4話 言葉の壁
【第4話】言葉の壁
引越しの日は思ったよりもあっさりやってきた。
姉・真希が手配した引越し業者は、祐介が知っている相場よりもはるかに手際よく、かつ丁寧だった。しかも、荷造りから荷解きまで、すべて込みで「姉の口利きですので」とやたら丁寧に頭を下げてくる。
引越し先の家は──まさしく理想だった。
白い壁に赤茶色の屋根、明るい木目のフローリング、リビングは広く、南向きの大窓からは柔らかな光が差し込む。子ども部屋を意識したらしい部屋には、あらかじめ簡易なベッドと机が用意されていた。
ハルナは、荷物もまだ整わないうちから家の中を探検して、にこにこしながらあちこちを走り回った。
「……ここが、オレの“家族の家”ってことになるのか」
祐介はソファに腰を落とし、少しだけ背もたれに体重を預けた。
まだ実感はない。
だが、こうして目の前で、ひとつ年下の女の子が「あははは!」と笑いながら床に滑って転んだりしていると──不思議と、胸の奥が温かくなった。
ただ──問題は残っていた。
「ハルナ。これは“ねこ”。わかるか?」
「……ねこ?」
祐介が指差す絵本には、ふわふわの三毛猫が描かれている。言葉に反応はするのだが、彼女の口から返ってくるのは、正確な発音ではない。
「これは?」
「い、ぬ!」
「そう、それは“いぬ”」
「……ゆーすけ、いぬ!」
「おいコラ!」
ハルナは笑いながら祐介を指差した。言葉の意味は覚えていないのかもしれない。だが、音として記憶するスピードは相変わらず異常に早かった。
もしかして──異世界での言語体系が、日本語に似てる?
それとも、ハルナ自身の能力なのか。
図書館で借りたひらがな表や絵本、図鑑を並べ、祐介は自作の“家庭授業”を始めた。
最初はまったく通じなかった。しかし、二日、三日と経つうちに──ハルナの言葉は少しずつ日本語に近づいていった。
「これは、“くるま”」
「く、るま。ぶーん!」
「そう、それ。くるまは“ぶーん”で走るんだな」
「……ゆーすけ、くるま!」
「俺がくるまになってどうする!」
毎日、こんな会話の連続だった。
夜には音読の練習。絵本のセリフを一緒に読む。とにかく「意味がわからなくても、音と形を一致させること」に集中した。
その間、祐介は驚いた。
ハルナは、“言語の意味”を教えなくても、文脈や表情、絵と合わせて、推測する力が強すぎた。
たとえば、祐介が冷蔵庫の中身を見て「ごはんないな」と呟けば、
「ゆーすけ、つくる!」
と返す。
風呂場で「熱っ」と言えば、
「おふろ、あちち!」
とすぐに覚える。
「……IQ高いとか、そういうレベルじゃねぇ……」
祐介は、素直に感心していた。
言葉が通じるようになるにつれて、祐介の中の“謎の子ども”という感覚が、“娘”という感覚に変わっていった。
夕方──。
「ゆーすけ、はるな、いっしょ」
「うん。一緒だよ。どこにも行かない」
「……どこにも、いかない?」
「うん」
それはたどたどしくも、祐介にとって最高の“信頼の言葉”だった。
子どもが親に向ける目には、嘘がない。
ただ純粋に、「信じてる」ことが、そのまま視線に現れる。
その夜。
ハルナは祐介の膝の上で眠った。絵本を半分も読まないうちに、ことんと首が傾いて──そのまま、すうすうと規則正しい寝息を立てた。
「……まいったな。可愛すぎて、寝かせたくない……」
祐介は、娘をそっと抱き上げ、ベッドに運ぶ。
ベッドに寝かせたあと、ハルナがうっすらと目を開けて、小さく言った。
「……おやすみ……パパ……」
「……!」
一瞬、息が止まった気がした。
自分のことを「パパ」と呼ばれるなんて、思ってもいなかった。
──でも、たしかに今の祐介は、ハルナの“パパ”なのだ。
「……おやすみ、ハルナ」
祐介は小さく呟いて、電気を消した。
こうして、彼らの小さな言葉の壁は、一つずつ壊されていった。