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8話 初めての保育園

第8話:初めての保育園


 月曜日の朝。祐介はスーツ姿で玄関に立ち、深いため息をついていた。


「……行きたくねぇ……」


 背後から、ピシッと小さな足音がする。


「ぱぱ、どうしておしごとやなの?」


「それはな、ハルナ……人間ってのは、大人になると毎週月曜に魂を抜かれる生き物なんだ」


「むつかしいの、わかんないの」


「それでいい。分からなくていいんだ……」


 祐介は、スーツのポケットから名刺入れを確認し、ネクタイを引き締める。社会人としてのスイッチを入れる瞬間だ。

 しかし隣に立つハルナは、ピンクのくまさんリュックを背負って、キラキラした目で祐介を見上げている。


「はるな、ほいくえんいく! ともだちできる?」


「ああ、きっとできるさ。ハルナは物怖じしないし、覚えも早いしな」


「ぱぱも、おしごと、がんばって?」


「……あーもう、癒されるわぁ……」


 そのひとことだけで、祐介の体から社会への恐怖心が抜け落ちていく。


「よし! 行くか、ハルナ!」


「いくの!」


 二人で玄関を出る。新居の二階建て一軒家は、駅から少し離れた静かな住宅地にある。朝の空気は少しひんやりしていて、保育園のリュックを背負ったハルナにはやや大きめのカーディガンが似合っていた。


 駅へ向かう途中にある『こばと保育園』。姉・真希が手配してくれたその施設は、清潔感のある白壁と木造のぬくもりが特徴の、町の小さな保育園だ。登園時間帯で賑わっており、小さな子どもたちがそれぞれ親に手を引かれながら門をくぐっていく。


 祐介はハルナの手をぎゅっと握る。


「大丈夫か? 緊張してない?」


「ううん。だいじょうぶ」


「そっか。えらいな……」


 門の前に立つ先生たちが、登園してくる子どもたち一人ひとりに挨拶をしている。その中に、担当の三谷先生がいた。やわらかな雰囲気で、母性的な笑顔の女性だ。


「おはようございます、笹原さんですね。……そして、ハルナちゃん」


「は、はい。よろしくお願いします。今日から……」


「はい、初めての保育園ですね。大丈夫、怖くないですよ」


 ハルナはおそるおそる三谷先生に手を振った。


「はるな、がんばるの」


「うん、いい子ですね〜。じゃあ中に行きましょうか」


 祐介は一歩、踏み出せないでいた。小さな手が、ゆっくりと自分の手から離れていく。

 その瞬間、まるで娘が遠くへ行ってしまうような感覚に襲われた。


「……ハルナ」


 思わず声が出る。ハルナがくるりと振り返った。


「ぱぱ?」


 祐介はしゃがみこみ、ハルナの両肩を掴んだ。


「もし、もし何か怖かったり、寂しかったりしたら……お迎え、絶対に早く行くからな。先生の言うことちゃんと聞いて、でも無理はしなくていいから。わからないことがあったら、何でも聞いて。あと、友だちできたら教えて――」


「ぱぱ、ないてる?」


「……うん、ちょっとだけ」


「だいじょうぶ。はるな、まってるから。ぱぱ、がんばって」


 ――泣かされた。

 完全に、三歳児に泣かされた。


 祐介は目をこすりながら、ようやくハルナを送り出した。

 三谷先生の手に引かれながら、ハルナは小さな靴でとことこと園内に入っていく。背中に揺れるくまさんリュックが、何だかものすごく遠く感じた。


 門の前で立ち尽くす祐介を、近くのママたちがやんわりと笑っていた。


「あら、初めてのお父さん?」


「うちの夫も初日に泣いてましたよ〜」


 何人かに話しかけられたが、祐介はただ、深く頭を下げて駅に向かった。



 その日、祐介の仕事はほとんど上の空だった。


「笹原、午後の会議の資料、準備できてるか?」


「……ハルナが、泣いてなければいいが……」


「おい、聞いてねぇな!? お前、最近パパになったって……」


 同僚にからかわれながらも、祐介の心は保育園にあった。時計ばかり気になり、昼休みにはついお迎え時間を確認してしまう。


 ……そしてついに、定時の鐘が鳴る。


「帰ります!」


「誰より早ぇな、笹原!」


 課長の言葉など耳に入ってなく、ロッカーに荷物を放り込み、保育園へ急ぐ。すっかり暮れ始めた空に、橙色の夕陽がかかる。門の向こう、ちょこんと座っているハルナの姿を見つけた瞬間――祐介は、心の底から安堵した。


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