかなかった。 しかし、それらの手段も、今や当局のAI監視によって一つずつ潰されている。
彼は、震える手で自身のプライベート・タブレットを起動した。
数日前から、上海の富裕層たちの間で密かに、しかし爆発的な勢いで共有されているURLがある。
【US CITIZENSHIP: $7,000,000 - APPLY NOW】だった。
◆9-3◆断絶の境界線
上海の夜、邸宅のゲート前に停止した黒いセダンのヘッドライトが、書斎の厚いカーテンの隙間から、ナイフのような鋭い光を投げ入れていた。 王徳賢は、その光から逃れるようにタブレットの画面に視線を落とした。
「お父様、何をなさっているのですか」
背後に立つ娘、美帆の声は、冬の氷点下の水のように冷たかった。
徳賢は振り返らず、震える指を決済画面の認証ボタンに重ねたまま答えた。
「これは算数だ、美帆。我々一族がこれまで築き上げてきた数千億の資産、そして毅たちの命。それを守るために、1人たった7億円の『保険料』を支払う。これほど割に合う投資が他にあるか?」
「7億円で買えるのは、星条旗のついた『商品』に過ぎません。それは誇りでも、ましてや安全でもないわ」
ダーシェンは、娘の言葉を遮るように声を荒らげた。
「いいか。これまで私たちが必死に探してきた地下銀行や、賄賂まみれの裏ルートは、もう当局のAI監視によって完全に息の根を止められた。だが、これは違う」
彼はタブレットの黄金の画面を娘に突き出した。
「これは合衆国政府への『公式な投資』だ。不透明な洗浄ではない。世界最強の国家へ堂々と資金を移し、その大義名分を得るための正規ルートだ。毅が『お茶』に連行された今、私たちが物理的にこの国に留まることは死を意味する。だがボタン一つで、私は米国市民として上書きされる。当局は、アメリカの保護下にある人間を勝手に拘束すれば、それは重大な国際問題になる。私は、世界最強の軍隊と外交力を、たった7億円という破格の『顧問料』で雇おうとしているんだ」
ダーシェンの目は血走っていた。彼は、時間を金で買おうとしていた。
正規の永住権取得に何年もかけ、その間に全てを没収されるリスクを負うより、アメリカの提示した「即日取得」という超法規的スピードに一族の命運を賭けていた。
「お父様、それは致命的な計算違いです」
メイファンは一歩も引かず、父の瞳を真っ向から見据えた。
「あなたが『盾』だと信じているその国籍は、中国当局の目には『裏切り者』を示す真っ赤な標的にしか映りません。米国籍を盾にした瞬間、あなたは監視の優先順位のトップに躍り出る。
その時、ワシントンがたった一人の投資家のために、本気でこの巨大な隣国と外交戦争を始めるとお思いですか? 檻の監視者が変更されるだけではないのですか?」
「それでも、ここで全てを没収(寄付)されるよりはマシだ!」
「いいえ。皆が逃げ出す今こそ、この場に踏みとどまる者にしか見えない『空白地帯』があるはずです。超富裕層が次々とアメリカへ脱出すれば、国内の利権や市場には巨大な穴が開く。当局に恭順を示し、その空白を拾い上げる。それこそが、新しい世界で生き残る唯一の道です」
ダーシェンは、娘の冷静なロジックに一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに顔を歪めて首を振った。
「若さゆえの過信だ。毅の悲鳴が、お前には聞こえないのか。私はもう、この国を信じない」
「これはグループのボスとしての決定事項だ。私は、一族全員を引き連れてアメリカへ渡る。準備に三ヶ月かかるが、その間、お前も荷物をまとめなさい」
ダーシェンは娘の手を強く掴もうとした。
しかし、メイファンはその手を静かに、しかし断固として振り払った。
「私は行きません。一族全員がアメリカへ渡るからこそ、私一人はここに残るべきです。」
「何を言っている! 捕まればどうなるか……」
「ワシントンの設計した世界では、アメリカ国民は『7億円の価値がある商品』として値踏みされる。でも私は拒絶します。そんなアルゴリズムの一部として、時価で格付けされる人生なんて真っ平よ。私は、この激動の地で、誰にも値付けされない人間として、自分の運命を切り拓きます」
「馬鹿なことを言うな!メイファン!」
「私は一人でここに残ります。ワン・グループの国内の舵取りは、私が引き受けます。お父様が捨てようとしているこの国で、私は誰にも値付けされない人間として、自分の運命を切り拓きます 」
ダーシェンは、娘の横顔に宿るかつてないほどの硬い意志を見た。
それは、かつて自分がビジネスの戦場で持っていたはずの、しかし今や恐怖によって失ってしまった光だった。
「もう一度、言う……三ヶ月だ」
ダーシェンは、逃げるように窓の外へ目を逸らした。
「三ヶ月後に、我々は移住する。それまでに気が変わることを祈っているよ、メイファン」




