76話 祐介、娘の話
第76話「祐介、娘の話」
「……はぁ……」
平日の昼下がり。デスクに戻った俺は、無意識にため息をついていた。
昨日の“事件”がまだ尾を引いている。──ハルナのクレヨン事件だ。白い壁に見事に広がった虹色のイタズラ。それを見た瞬間、俺はフリーズしてしまった。
怒るべきか、諭すべきか、それとも見なかったことにするべきか。
「お前、壁に穴でも開けたのか?」
隣の席でキーボードを打っていた岡本が、俺の方を見てにやりと笑った。
「いや……クレヨンだ」
「は?」
「クレヨンで、白い壁に絵を描かれた。しかもでっかく、堂々と」
岡本は吹き出しそうになったが、すぐに真面目な顔になる。
「うちもやられたよ。あいりが、鏡に口紅塗って『まま〜!アートだよぉ!』って」
「それは……」
「嫁がガチギレだった」
互いに溜め息をつき、自然と顔を見合わせて、そして苦笑した。
「で、どうしたの?怒った?」
「……怒り方に迷ったんだよ。泣かせたくはない。でも、甘やかしたらまたやるかもしれない。ほら、あの子……何て言うか、素直すぎるっていうかさ。叱るにも悩むんだ」
岡本は頷いた。
「分かる。あいりも、言えばすぐ反省する。でも、すぐ忘れる。子供って、そういうもんなんだよな」
「……姉貴に助けられたよ。昨日もまた突撃訪問されてさ。怒り方を見せてもらった。ちゃんと、理由を説明して、真っ直ぐに向き合う方法っていうか……正直、尊敬した」
「へぇ。あのお姉さんにしては、まともなとこもあるんだな」
「聞こえたらお前、次会った時一発殴られるぞ」
ふたりでふっと笑うと、近くのデスクから小さな咳払いが聞こえた。
「……え?もしかして……」
ゆっくり振り返ると、そこには椎名がいた。しおりの母親であり、先日異動してきたばかりの──高校時代の後輩。
「ちょっとだけ聞こえちゃってました」
にこりと笑って、俺たちのデスクまでやってくる。
「子供の叱り方、難しいですよね。うちもしおりが壁に水性ペンで描いたことあって……まあ、正直私、どうしていいか分かんなくて……」
「だろうな。お前、怒ると真っ赤になって黙るタイプだったもんな」
「祐介さん、昔の話を蒸し返さないでくださいってば!」
椎名は頬を膨らませたあと、少し照れくさそうに視線を落とす。
「……でも、あの時、どうしたんですか?姉貴さんの方法って……」
「目線を合わせて、子供にきちんと“なぜダメか”を話す。その上で“次はどうしたらいいか”を教える。怒るというより、伝える。叱るじゃなくて、教える、って感じ」
「なるほど……姐さん、やっぱりすごいなぁ……」
岡本がぽつりと言うと、椎名も「ほんとに……」と呟いた。
「──おい、笹原。岡本、椎名」
その時、課長席の奥からひときわ通る声が響いた。
「社長室。今すぐ来てくれ」
社長──杉本健三郎。その圧倒的存在感に、3人同時に椅子から飛び上がる。
「なんかやらかしたか?」
「いやいやいや……思い当たる節がない……」
「むしろ今の話、盗み聞きされてたとかじゃ……」
怯えながらも、俺たちは社長室──いや、隣の会議室へと向かう。
ドアを開けると、そこには杉本社長が腕を組んで座っていた。
「来たか。座れ」
重苦しい沈黙。だが──
「お前たち、子供への怒り方について話してたな」
ドキッとした。
「すごくいいテーマだ。なので、社内研修の一環として──いや、パパ社員研修として、特別講義をしようと思ってな」
「え?」
「は?」
「マジで?」
社長は真剣だった。
「お前たちは今、子育てに真正面から向き合ってる。その姿勢は非常にいい。だが、そこに“知識”と“技術”が加われば、もっといい父親になれる」
そう言って、社長はホワイトボードにマジックで書き出す。
【例題:子供が壁にお絵描きをした。どう叱る?】
「さっきのお前たちの話を元にした。笹原、まずお前の答えを聞こう」
「え、俺!?」
「当然だろう」
社長の威圧に押されつつ、俺は咳払いして口を開く。
「まず、目線を合わせて、“それはダメだよ”と伝えます。どうしてダメかも説明して、“次は紙に描こうね”と導きます」
「よし。では岡本」
「俺も似てますね。まず怒鳴らない。でも困ってる気持ちは伝える。“この壁を直すのは誰かな?”とか、問いかける感じで……」
「うむ、良い。椎名は?」
「私は……膝をついて、“この壁はお家の大事な一部なんだよ”って話して、でも絵が上手だったねって誉めて……その上で、“次からはここに描いてね”って紙を差し出す……とか……」
社長は「なるほど」と頷いた後、3人の案に対して補足を始める。
「怒るべき時は怒る。だが、“なぜ”がない叱り方は意味をなさない。特に3歳から5歳の子供は、“してはいけない理由”を明確に示す必要がある」
社長は穏やかな口調で語り続ける。
「子供の脳は、感情で覚える。恐怖で押さえつけるのではなく、温かい安心感の中でルールを教えれば、それは自然と記憶になるんだ」
……なんだ、この人……
「──な、なんでここまで……俺たちに……」
我慢できずに聞いた。
社長は少し笑ってから言った。
「俺も昔は父親だったからな。……今は孫に教えてる」
驚いた。
「うちの息子、子育てに悩んでるんだよ。だから、お前たちが悩んでる姿が、重なったんだ」
岡本も椎名も、驚いていた。
「その姿を見て、これは教えるべきだと思った。子育ては会社よりもずっと大事な仕事だ。会社としても、お前たちが良い父親になるよう支援していきたい」
その言葉に、俺は自然と頭を下げていた。
「ありがとうございます」
心の底から出た言葉だった。
そして俺は誓った。
この子を、しっかり育てよう。あの子の未来のために。
今日の研修は、心に残る一日となった。