70話海へ行く1
第70話 海へ行く1
朝から青空が広がり、東京の暑さもすでに初夏の気配を帯びていた。保育園の遠足行事で、今日は子どもたちを連れて海へ出かける日。4歳になったハルナも、いつもより早起きしてウキウキしている。
「ぱぱ、いくよー!」
「おう、はるな。気をつけてな」
玄関で、祐介はリュックに必要なものを詰めながら、ハルナの手をしっかり握った。浮き輪や水着、タオル、日焼け止め、それにおやつも忘れずに入れた。彼女の小さな顔が輝いていて、見ているだけで心が温かくなる。
「今日はあいりちゃんも来るんだよね?」
「そうだ、岡本さん家のあいりちゃんも一緒だ。仲良しだからな」
玄関先で車に乗り込む前に、姉貴のさやかがちらりとこちらを見て、ニヤリと笑った。
「ちゃんとお昼寝用の毛布も持った?熱中症対策も忘れないでね」
「任せとけ」
さやかは今回、仕事の都合で同行はできないが、準備だけは念入りだ。祐介はそんな姉貴に感謝しながら、子どもたちの安全第一で気を引き締めた。
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バスは海岸沿いの公園に到着し、子どもたちは歓声をあげながら砂浜へ走り出した。ハルナとあいりは手をつなぎ、砂の感触を楽しみながら「うみだー!」と叫んでいる。
しばらく子どもたちが遊ぶのを見守った後、祐介は岡本と二人、ベンチに腰を下ろした。二人の間には昔、誕生日に岡本からもらったZIPPOのライターがぽつりと置かれている。
岡本が鞄から1本のタバコを取り出し、ふいに祐介に差し出した。
「一本、どうだ?」
祐介は一瞬躊躇した。だが、首を振り、ゆっくりと言った。
「いや、俺はもう吸ってない。ハルナが来た日からやめたんだ。あの日だけは、緊張と不安で一本吸ったけど、それ以来だ」
岡本は軽く頷き、ライターを取り上げて自分の口元へ持っていく。炎が揺れ、彼はタバコに火をつけた。
「そうか。俺もお前の状況わかってるつもりだ。子どもができて、父親になってから、色々変わったよな」
祐介は肩の力を抜き、少しだけ笑みを浮かべた。
「正直、まだ実感がない時もある。俺が“パパ”なんて。毎日バタバタしてるけど、あの小さな手を握ると、全部吹っ飛ぶんだ」
岡本も煙を吐きながら話し始めた。
「俺もな、娘ができてから、俺自身を見直すようになった。家族のためにって言葉が本当に重くなったよ」
「お前は器用だから、うまくやってると思うけどな」
「いや、そうでもない。迷うことばかりだ」
二人はそんな話をしながら、しばらく海の方を見つめていた。砂浜では、岡本の妻がハルナとあいりを見守っている。子どもたちは4歳になり、遊び方もますます活発になっていた。
「でも、あいつらの笑顔があるから、頑張れるんだよな」
「そうだな。あの笑顔があれば、どんな疲れも吹き飛ぶ」
祐介はZIPPOを手に取り、ふと昔を思い出す。あの日、岡本が誕生日に贈ってくれたあのライターは、今でも大切に持っている。ライターの炎のように、家族を温かく照らし続けたいと心から思った。
「今日は思いっきり楽しもうな、ぱぱもな」
「おう、はるな」
ベンチの向こうで、二人の娘は元気に走り回っていた。海風がそっと頬を撫で、夏の始まりを告げていた。
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