60話エルフの耳
第60話「エルフの耳」
「……あれ? ハルナちゃんの耳って、ちょっと……」
保育園のお迎え時、玄関ホールにいた母親たちの声がふと耳に入った。
祐介は一瞬、心臓が跳ね上がる音を聞いた気がした。
――まさか、耳を見られた?
今日のハルナは朝から少し機嫌がよく、いつもよりも元気に髪を結ってほしいとお願いしてきた。いつもなら耳を隠すような髪型にしているのに、「ハルナ、あたま、ちょんちょんにしてー!」とツインテールにしたがった。祐介としても可愛らしいその姿に逆らえるはずもなく、軽い気持ちで結んでしまったのだった。
だが、それが裏目に出た。
エルフの耳。普通の人間の耳とは違い、ほんのり尖ったその形状は、見る人が見れば一発でわかる特徴だ。
(くそっ、やっちまった……)
「お、おいハルナ、帰るぞー!」
祐介は咄嗟に声を張り、ハルナの手を引いて駐車場まで急ぎ足で歩いた。園の門を出るまでは、誰かが話しかけてくるんじゃないかと内心びくびくだったが、奇跡的に何も言われなかった。
助手席に乗せ、チャイルドシートのベルトを締めながら、祐介はハルナの耳をさりげなく確認する。
(……見えてるな。完全に見えてる)
本人は気にしていない様子で「せんせいねー、きょうカエルさんだったのー」と話しているが、問題は周囲だ。大人はまだしも、子供同士の間で噂が広がればどうなるか。
(……どうしたもんかな、これ)
その日の夜、祐介は姉――さやかに連絡を入れた。
「……で? 耳が見えたって?」
通話越しに聞こえてくる姉の声は、どこかくぐもっていた。風呂上がりらしい。すでに寝巻きに着替えているのだろう。
「ツインテールにしたら思いっきり出ててさ。……母親たち、気づいてたっぽい」
「ふーん。でも、保育園のママたちなら大丈夫なんじゃないの? あいりちゃんち、すでにバレてるし」
「そうなんだけど……」
祐介は唇を噛んだ。
あいりちゃんの母親は事情を察している。そして岡本の家族も含めて、ある程度のことは受け入れてくれている。だが、保育園全体となると話は別だ。
もしも「耳が尖っている=人間じゃない?」という疑問を持たれれば、最悪の場合、偏見や過剰な詮索につながる可能性もある。
「とりあえず、明日からは耳が隠れる髪型に戻そうと思ってる。……ハルナが嫌がらなければ、だけど」
「うーん、私が結ってあげようか?」
「……あ?」
「なにその警戒した声。あたし、美容学校行ってたでしょ。ちょっとは技術あるんだから」
祐介は返す言葉が見つからず、黙ってしまった。
姉が美容学校に通っていたのは事実だ。ただし、その後の進路が保育士とは関係ない方向へ迷走し、さらにロリ……いや、妹属性方面に突っ走っているのもまた事実である。
「まぁいいわ。明日、家寄るわね。ハルナちゃんの耳に似合う髪型、考えておくから」
「勝手に決めるなよ……」
「えー? でも祐介、私のこと、信頼してるでしょ?」
「……おまえなぁ」
電話を切ったあと、祐介は深いため息をついた。
明日からまた一波乱ありそうな気がする。ハルナの可愛さは武器でもあり、弱点でもある。
⸻
翌朝、姉は案の定、突撃訪問してきた。手には美容師が使うようなコームとスプレー、そしてヘアアクセサリーの袋がいくつもあった。
「おはよ〜。さてと、ハルナちゃんは?」
「あ……おきてるよ。あさごはんたべてる」
ハルナはトーストの端をかじりながら、姉を見上げて「さやかおねいちゃん!」と笑顔を見せた。
「おはよう、ハルナちゃん。今日はね、かわいくしてあげるからね〜!」
「やった〜! おねいちゃん、ちょんちょんしてくれるの〜?」
「ちょんちょんより、今日は……“ハーフアップ編み込みリボン隠し”にしてみようか!」
「なにそれ〜!? つよそう〜!」
「強いよー、耳も隠れるしね〜」
祐介はその会話を聞きながら、こっそりコーヒーを飲んでごまかす。姉はこういうとき、本当に頼りになる。問題は――
「はい、できた〜! どう? 祐介。可愛いでしょ、天使でしょ、合法でしょ?」
――その後に必ず一言多いことだ。
「可愛いけど、最後の余計」
「えー? 褒めたんだけどなぁ?」
「……ハルナ、歯磨きしたら保育園行くぞ」
「うんっ! おねいちゃんありがと〜!」
⸻
その日、祐介は保育園まで送り届けたあと、ハルナの後ろ姿を見送った。姉が編み込んでくれた髪型は、確かに耳を自然に隠していた。しかも可愛らしく、幼女として完成されている。
(……完敗だな)
親として、娘のことは誰よりも理解していたつもりだった。だが、姉のように女の子としての「魅せ方」に関しては、やはり一日の長がある。
それを認めるのは、なんだかちょっと癪だった。
仕事帰り、姉からLINEが届いていた。
「明日も結ってあげよっか? 週2くらいならボランティアでやってあげる♡」
祐介は「ありがとう」とだけ返した。
本当はもっといろいろ言いたかったけれど、それを文字にすると負けた気がしたからだ。
⸻
その夜、ハルナは風呂場で一言、こう言った。
「ぱぱ〜、きょうね、おともだちに『かわいいね』っていわれた〜!」
「そっか……よかったな」
「うんっ!」
祐介はハルナの頭を洗いながら、そっと耳元を見つめた。
そこにあるのは、誰とも違う、小さくて愛しい特徴。
守りたい。
それがどんなに変わっていても、特別であっても、俺の娘に変わりはない。
そう心に誓った夜だった。