7話 姉、保育園の手続きを
第7話:姉、保育園の手続きをする
日曜の朝。引越しから一週間が経ち、生活にも落ち着きが見え始めた頃。祐介は、冷蔵庫の前で何気なく買い物メモを眺めていた。
「牛乳、たまご、ヨーグルト……あとはハルナ用の補助箸か」
「ぱぱ〜、パンたべたい!」
背後からひょっこりと顔を出すハルナ。猫耳パジャマのまま、ほっぺたをぷっくり膨らませている。
「あー、はいはい。今焼くよ。……ジャムもあったっけ?」
「ピンクのやつー!」
「イチゴね、了解」
朝のゆったりした空気が、ようやく“日常”として染みついてきた。思えばたった数日前まで、彼は独り暮らしの会社員だったのだ。今や娘の好みのパンを焼きながら、猫耳パジャマの小さな存在と朝食をとる……まったく、人生とは急に加速するものらしい。
ピンポーン、とインターホンが鳴ったのは、そんな朝食の最中だった。
「ん? 誰だ……宅配は頼んでないし」
ドアを開けた瞬間、祐介の顔が引きつる。
「……ようやく来たわね、弟くん」
「うわ出た……!」
玄関に立っていたのは、祐介の姉――笹原真希。官僚然としたパンツスーツに身を包み、完璧すぎるストレートの黒髪、そして冷たい笑み。手には何故か二冊のファイルと、でっかい紙袋。
「挨拶もなし? ちょっと冷たくないかしら?」
「いや姉貴、マジで今週は平和だったんだよ。突然来るとマジで――」
「娘がいるって報告受けてから、私が来ないとでも思った?」
祐介の抗議を完封し、真希は勝手に上がり込む。そしてハルナを見つけた瞬間、目を細めてにっこり。
「おはよう、ハルナちゃん。私はゆうすけの姉、まきおばちゃんよ」
「……まき?」
「そう。おばちゃんとは呼ばなくていいわ。まきさまって呼んでね」
「まきさま?」
ハルナはよくわかっていないが、なんだか面白そうだと感じたようで、にこにこしながら「まきさま〜」と手を振った。
「おい、やめろって!」
「いいじゃない、ちょっとくらい。かわいいわねぇ……」
祐介は冷や汗をかきながら思った。姉のこの“笑顔”が出てきた時は、たいてい何かが仕組まれている。
案の定、真希はテーブルにファイルをドン、と置いた。
「で、本題。ハルナちゃんの保育園。入園手続き、すべて完了してるわよ」
「は?」
祐介は、パンを落としそうになった。
「……え? ちょ、何してんの? 戸籍とか色々必要なんじゃ……」
「心配無用。ハルナちゃんの仮戸籍は既に私の方で準備済み。住民票も養子縁組も形式的には問題なし。年齢証明に関しては、成長曲線に近い数値での診断書をこっちの協力医師から出してあるし、接種履歴は“海外帰国子女対応”のフォーマットで処理済み」
「え、えぇ……なにその合法的ギリギリ感……!」
「合法よ。ギリギリだけど。で、来週の月曜から近隣の『こばと保育園』に通えることになったわ。朝は8時半登園、夕方6時半まで延長保育あり。アレルギー確認済み、給食あり。担任は、三谷先生。30代独身。穏やかで信頼できる方よ」
「なんで担任の情報まで仕入れてんの!?」
「心配性なの。弟のためよ」
祐介は頭を抱えた。
姉は“やり過ぎ”の天才だ。正義と職権と趣味が混ざったとき、最強になる。
けれど……ありがたいことも事実だった。
「……でも、ありがとう。マジで助かった」
「ふふ。素直にそう言えばいいのよ、最初から」
真希は立ち上がり、紙袋の中から可愛らしいリュックを取り出した。
「これ、ハルナちゃんの保育園グッズ一式。お着替え、上履き、タオル、コップ、水筒、連絡帳用のノート、マスキングテープとお名前シールまで完備。好みは私が勝手に判断したけど……」
「ピンクのくまさんだー!」
ハルナは喜び勇んでリュックを背負った。
「ぴったりじゃない、サイズも柄も」
「いや……だから何でそんなに完璧なんだよ姉貴……」
「え? このくらい当たり前よ。むしろ、ハルナちゃんの初登園初日、ビデオ回す気満々なんだけど?」
「やめろぉぉぉ……!」
祐介は天を仰いだ。
けれど、その天の上からも、きっと真希のドローンが飛んでくるだろう。
──姉は恐ろしい。だが、恐ろしく頼りになる。
そしてこの日、祐介は静かに気づく。
“ハルナと過ごす日常”は、思っていたよりもずっと多くの人の力と愛情で成り立っていくのだと。