75話 ハルナ、イタズラをする
第75話「ハルナ、イタズラをする」
白い壁に、ピンクや黄緑、水色、オレンジといったカラフルな線が、まるで自由気ままな草原の風のように広がっていた。
「……は?」
休日の午後、洗濯物を干し終えた祐介は、リビングに戻ってきた瞬間、その光景に言葉を失った。静まり返った部屋の中、静寂を破るのは、クレヨンが壁を走る音と、時折「にゃー」とか「ぱぱだよー」などの小さな声。
「……ハルナ……?」
壁に向かって、床に正座していたハルナがこちらを振り向いた。クレヨンを手にして、にっこりと笑顔を浮かべる。
「ぱぱ、できたよ!」
その小さな掌には、ピンクのクレヨン。壁には、どうやらハルナなりの「家族」が描かれていた。耳の長い自分らしき存在と、短髪の男の子っぽい人物が、手を繋いでいる絵。その隣には、猫らしきもの、そして大きな太陽。
「……」
一瞬、祐介の中で怒りと驚きと、それからじんわりと感動が入り混じった。
でも、これは――やっちゃダメなやつだ。
「ハルナ……」
「えへへ、これ、ぱぱと、はるなと、ねこさん」
自慢げに話す娘に、祐介は思わず口元に手を当てた。かわいい。あまりに可愛い。だがしかし――これは、間違いなく「やらかした」部類である。
「ハルナ、ここは、お絵描きしていいところじゃないんだよ」
「え?だめ?」
小首をかしげるハルナに、祐介はううっと唸るようにうなずいた。そう、だめなんだ。でも、どう言えばいい?
過去の記憶が頭をよぎる。夢の中でハルナの母親から聞いた、「幸せに育ってくれたなら本望です」という言葉。それに応えるように、祐介はずっと、ハルナに手をあげない、怒鳴らない、優しい父親であろうと努力してきた。
でもこれは、優しく言っただけで通じるのか?
(前にも、注意したことがあったような……)
洗濯物をたたんでいるときに、ハルナがティッシュを全部出してしまって、「はなみずいっぱいだったの」と言われたときのことを思い出す。あのときは「そうか、じゃあ次からは少しずつ使おうね」で済んだけど、今回は……うーん。
「ぱぱ、キライって言われたらどうしよう……」
そんな不安が、胸の奥から浮かび上がってくる。強く怒ったら、怖いって思われるかもしれない。泣くかもしれない。逆に、優しく言ったら、「じゃあまたやってもいいや」って思うかもしれない。
ハルナはまだ4歳。子供にとって「ダメなこと」をどう伝えるかは難しい。
(でも……これが将来、もしハルナが大人になって、自分の子供に同じことされたとき……)
無意識に、頭を抱えていた。
そのとき。
「よ〜う。なんか、悪い予感して来てみたら……案の定だな」
ガチャリ、と鍵もかけてなかった玄関のドアが開く音がした。
「……姉貴……?」
「ったく、あたしが買ってあげたドラム式洗濯機が泣いてたわよ。『俺、毎回ちゃんと乾燥までやってるのに、こっちのフォローしないんですか!?』って」
「どんな機械だよ……ていうか、お前、また鍵持ってたのかよ」
「いやまあ、それはさておき……なにこれ?壁画?ラスコー遺跡?」
と、姉――さやかが、リビングの壁を見て口をポカンと開けた。続けて、祐介の方をちらりと見て、ニヤリ。
「まーた、可愛さに負けて怒れなかったんでしょ、祐介」
「う……」
「ほれ、見ときなさい。これが、姉貴式・お叱りレクチャー」
そう言って、さやかはしゃがみ込んでハルナと目線を合わせる。ふだん、からかってばかりの姉が、すっと表情を変える。
「ハルナ。これは、どこに描いたの?」
「ん……かべ……」
「そうだね。クレヨンで絵を描くのって、楽しいよね」
「うん!」
「でもね。ここは、絵を描くところじゃないの。ここは、みんなが見る場所で、綺麗にしておく場所なの」
「……」
ハルナは、しゅんとしながら、さやかの顔を見上げる。
「ハルナは、これを描いて、ぱぱが喜んでくれると思った?」
「……うん」
「うん。そっか……ありがとう。描いてくれて、すごく嬉しい。でもね、それなら、紙に描いて渡してくれたら、もっと嬉しかったかな」
ハルナの目が、少しずつうるんでくる。
「ぱぱはね、ハルナのこと大好きだし、絵も上手だって思ってる。でも、この壁に描いたことは、間違ってるの。だから、ちゃんと、謝ろう?」
「……ごめんなさい……」
ぽろぽろ、と涙が溢れた。さやかはハルナを抱きしめ、背中を優しく撫でながら、「そう、それでいいんだよ」と囁いた。
祐介は、ただその場に立ち尽くしていた。あまりの自然な叱り方に、ただただ感心していた。
「……姉貴、すごいな……」
「ふふん、まあね。伊達に元・学園の番長やってないわよ」
「いや、そっちの話じゃねえ」
そんなやりとりの後、ハルナはお昼寝タイムに入った。ぐずぐずと泣き疲れたのか、さっきまでの涙が嘘のように、すやすやと寝息を立てていた。
一方その頃、祐介は、壁をじっと見つめながら途方に暮れていた。
「これ……どうやって落とすんだ……?」
「はーいそこ!お困りの祐介くん!」
さやかがバッと何かの冊子を持ち出してきた。
「な、なんだよ、それ……」
「実はね、引っ越すときに、壁紙全部『水拭きOK・クレヨン対応』に変えておいたのよ。あんた、子供のいる家って想像以上にこうなるって思わなかったでしょ?」
「……それ、初耳なんだけど」
「言ってないもん。でも落書きは水性に限るわよ?油性ペンとか、マジックはNGだから。絶対に触らせないように」
「……助かった……いや、助かってねえけど助かった……」
それから、さやかと二人で壁の掃除に取り掛かりながら、祐介は心の中でそっと決意していた。
――俺は、もっと「父親」にならなきゃいけない。
子供を叱るのは、嫌われたくないからじゃない。ちゃんと、伝えるべきことを伝えなきゃ、子供は間違えたまま育ってしまう。間違えても、戻って来られるように、ちゃんと道を示す。それが、父親という存在の役目だ。
「……ぱぱ、がんばるよ、ハルナ」
小さく寝息を立てるハルナの頭を撫でながら、祐介はそう呟いた。