73話「しおりちゃんのお母さん」
第73話「しおりちゃんのお母さん」
「岡本ー、午後の資料まとめてあるかー?」
「っと、今プリントしてるとこっす!もうすぐ出します!」
午前中の会議を終えて、社内は若干のけだるさとともに静まり返っていた。俺は冷めかけたコーヒーを一口すする。微かに残る苦味と酸味、それに加えて睡眠不足のだるさが、徐々に仕事モードに戻るスイッチを押してくれる。
「笹原も、このあとの打ち合わせ、ちゃんと参加な。お前がいないと回らんぞ」
「……はは、了解です」
岡本と軽口を交わしながら、資料を確認していたそのときだった。
「おい、みんなー!ちょっと注目ー!」
声の主は課長。俺たちのフロアで一番声の通る男で、無駄に張りのある声に毎回肩をびくつかせる。全員が顔を上げたタイミングで、課長はにやりと笑って言った。
「今日から埼玉支社から異動してきた社員を紹介するぞ。こっちの部には初配属だから、しっかりサポートしてやってくれよ」
その言葉に、俺も含めて周囲は「ほう」と関心を寄せる。新人ではないが、部署異動者というのはわりと珍しい。特に埼玉支社は技術系の部署が多く、うちみたいな営業サイドに来るのはレアケースだ。
「ほら、自己紹介してくれ」
課長の横から、ひとりの女性が一歩前に出てきた。黒のパンツスーツにまとめた長めの髪。姿勢がよく、目元が涼しげで大人びた雰囲気。どこか見覚えのある顔に、俺は一瞬、目を細める。
「はじめまして。今日からこちらでお世話になります、椎名茜と申します。営業経験はまだ浅いですが、精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」
茜――。
その名前を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
椎名。椎名茜――?
……まさか。
その名字に聞き覚えがなかったわけじゃない。でも、俺が今この目の前に立っている彼女に感じた既視感は、名前ではなく……その声だった。どこかで聞いたような、温かく、そして少し懐かしい響き。
そして思い出す。ほんの数日前、保育園の海イベントで、あいりとハルナが仲良く遊んでいた女の子――しおり。その子の母親として、現地で話をした女性。
あのとき、名前は聞かなかった。向こうも俺の名前を名乗らなかったし、話の中で「娘がハルナちゃんとあいりちゃんと遊べて、すごく楽しかったんです」と言っていたっけ。
「……椎名……さん?」
俺はぽつりと呟いた。
それを聞いて、彼女がこちらを向いた。ほんの一瞬、目があった。彼女の目が僅かに見開かれたのを見逃さなかった。
――気づいたか。
そのタイミングで、岡本が俺の腕をつついた。
「なぁ、笹原。お前、もしかして……」
「ああ。たぶん、海で会った“しおりちゃんのママ”だ」
岡本が苦笑いしながら「マジかよ」と呟く。俺は首をひねりながら、静かにため息をついた。まさか職場に来るとは。
午後、俺たちは茜さんを交えて軽く打ち合わせを行った。仕事上の話だけを淡々とこなし、あえて私的なことには触れないようにしていた。彼女も同じだった。やけに仕事モードに徹しているあたり、向こうも気づいていたのだろう。
が、定時になり、帰り際のタイミング。
「笹原さん。少し、お時間いいですか?」
そう声をかけられ、廊下に出た。
「……やっぱり、あの時の」
茜さんは微笑むように言った。
「しおりがね、海のイベントのあと、ずーっと“ハルナちゃんと遊べて楽しかった!”って言ってて。あの時お会いしたの、たしかに笹原さんでしたよね?」
「ああ、そうです。まさか同じ会社の異動とは……」
「名字、変わっちゃったから、わかりにくいですよね。……私も、気づくのにちょっと時間かかりました。っていうか、久しぶりすぎて」
そう言いながら、彼女はふっと笑った。
「高校のとき以来、ですよね?」
その言葉に、ようやく確信した。
「……椎名、じゃなかった。お前、佐久間だったか」
「正解。……懐かしいな。笹原さん、私のこと、覚えてました?」
「そりゃ、な。……姉貴の二つ下の後輩ってだけでも強烈だったし。あの頃の……特攻服姿、未だに記憶に残ってるぞ」
「……うわぁ、やっぱ思い出されてたかー!」
茜は、恥ずかしそうに顔を両手で覆った。
「もう、やだなあ……当時は、あれが流行りだったんですって!」
「原チャで駅前走ってただろ、お前」
「やめてーっ!!言わないでぇぇっ!」
思わず笑ってしまった。まさか、あの“伝説の後輩”とこうして再会するとは。しかも、子どもまでいて、しかもその子がうちの娘と仲良くしてるとは、人生ってほんとわからない。
その夜。
保育園へお迎えに行き、ハルナを車に乗せて帰る途中、ハルナは「あしたも、しおりちゃんとあいりちゃんと、いっぱいあそぶー!」と満面の笑顔で言っていた。
「そっか。……いいおともだち、できてよかったな」
俺は微笑みながら返す。だが、どこか頭の片隅では、今日の“偶然”が、なにかを予感させているような、そんな気がしてならなかった。
帰宅後。
夕食の準備を終えたあと、姉貴――さやかが突然突撃してきた。定番だ。
「祐介ー!ちょっと聞きなさいよー!」
「……なんだよ、またなにか買ってくれってか?」
「違うわよ!今日ね、保育園の掲示板見てたら、“椎名茜”って名前があって……あんたまさか、その子って……“佐久間茜”じゃないの!?」
「……お前、覚えてたのかよ」
「当然でしょ!?私のかわいい後輩だったんだから!」
さやかは目をキラキラさせながら語り始めた。
「高校のときねー、茜ちゃんったら私に憧れて“姐さん、あたしも特攻服着たいです!”とか言ってきたのよ!?もう超かわいくて!」
「やめてくれ。イメージ崩れる」
「何言ってんのよ、今じゃママで会社員でしょ?人間って、成長するのよ~。ってか、あの子、こっちの支社に異動してきたの?」
「……ああ。まさかの」
「なにそれ、再会ドラマ?すっごーい!で、あんた惚れ直した?」
「……は?」
「冗談よ、冗談」
姉貴と岡本の嫁は、佐久間茜という名前を出すだけでまるで同窓会のように盛り上がっていた。
俺はと言えば、ソファでハルナと絵本を読みながら、目の端で姉たちの騒ぎを見つつ、心のなかで小さくため息をついた。
こうして、保育園の“友達のママ”は、思わぬ形で俺の職場にも現れた。
偶然の再会。
それは、きっと、何かの始まりなのかもしれない――