38話 1泊2日の出張(ハルナ視点)
第38話「1泊2日の出張(ハルナ視点)」
「ぱぱ、ほんとうにいっちゃうの?」
玄関に立っている祐介を見上げて、ハルナは少しだけ涙目になった。
スーツ姿の祐介は、申し訳なさそうに優しい顔でしゃがみこんだ。
「ごめんな、ハルナ。今日はどうしても、お仕事で出張があるんだ。明日の夜には帰ってくるから……それまで、いい子にしていられる?」
「……ん」
ハルナはぷくっと頬をふくらませ、ぎゅっと祐介に抱きついた。
「ぱぱがいないと、さみしいよ……でも、がんばる。ハルナ、ぱぱに、がんばるっていったもん」
「……ありがとう、ハルナ。すごく嬉しいよ」
祐介は優しくその髪を撫でると、玄関のドアを開けた。
「じゃあ、いってくるな」
「いってらっしゃい……」
扉が閉まる。カチャリと鍵の音がして、ぱたぱたと祐介の足音が遠ざかっていった。
その音が完全に聞こえなくなったとき、ハルナはしばらく、じっと玄関を見つめていた。
「……さびしい」
ぽつりと、ひとりごとのように言ったその声に、すぐ背後から明るい声がかぶさる。
「だ〜いじょうぶ! おねえちゃんがいるじゃないか!」
「……さやかおねえちゃん」
「ふっふっふ。ぱぱは今頃、駅のコンビニで栄養ドリンクでも買ってる頃よ。さあ、今日はふたりきりだし、スペシャルな一日を過ごしちゃいましょ!」
「スペシャル……?」
「まずはお昼ご飯にホットケーキパーティ、それからお昼寝して、夕方は近所の公園でシャボン玉大会! 夜はね、特別に……」
「えほん、よんでくれる?」
「もちろん! 20冊でも30冊でも!」
「う、うん! ぱぱのかわりに、がんばる!」
ハルナは鼻をすんっと鳴らし、ぺたぺたとキッチンに向かって走っていった。
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ホットケーキはハルナの“混ぜる係”としての活躍により、いつもより厚くてふわふわだった。
バターとメープルシロップの香りに包まれて、ふたりはテーブルの上のホットケーキをぱくぱくと頬張った。
「うまい! これは天才の焼き加減だな、ハルナ!」
「ハルナ、ぱぱにおしえてもらったの。まぜるとき、“まごころをこめる”って!」
「うっ……泣ける!」
さやかが目頭を押さえていると、ハルナはさらに自信たっぷりな声で言った。
「ぱぱは、ハルナのいちばんのせんせいなんだから!」
「……うん。そうだね。あいつ、いつの間にか“立派なぱぱ”になったなあ……」
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午後は読み聞かせ地獄だった。
ハルナが「あといっさつ!」と粘るたびに、さやかは渋々といった顔をしながらも、結局最後まで読んでしまう。
そして夜、祐介からのビデオ通話が入った。
画面に現れたぱぱの顔を見た瞬間、ハルナの顔がぱっと明るくなる。
「ぱぱぁ!!」
「お、ハルナ。元気にしてたか?」
「うん! ホットケーキたべて、シャボンだまして、えほんもいっぱいよんだよ! さやかおねえちゃんが、いっぱいいっぱいつきあってくれたの!」
「そっかそっか。いい子にしてたな。えらいぞ」
「……ぱぱは?」
「うーん、パパは今、ビジネスホテルってところにいて、パソコンとずっとにらめっこしてたよ」
「ぱそこん? けんか、したの?」
「……まあ、そういうことにしておこうか」
「ふふ、ぱぱ、へんなの」
笑い声が画面越しに交差して、しばらくふたりは他愛もない会話を続けた。さやかは後ろでニヤニヤしながらカメラを構えていた。
やがて、祐介が言った。
「明日の夕方には帰るからな。おみやげも買ってくるぞ」
「うん! ハルナ、まってる!」
「じゃあ……おやすみ、ハルナ」
「おやすみ、ぱぱ」
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夜——ベッドの中。
ぬいぐるみの“もふもふくまさん”を抱きしめながら、ハルナは天井を見上げていた。
「ぱぱ……いま、なにしてるのかな……」
少しだけ、目の奥がじんわり熱くなった。
でも泣かない。泣かないって決めたのだ。
「ぱぱは、がんばってる。だから、ハルナも、がんばる」
そう言って目を閉じると、ハルナの心の中に、祐介のにっこり笑う顔が浮かんだ。
そしてそのまま、深い眠りへと落ちていった。
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次の日の夕方。
玄関のチャイムが鳴った。
「ぱぱ!」
ハルナは飛び跳ねるように玄関へ走る。ドアを開けると、そこに立っていたのは、スーツ姿の祐介だった。
「ただいま」
「おかえりーっ!」
抱きついてくる小さな身体をしっかりと受け止めながら、祐介は心の底からこう思った。
——やっぱり、家が一番だ。
「ぱぱ! おみやげは?!」
「そこ!? ……はいはい、ちゃんと買ってきたぞ。ホテルの近くにあったケーキ屋さんの、限定プリン!」
「わーいっ!」
背後から、さやかがため息混じりに声をかける。
「……ほんっと、よくできた娘だね。親バカ一直線すぎて、見てるこっちがむずがゆいくらいだわ」
「黙ってろ、姉貴」
そしてその夜。
三人で食卓を囲んで、おみやげのプリンを頬張りながら、ハルナは幸せそうに言った。
「ハルナ、ぱぱがいちばんすき! ずーっといっしょがいい!」
その言葉が、何よりのご褒美だった。
祐介はハルナの頭をそっと撫でながら、心の中でこう誓った。
——絶対に、この子を幸せにする。
どんなに忙しくても、どんなに大変でも——この小さな手を、離さない。