62話 チャイルドシートを買いに行く
第62話 チャイルドシートを買いに行く
「パパ、あれ……がたがたしてる……」
朝の通勤ラッシュに紛れながら、俺の愛車、いや、元・姉貴の乗っていた軽自動車を運転していると、後部座席からハルナの声が聞こえた。バックミラー越しに見ると、小さな体を一所懸命シートに収めようとするその姿に、申し訳なさが募る。
「ああ……ごめんな、パパがしっかり固定してなかったかもな」
「ちがうよ、パパ。ここ、なんか、いたいの」
「ん?」
車をコンビニの駐車場に入れ、急いで後部座席を確認すると……ああ、なるほどな。チャイルドシートのクッション部分が、片方ヘタれてしまっていた。
「これは……もう寿命か……」
このチャイルドシート、実はハルナが現れて間もない頃、姉貴が「はいはい、これ、買っておいたから」と半ば押し付けるように持ってきたものだ。妙に高性能で、デザインも可愛い。完全に姉貴の趣味全開だったのを思い出す。
「パパ、これ、もうつかえないの?」
「うーん……安全考えたら、買い替えかな」
「かいかえ?」
「ああ、もっとふかふかで、痛くないやつにしてあげる」
ハルナは不思議そうな顔をしながらも、「ふかふか!」と笑顔になった。
その日の夜。
仕事を終えて帰宅すると、珍しく姉貴がこっちに寄らず、静かな夜が訪れた。ハルナはリビングで絵本を読んでおり、俺はスマホで近所のベビー用品店を調べていた。
「パパ、なにみてるの?」
「ハルナのための、新しいチャイルドシート探してるんだ」
「ふかふか?」
「そうそう、ふかふか。あとね、かわいい柄のも探してる」
「パパ……ハルナ、うさぎさんがいい」
「了解、うさぎさんな」
言葉を交わしながら、俺は少しだけ、胸が温かくなるのを感じていた。ハルナが“自分の好み”を言えるようになったことが、何より嬉しかった。
──そして週末。
土曜日の朝。姉貴からの「今日は行かないのか」と無言の圧を感じるLINEが届く中、俺とハルナはふたりで車に乗り込み、ベビー用品の大型店舗に向かった。
「パパー、これ?」
「いや、それはベビーカーだから違うな」
「じゃあ、これ?」
「それは抱っこ紐。もうハルナは使わないな」
「あははっ、これ、赤ちゃんのやつだ!」
ハルナは大はしゃぎで店内を歩き、展示されているチャイルドシートを次々と覗き込んでいた。販売員の若い女性がやってきて、俺の肩に話しかけてきた。
「お父さま、お買い替えをご検討ですか?」
「ええ、今使ってるのがちょっと……ヘタってきてて」
「安全性やクッション性を考えると、やはり3歳から4歳くらいのタイミングでの買い替えが理想ですね。こちらなどいかがでしょう」
案内されたのは、黒とピンクのツートンで、座面も柔らかく、なによりうさぎの模様が入っていた。
「パパ、これ、これがいい!」
「うさぎさんだもんな」
「はい、こちらは現在キャンペーン中で……」
販売員の説明を聞きながら、俺はハルナが満面の笑みでチャイルドシートに座る姿を見ていた。脚をぶらぶらと揺らして、「ふかふか〜」と声を漏らす様子が、まるで絵に描いたような幸せそのものだった。
支払いを済ませ、車に新しいシートを設置し直す。
「パパ、これ、ふわふわ!」
「うん、これならどんな道でも安心だな」
助手席に座り直し、俺はバックミラー越しにハルナと目を合わせた。
「パパ、ありがと」
「ふふ、パパも嬉しいよ」
その瞬間、ふと姉貴の顔が浮かんだ。もしこれを姉貴に相談していたら、きっと「なんで勝手に買ってんのよ!」と騒がれていたに違いない。が、その一方で、彼女なりに最善のものを選んでくれたのも事実だった。
……次に会うとき、文句は言われるかもしれないが、「新しいチャイルドシート、ハルナが選んだんだ」と言えば、きっと姉貴は笑うだろう。うん、たぶん、きっと。
その日の帰り道。
「パパ、またいっしょに、おかいものいこうね!」
「うん、次は……うーん、何がいいかな。夏の帽子とか?」
「ぼうし! パパとおそろいがいい!」
「よし、それなら……おそろい、探しに行こうか」
こうして、チャイルドシートの買い替えというささやかな出来事が、俺たちの日常にまた一つ、新しい思い出を刻んでくれたのだった。