92話「夏休み?3」
第92話「夏休み?3」
「パパー、はやくー!」
夏の朝日がすでに空高く登りきった頃、ハルナの元気な声が家の中に響いた。今日は、祐介とふたりで近くの商店街に行く約束をしていた。岡本たちは今日は法事で家族総出とのことだったため、今日はハルナとふたりきりの時間だ。
「はいはい、そんなに急がなくても逃げないって」
「でもでも、おにぎり買ってから、ゆうえんちのチラシもらうのー!」
「そうだったな。あとスーパーボールくじもやるって言ってたし」
「ぜったいあたるー!」
気合十分なハルナは、リュックサックを背負い、麦わら帽子をかぶって準備万端。サンダルを履く音までリズムに乗っている。
夏の商店街は、どこか懐かしい匂いがした。焼きそばの香り、ラムネの瓶の音、風鈴が風に揺れる音――祐介が小さい頃に通った夏祭りの記憶が、ふいに蘇る。
「ねえ、パパ、あれなに?」
「ん? あぁ、あれは金魚すくいの屋台の準備中だな。今日は夜にミニ縁日やるらしいよ」
「やったー! ハルナ、金魚、いっぱいすくう!」
「……うん、1匹くらいにしような」
「えー! いっぱいー!」
にこにこと笑うハルナの横顔を見ながら、祐介はゆっくりと歩く速度を落とした。毎日が駆け足のように過ぎていく中で、こうして娘と歩くこの時間がとても大切で、かけがえのないものだと心から感じていた。
⸻
「じゃーん! みてみて、パパ!」
「お、スーパーボール3つも当てたのか! やるじゃん!」
「えへへ〜、でも、あのまるいの、むずかしかった……」
「どれどれ……うわ、小さいのに跳ねすぎ!」
スーパーボールを片手に笑い転げるハルナ。その足元には、くじ引きの景品やラムネの瓶、そしてプリンが入った袋。もはや立派な縁日帰りのおみやげセットである。
「おにぎりはこれで2個、じゃあ昼は公園の木陰で食べようか」
「うんっ!」
ふたりは商店街の端にある小さな公園へ移動した。滑り台と鉄棒しかない簡素な公園だが、大きな木が何本も植えられていて、日陰は涼しく風も通る。
「ここがハルナの特等席!」
「パパにも場所分けてくださいなー」
レジャーシートを敷いて、ふたりで腰を下ろす。簡単なコンビニのおにぎりでも、こうして木漏れ日の中で食べると不思議と美味しく感じる。
「……あのさ、ハルナ」
「なあに?」
「こうやって、ふたりで出かけたり、ごはん食べたりするの、パパ、けっこう楽しみにしてるんだ」
「ハルナもだよっ! パパだいすきー!」
「……ありがと」
不意にかけられた“だいすき”に祐介はほんの少しだけ目を伏せた。心のどこかで、いつかこの子が自分から離れていく日を考えてしまう自分がいた。でも、今はそんな先のことよりも、この“今”をしっかりと大切にしようと思った。
「じゃあ、夜は浴衣でも着てみるか?」
「ゆかた! きるー!」
「じゃあ、おうち帰ったら探してみような」
⸻
夜になり、商店街は本格的な縁日モードに突入していた。浴衣姿の子どもたち、屋台の灯り、盆踊りの音楽が商店街に響き渡る。祐介は、姉から借りた子ども用の浴衣を着たハルナの手を引いて、混雑した人波の中を歩いていた。
「パパー! あれやってもいい?」
「金魚すくいだな、よし、行ってみよう」
「つかまえるー!」
小さな手にポイを持たせてやりながら、祐介は静かに見守る。3回挑戦した結果、金魚は1匹も捕れなかったが、店主のサービスで1匹プレゼントされた。
「やったー!」
「……ありがとう、すみませんね」
「いえいえ、お嬢ちゃんのがんばりに免じてってやつです」
ラムネを開けながら、ヨーヨー釣り、輪投げ、最後にくじ引きまでフルコースで楽しんだハルナは、頬を真っ赤にして楽しそうにしていた。
「パパー……きょう、たのしかったね」
「うん、めっちゃ楽しかった」
「またあしたも、いっぱいあそぼ?」
「うん。……また明日も、一緒に」
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夜も更けて、帰り道。
「パパ……だっこ……」
「おう、任せとけ」
疲れたハルナを抱きかかえながら、祐介は帰路についた。浴衣の袖からはみ出た小さな手が、祐介の胸元をつかんでいる。
「パパ……おやすみ……」
「おやすみ、ハルナ」
小さな寝息が耳に届いた瞬間、祐介は夜空を見上げた。そこには星がひとつだけ、やけに強く光っていた。
「……また明日も、こんな日が来るといいな」
その願いは、夜風に乗って静かに空へと消えていった。