82話「さやかの怒りと未来のために」
82話「さやかの怒りと未来のために」
翌朝――。
保育園の門の前に、一台の黒いタクシーが静かに停まった。そこから降りてきたのは、パンツスーツに身を包んだ女性。切れ長の目にきりりと整った眉、ピンヒールを軽やかに鳴らしながら、保育園の玄関へと一直線に向かう。
「……失礼、園長先生はいらっしゃいますか?」
事務室に入ったその声に、職員たちが一斉に振り返った。
「す、すぐにお呼びしますっ!」
言外にただならぬ雰囲気を感じ取った職員は、園長室に駆け込み、数分後、園長が緊張の面持ちで現れた。
「……これはこれは、須野原先生の件で……」
「話は早いようですね。手短に言います。私の姪が、御園で暴力を受けました。担当の新任教師に耳を引っ張られ、蹴られ、頭をぶつけ、腹に痣まで作って帰ってきたんですけど、どういう教育をされてます?」
低いトーンで、しかし刺すような語気の女性。それが、さやかだった。
「……誠に申し訳ございません……保護者様への説明も不十分だったと認識しております……」
「ええ、説明は不十分。いや、それ以前に根本の対応が間違ってる。なぜ園の保育士が全員その子の事情を把握していなかったのか? なぜ須野原だけが事情を知らず、本人の身体的特徴に対してあんな扱いをしたのか?」
「……仰る通りです……」
「そして、私から一つ忠告しておきます。この園の認可を降ろすことは私の一存で可能です。わかりますか? これは恫喝でも脅しでもなく、法的な手段です。今はまだ話し合いの段階だからこうして来ている。だが次はないと肝に銘じておいてください」
その瞬間、園長は蒼白になった。
「も、申し訳ありません……! 須野原先生には即時対応いたします。移動処分も検討し、今後は情報共有を徹底いたします……!」
「その言葉、しかと聞きました。今後、私の姪に関しては全職員に経緯を周知してください。少しでも問題があれば、その瞬間にこの園は閉園となること、忘れないように」
数分後、さやかが園を去った後――職員室の空気は凍りついていた。
園長は顔を伏せたまま、深く椅子に沈み込んだ。
同じ頃――祐介の自宅では、朝食後の片付けが終わり、ハルナがランドセル代わりの小さなリュックを背負っていた。
「ぱぱ、はやくいこ〜!」
「うん、今日は保育園……行きたくないって思ってない?」
ハルナは一瞬きょとんとしたあと、小さく首を振った。
「ハルナ、いくよ。あいりちゃんとしおりちゃん、まってるもん」
「……そっか」
祐介は少しホッとしながらも、心のどこかでまだ葛藤が残っていた。
(本当なら……怖くなっても仕方がないのに……)
小さな子供が、昨日の出来事を乗り越えて、また友達の元へ向かおうとしている姿に、祐介は自分の不甲斐なさを噛み締めていた。
「よし、行くか!」
玄関を出たあと、祐介は何気なく背負ったリュックを直してやりながら、小さく囁いた。
「今日も……いっぱい、笑って帰ってこいよな」
「うん!」
そして午後。
仕事を切り上げて迎えに行くと、職員たちが一列に並んでいた。
園長が深く頭を下げる。
「この度は……ハルナちゃん、そして祐介様に対して、深くお詫び申し上げます」
「……ああ。俺からもひとつだけ言わせてください」
園長は顔を上げる。
「俺はもう怒ってません。でも……次があれば、その時は、俺の子をここには通わせません」
静かながら、言葉の奥にある強い決意を感じた職員たちは一様に神妙な面持ちを浮かべた。
「……あの子が、毎日笑って過ごせる保育園にしてください。それが……俺の、親としての願いです」
そう言って祐介は深く頭を下げ、その後ろから駆けてきたハルナを、自然な笑顔で抱き上げた。
「あいりちゃんとしおりちゃんと、なにしてた?」
「おままごとしたよ!しおりちゃん、カレーつくったの!」
「へぇ〜!今度ハルナもぱぱにカレーつくってよ!」
「うん!おなべつかう!」
いつも通り、なんでもない会話。
だが、その一つ一つが、祐介にとっては何よりの救いだった。
夕暮れ時の空は、少しだけ晴れ間がのぞいていた。
小さな手を握りながら、祐介は思った。
(この子の笑顔のために、俺は、どこまでだって戦える)
その夜。
一通のメールが祐介の元に届いた。差出人は園長。そこにはこう書かれていた。
⸻
「本日をもちまして、須野原紗栄子先生は当園を離任となりました。保護者の皆様にはご心配をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。今後、安心して通っていただける園運営を徹底いたします」
⸻
祐介は、ふぅと大きく息を吐いた。
「……これで、ひと段落、か……」
だが、祐介の胸に残るものがあった。
それは、傷ついた娘の記憶。完全に癒えるには、時間が必要だろう。だが、きっと乗り越えられる――。
そう信じて、彼はそっと、隣の部屋で眠る娘の頬に毛布を掛けなおした。
「……おやすみ、ハルナ」
静かに、優しく囁いた。