72話 ハルナ、鬼ごっこ
第72話「ハルナ、鬼ごっこ」
季節はゆっくりと夏へ向かい始め、東京の街には早朝から眩しい日差しが降り注いでいた。
蝉の鳴き声はまだ聞こえないが、それでも朝の空気には確かな熱が含まれはじめ、保育園の園庭にも蒸し暑さを予感させる風が通り抜けていく。
この日、都内のある住宅街にあるこぢんまりとした保育園には、いつもと変わらぬ笑顔と元気な声が満ちていた。
まだ小さな子どもたちは、朝の自由時間と呼ばれる時間帯に、思い思いのおもちゃを手に取り、園庭を走り、砂場で山を作り、ブランコに揺られていた。
そのなかに、茶髪のサラリとした髪にエルフ耳を隠すように結んだ、まだ幼さの残る少女がいた。
名前は――ハルナ。
年齢は四歳。だが、彼女の目には年齢以上の深みと、屈託のない明るさが共存していた。
ハルナは、異世界から来た娘。
この世界の保育園にもすっかり馴染み、今では「おともだち」と笑顔で呼べる存在ができていた。
今日もハルナは、登園時にお気に入りのピンク色の帽子をかぶり、大きなリュックを背負ってやってきた。
少し遅れてやってきたあいりちゃんと手を取り合うと、すぐに元気な声を上げて園庭へ走っていく。
「おにごっこしよー!」
叫んだのは、しおりちゃんだった。
最近転園してきたばかりの彼女は、おっとりとした雰囲気で、まだ少し人見知り気味だが、ハルナとあいりにはすぐに馴染んでいた。
「しおりちゃん、おに? ハルナ、にげる!」
「まって~! あいりもにげる~!」
ぱたぱたと駆け出す三人の小さな足音が、園庭に明るく響いた。
風鈴の音が近所の家からかすかに聞こえるなか、子どもたちの元気な声がそれを上回っていた。
ーー
「はやくにげよー、あいりちゃん!」
ハルナは、園庭の木のかげにかくれながら、ちらりと後ろを見た。
にこにこしながら鬼のしおりちゃんが追いかけてくるのが見えた。
「わーっ、にげろーっ!」
ハルナとあいりは手をつないだまま走る。あいりちゃんの手、あったかい。
ハルナは、にこにこして、ひゃー! って声を上げながらブランコの後ろをぐるっと回った。
けど、そのとき、
「きゃっ!」
どてん!って音がして、しおりちゃんが転んだ。
膝をすりむいちゃって、涙がぽろぽろ出てる。
ハルナはすぐに立ち止まって、あいりちゃんと一緒に戻った。
「しおりちゃん、いたいのいたいの、とんでけー!」
あいりちゃんが手をぱたぱたさせながら、しおりちゃんの膝にふーっと息を吹きかける。
それを見て、ハルナも同じようにまねっこする。
「いたいのいたいの……どこかいっちゃえー!」
ふたりして、しおりちゃんのすりむいたとこにふーふーしてると、しおりちゃんがびっくりした顔になって、でもすぐに「えへへ……ありがと」と小さく笑った。
「もういたくないよ」
しおりちゃんは涙をふいて、にこっとした。
その笑顔を見て、ハルナは胸がぽかぽかした。
よかった、って思った。
「じゃあ、つぎはハルナがおにだよ~!」
「え~! つかまえるぞ~!」
ーー
午前中いっぱい、三人は鬼ごっこをしたり、砂場で山を作ったり、おままごとをして過ごした。
お昼になると、給食の時間。今日のメニューはみんなの大好きなカレー。
カレーを食べるとき、しおりちゃんが「きょうね、ハルナとあいりちゃんにありがとうっていったの」と先生に言って、先生が「とってもいいことしてもらったんだね」とにっこりしていた。
ハルナはなんだか照れちゃって、「ふつうだよ?」って言ってたけど、心のなかでは、すっごくうれしかった。
「ハルナ、しおりちゃん、すきー」
って、あいりちゃんが言ったとき、
「ハルナもすき!」って答えた。
しおりちゃんも「わたしも!」って言って、三人は手をつないで笑った。
午後のお昼寝時間、三人はおなじお布団のならびに寝かされて、こっそりくすぐり合いをしたり、おしゃべりをして笑い合ったあと、やがてスヤスヤと眠りについた。
ーー
その日の夕方、お迎えの時間。
先生が玄関の近くで、にこにこしながら一人の保護者と話していた。
「今日は、ハルナちゃんとあいりちゃんが、しおりちゃんのことをとっても助けてくれたんですよ」
先生はスマートフォンを取り出し、保育園の連絡アプリに、写真を一枚アップロードする。
それは、三人が手をつないで笑っている、園庭での一枚だった。
夕日が差し込んで、三人の笑顔がきらきらして見える。
その写真に気づいた他の保護者たちからも「かわいいね~」「仲良し三人組だね」と、ほっこりとした反応が並ぶ。
園でのちいさな出来事が、静かに誰かの心をあたためていた。
ハルナの日常は、きっとこれからも、そんな優しい時間で満たされていく。
ほんの小さな出来事が、今日の宝物になるように。
そして――
彼女はまだ知らない。
あの“しおりちゃん”の母親が、明日、祐介の会社へと異動してくることを――。