37話 同僚と飲みながら、娘を呼ぶ
第37話「同僚と飲みながら、娘を呼ぶ」
金曜日の夜。梅雨入り前の少し蒸した風が、仕事帰りのサラリーマンたちのシャツの隙間をすり抜けていく。
「で、さっきのメール見たか? “今日こそ、絶対にハルナちゃんのお迎えに行かせてください!”って……土下座のスタンプ付きでさ。俺の姉、どこまで本気なんだか」
笹原祐介は居酒屋の個室で苦笑いしながらスマホを見せた。向かいに座るのは同じ営業部の同僚・岡本俊也。彼とは同期で気が合い、娘が生まれてから特に育児談義で盛り上がるようになった。
「マジでお前の姉ちゃんぶっ飛んでんな……いや、俺も似たような経験あるけどさ、あの“ハルナ愛”は相当ヤバい」
岡本はジョッキを持ち上げて乾杯の姿勢を取る。
「ま、姪っ子可愛いってのはわかるけどな。じゃあ、今夜は娘自慢でもして盛り上がるか」
「よし、乾杯!」
ジョッキが鳴る。冷たいビールが喉を通り、仕事の疲れが一気に霧散していく。二人は焼き鳥をつまみながら、仕事の愚痴を一通り終えたあと、おもむろに話題を家庭に向け始めた。
「で、最近のハルナちゃんはどうよ? もうだいぶ日本語もペラペラになったんじゃないの?」
「いやー、それが驚くほどの吸収力でさ。図書館の子ども絵本コーナーで、何度も繰り返し読んでたら、勝手に文字まで覚えてた。しかも発音が綺麗で……ま、これは異世界補正ってやつか?」
「異世界娘はやっぱ格が違うな……うちのあいりは、昨日も“ぱぱ”って駄々こねてさ。お菓子売り場で寝転がって泣くやつ。もう恥ずかしいのなんのって」
「“ぱぱ”固定、わかる。俺の方は、何かあるたびに『ぱぱ、だいすき!』って言ってくれるから、そのたびにHP回復する感じでさ」
「チートかよ……それズルいって!」
そんな他愛もない会話が、酒と共に盛り上がっていく。やがて岡本がポケットからスマホを取り出し、ニヤリと笑った。
「……なあ祐介。今からうちに来ない? あいりとハルナちゃん、同じ保育園なんだよ。どうせなら紹介しときたいし、うちの嫁もお前のこと知ってるって言ってたんだ」
「え、マジで? どこで?」
「高校のときだってさ。祐介って名字言ったら“ああ、あの笹原くん?”って。多分同じ学年にいたんだろうな」
「……全然記憶にないけど……それに、うち、今は姉がハルナ連れてるはずだし。家に来られても対応できるかどうか……」
「大丈夫だって。俺、連絡してから行くし。……あ、もう返事来た。“今日はハルナちゃんもご機嫌です! 来てください!”って。おいおい、姉ちゃんノリノリだな」
「……なんでお前が姉とLINEしてるんだよ」
「前に“姉の言動を共有しよう”って話になってさ……いや、実際お前の姉ちゃん、色んな意味でネタの宝庫だからな……」
そして二人は、ほろ酔い気分で居酒屋を出た。
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「わぁぁあ! いらっしゃいませー!」
玄関のドアが開くや否や、ハルナが裸足で駆けてきて、祐介に飛びついた。
「ぱぱ! ぱぱ! きょうは、えと……おそい!」
「ごめんごめん、お仕事で遅くなっちゃってな」
その姿を見て、岡本の娘・あいりがぽかんと口を開けた。ハルナと同じ年の女の子で、ふわふわのツインテールが揺れている。
「……この子が、ハルナちゃん?」
「そうだよ、あいりちゃん。ハルナちゃんにごあいさつしようね」
「あ、あの……はじめまして……」
ハルナはじっとあいりを見つめたあと、突然くるりと祐介の後ろに隠れた。
「ぱぱ……おんなのこが、ふえた……」
「ハルナ、それは……敵じゃないから」
一方、台所から顔を出した姉・さやかは、満面の笑みで岡本の妻に手を振っていた。
「まあまあまあ、ようこそおいでくださいました〜! ハルナの成長っぷりはどんどん記録してるので、動画も見てってくださいね!」
「姉ちゃん、営業みたいなトーンやめろ」
「祐介、娘にお迎えさせてもらったんだから、今日は私の時間でしょ? ……それに、ハルナが“おねえちゃん、だいすき”って言ってくれたんだから、全人類に自慢したいのよ」
「……はいはい」
それからしばらくは、家族ぐるみの“娘自慢大会”となった。お互いの動画や写真を見せ合いながら、どれだけ可愛いか、どれだけいたずら好きか、どれだけ寝顔が天使か——
親バカの宴は深夜まで続いた。
最後に祐介が寝静まったハルナを抱き上げ、ベッドに寝かせたとき。あいりもソファでうとうとし始めていた。
「……にんげんって、こうやって、親になるんだな」
自分の胸元で寝息を立てる小さな命を見つめながら、祐介はそっとつぶやいた。
そう、ほんの数ヶ月前までは、こんな未来は想像もしていなかった。
けれど今、彼の世界はハルナ中心に回っている。
「……ぱぱ」
寝言のように、小さな声が祐介の耳に届く。
「……だいすき」
その瞬間、祐介の胸が熱くなった。
「おう、俺もだよ」
娘をそっと撫でながら、父親は静かに目を閉じた。
明日も、きっと忙しくて、幸せな一日が始まるのだから——