81話祐介、怒りの限界
81話「祐介、怒りの限界」
夕方、仕事を終えた祐介は、いつものように定時で保育園へと向かっていた。
空は初夏らしい淡い茜色に染まり、ビルの谷間に涼やかな風が吹き抜けていたが、祐介の胸には妙な不安が渦巻いていた。
(……なんだろう、この感じ)
保育園の門をくぐったとき、彼はすぐに違和感に気づいた。
玄関先に、担任の先生たちが数人立っており、どこか沈痛な顔をしていた。
「……あの、祐介さん」
「ああ、こんばんは。……なにか、ありました?」
声をかけたのは、普段から一番話しやすい年配の保育士、三浦先生だった。彼女は一瞬ためらったが、意を決したように口を開いた。
「……今日、ハルナちゃんが保育中に少し怪我をしてしまって……」
「……怪我?」
祐介の表情が、みるみるうちに険しくなる。
岡本と椎名も遅れて到着し、先生の話に耳を傾けた。
「じ、じつは……新しく入った須野原先生が……」
とつとつと語られる出来事――。
ハルナが絵本を読んでいたときに耳を引っ張られ、さらに倒れた拍子にお腹を蹴られてしまったという事実を聞いたとき、祐介の中で何かが弾けた。
「……なにやってんだ……あの女……!」
低く唸るような声で祐介が呟くと、拳を強く握りしめていた。その拳が今にも保育園の壁を砕きそうな勢いで震えている。
「祐介、落ち着け」
岡本がすぐさま肩を掴んで止める。
「うるせぇよ……娘が、あの小さな体で……そんな目に遭わされたんだぞ……!?」
「気持ちはわかる。でも、今怒鳴り込んでも事態は変わらない。まず、ハルナちゃんの無事を確認しよう」
その言葉に、祐介はハッと息を飲む。
(そうだ……ハルナ……)
すると、園の廊下から、先生に付き添われたハルナがゆっくりと歩いてきた。
目元は赤く腫れて、頬には涙の痕が残っている。両手にはしっかりと、しおりちゃんとあいりちゃんの小さな手が握られていた。
「……パパ……」
その一言だけで、祐介の胸は締めつけられるように苦しくなった。
思わずしゃがみ込み、ハルナの両肩を包み込むように抱きしめる。
「……ごめんな、ハルナ……つらかったな。怖かったな……」
「……うん……でも、あいりちゃんとしおりちゃんが、いっしょにいてくれたの……」
涙をこらえながら話すハルナの言葉に、祐介は胸を締めつけられた。
この小さな子が、たったひとりで、どれだけ怖い思いをしたか――想像するだけで、祐介の中で怒りの炎がまた燃え上がる。
「……くそっ……」
そこへ、岡本がそっと肩を叩いた。
「……お前が怒りたくなるのも無理ねえよ。でもな、今はその子を守るのが先だ。ハルナちゃんがパパの笑顔を見たがってるんだ」
そう言われて、祐介はようやく我に返る。
ハルナが、涙を堪えながら自分の胸に顔をうずめているのを見て、深く深く息を吐いた。
「……ああ……わかってる。……ありがとう」
その晩。
夜9時過ぎ。ハルナを寝かしつけた後、祐介はソファに沈み込んでいた。
今日一日のことを思い返すたび、胸が痛んだ。思い出しただけで、手が震えてくる。
(なんで……よりによってあんな新任教師が……)
そのとき、インターホンが鳴った。
「……あれ?」
ドアを開けると、そこにはスーツ姿のまま、バッグを肩から下げた姉――さやかが立っていた。
「来たわよ、ちびっこ姫に会いに」
「……姉貴、今は……」
「どうしたのよ、そんな顔して……」
ハルナが寝ていることを伝え、さやかをリビングに招き入れる。
一通り座ったあと、祐介は黙ったまま机に座り、冷蔵庫から麦茶を取り出して姉に差し出した。
「……ねえ、祐介。なにかあったでしょ?」
その言葉に、祐介はしばらく沈黙した後、低い声で答えた。
「……今日、ハルナが保育園で……先生に……蹴られた」
「……は?」
「……耳のことで、まず引っ張られて……それで、保健室行こうとしたら蹴られたらしい」
数秒の静寂。
「…………は?」
もう一度、低く、しかし明確に怒気をはらんだ声。
「ちょっと祐介、あんた、私にそれを最初に言わずに……放置してたってこと?」
「……今伝えただろ……」
「ふざけんな!! そのクソ教師、名前は!? 何組!? 出身は!? ていうかどこにいるの!? 今すぐ行く!!」
さやかが怒りで立ち上がった。
「落ち着けって、もうハルナは寝てるし……園には明日ちゃんと伝える。……ちゃんと責任は取らせる。お前が出てってまた問題になっても困るんだよ」
「問題!? 問題なのはその教師だろうが!! あんたの娘が……ハルナが泣かされたのよ!? それも暴力でよ!!」
「……わかってるよ……でも、ハルナはまだ保育園に行きたいって言ってる。あいりちゃんと、しおりちゃんと……遊びたいって」
祐介のその言葉に、さやかは息を詰まらせた。
「……それでも、許せない」
「俺だって許してねぇよ……」
ふたりの間に重い沈黙が流れる。
しばらくして、さやかはバッグを肩に掛け直しながら言った。
「明日、私が行ってくる。園長に会わせなさい。そんで、その須野原とかいう教師の行き先を決めてあげるわ」
「……頼む」
「当然でしょ」
そう言い残して、さやかは怒りに満ちたままドアを出ていった。
(……あの子が、もう二度と泣かされることがないように……)
祐介は静かに、眠っているハルナの頭を撫でながら、固く、心の中で誓った。
――続く