77話 社長、子育て講義
第77話「社長、子育て講義」
――東京都心の文化会館に朝の光が差し込む頃、玄関ホールにはすでに多くの人が集まり始めていた。木製の長椅子に新聞を読む老人、ビジネススーツの若者、そして幼い子どもを連れた親子連れまで。都会の喧騒を離れ、ここには穏やかで温かい空気が漂っていた。
本日は、会社を超えた——いや、会社を核にした社会的試みとして、「子育てにおける怒り方」研修が開催される。
この場には、東京本店の社員はもちろん、全国支部から集まった社員、さらに一般公募や口コミで参加した約200人もの参加者が一堂に会した。
社長である杉本健三郎は壇上に立ち、その横には大きく「親と子の向き合い方講座」と書かれた立て看板が置かれている。
開演のチャイムが鳴り、杉本社長は深い一礼とともに口を開いた。
「おはようございます。本日は改めて、『親と子の『怒り方』について』考える場を提供します。親も子供も、万人が悩み、共に歩む問題です。世代を問わず、ともに考え、学び、感じ合いましょう」
ドアが開かれ、約十人の登壇者が前へ誘導される。年齢も立場も様々だ。若い父親、産休明けの母、大人になった子供の親、ひとり親など。彼らに向けて社長はこう問いかけた。
「これから、あなたが『怒る』場面を一つ挙げてください。そのシーンが起きた時、どんな伝え方をしますか?」
壇上の十人は顔を見合わせ、各自が思い思いのシーンを提示し始めた。
例えば、「子供が宿題を全くしない時」「公共の場で騒ぐ時」「危険行為をした時」など。
まずは、若い父親が立ち上がり、
「うちの子が、約束を守らなかった時にどう怒ればいいかわかりません。『なんで約束守らないの!』って怒るだけで……」
と語る。すると社長は静かに返す。
「では声のトーンはどうしますか。感情に任せては…? では、冷静に問いかけましょう。『約束を守るって大切なんだ。それを守ることでどうなるか一緒に考えようか?』 と具体性を持たせます」
社長は黒板に書き出しながら、より明確な口調や姿勢の指導を加えていく。そして別の参加者、中年の母親が声をあげる。
「公共交通機関で走り回る息子がいて……私は思わず大声を出してしまって叱ってしまい、不安そうな顔をされて」
そこで社長はこう続けた。
「大声ではなく、まず『危ないよ』と優しいトーンで立ち止まらせる。そして『どうして走りたいのか?』と共感を示し、そのうえで『〇〇だから歩こうね』と理由と共に提案します」
…といった具合に、参加十人全員の例に対し社長は、感情任せや頭ごなしではなく、理論と手順を踏んでの叱り方を丁寧に解説していく。
中には大人になった子供の親もいた。
「大人になった息子が、同じことを繰り返すので『いい加減にしろ!』と怒ってしまったんです」
社長はすぐに言った。
「子供に限らず、人は何度も失敗しなければ理解できません。大切なのは『その度に伝える』こと。そのやり方は――『毎回言いたいことは一つ。シンプルに。感情ではなく事実と未来を伝える』ことです」
こうして、午前から昼にかけて、完全公開型の研修は進んでいく。参加者はそれぞれ「子供とどう向き合うか」を学びながら、社会全体の意識の変化を感じ取っていた。
午後の部は、一般からの質問タイム。壇上にはマイクが設置され、会場から数名がステージへ呼ばれる。
質問者の30代女性は、
「うちの子が妹にイタズラして、私もつい『妹のこと、そんなに傷つけてまでやらなくていいの!』と感情的に叱ってしまうんです」
社長はにこりと微笑みながら、
「怒る前に、まず『何を大事に考えてほしいか?』を整理しましょう。そのうえで『妹はあなたが思う以上に大切なんだよ』という土台を伝え、次に『傷つける行動は妹も悲しい』という具体的な説明を添えましょう」と丁寧に回答。会場では深い頷きと拍手が起きた。
終了時間が近づくと、社長は締めにこう言った。
「私は今後、全国の支部や一般の場で、この研修を行いたいと思っています。なぜなら、親子という最も身近な関係が、社会の基礎をつくるからです」
スタンドマイクの前で丁寧に一礼する社長。その姿に参加者全員が尊敬と拍手を送った。
――そして研修後。
会場を後にしようとした三人が、社長に呼び止められる。
「笹原、岡本、椎名」
3人が足を止めて振り返ると、社長は真摯な表情で語り出した。
「お前たちが、あの会話をしているのを聞いたんだ。子育てについて——怒りにどう向き合うか。あれがきっかけで、今日の研修を思いついた」
3人は驚きと感謝に言葉を失い、やがて一同が並んで頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、俺たちが?」
「お前らが悩んでいたから、俺も真剣になった。社内のサポート体制も必要だと感じたんだ」
社長は少し笑ってから言った。
「よし、決めた。俺が直接、全国支部を回って講義をやる。人材育成部も動いてくれ。お前たちのような父親社員が増えるのは、会社にとっても、社会にとっても素晴らしいことだからな」
「え、本当にですか?」
「本当だ。明日からスケジュールを調整しよう」
その言葉に三人は顔を見合わせ、そして涙ぐんでいた。自分たちの小さな悩みが、こうして大きな社会のテーマになっていくことに、深い誇りと責任を感じた。
帰り道、急にポツッと大粒の雨が落ちた。傘を開く三人――それぞれの傘の下にある娘の笑顔や家族の記憶を思い浮かべながら、いつもの東京の街を静かに歩き出す。
新しい風が吹き始めていた。