36話 久しぶりの保育園
第36話「久しぶりの保育園」
ゴールデンウィークの余韻が、まだ体の奥にふわふわと残っている。
温泉の湯けむり、駅弁の匂い、カツオ料理に興奮するハルナの笑顔――どれも夢のような休日だった。
そして今日、日常が戻ってくる。
「ぱぱ、きょう、ほいくえん……?」
まだ少し寝ぼけ眼のハルナが、枕の端をぎゅっと掴みながら俺の顔を見上げてくる。
長い連休を一緒に過ごしたせいか、少しだけ離れることに不安を感じているようだった。
「うん、今日からまた保育園。先生たちも、みんなも、きっと会いたがってるよ」
俺は笑顔で応えながら、そっとハルナの髪を撫でた。
ハルナはふと、視線を下に向ける。
そして、次の瞬間――
「……がんばる、ぱぱが、おしごと、がんばるから」
ほんの少しだけ震えた声。でも、はっきりとそう言ったハルナに、俺は一瞬、返す言葉を忘れた。
俺の方が、よっぽど不安だったのかもしれない。
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朝食を済ませ、ハルナの支度を終えると、保育園へ向かう時間になった。
通い慣れた道。けれど、ハルナの手が俺の指を少しだけ強く握るのを感じる。
「ぱぱの、て、すき……」
小さな声で呟くようにそう言われて、俺は思わず歩きながら噴き出しそうになった。
「ぱぱも、ハルナの手、好きだぞ」
そう返すと、ハルナはにっこり笑い、ぐいっと俺の腕にくっついた。
玄関で靴を脱ぎ、先生たちに挨拶をすると、ハルナは少し恥ずかしそうに「おはようございます」と口にした。
その成長に先生たちも「わぁ、上手に言えたね」と拍手してくれた。
一度振り返ったハルナと目が合う。
俺がにっこり笑って手を振ると、ハルナは小さく手を振り返し、それから教室の方へ走っていった。
ほんの一週間前までは、俺の足にしがみついて泣いていたあの子が。
……やばい、泣きそう。
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職場に戻った俺は、コーヒーを飲みながらメールをチェックしつつも、頭の中は保育園のことばかりだった。
――ちゃんとお昼ごはん、食べられてるかな。
――他の子とケンカしてないかな。
――トイレ、大丈夫かな。
一緒に行った温泉で「ぱぱ、いっぱいいっしょで、うれしい」なんて笑ってくれたあの顔が、頭から離れない。
「……さすがに親バカだな」
自分に苦笑していると、隣の席の同期・吉田が声をかけてきた。
「お、笹原。今日からまた保育園か? 顔に書いてあるぞ、“娘が気になってしゃーない”って」
「いやぁ、わかる?」
「そりゃな。お前、完全に“娘命”って顔してるからな。あとで写真見せろよ」
「やだよ、そんなん……」
「見せろ、今すぐ」
「……わかったよ」
スマホを開いて、温泉宿で撮った写真を見せる。ハルナが、笑顔で浴衣を着てピースしているやつ。
「なにこの天使」
「やめろ」
「天使じゃん。お前これで親バカじゃなかったら、逆に失礼だわ」
「お前に褒められてもなぁ……」
それでも、笑いながらそんなやり取りをして、少しだけ緊張がほぐれた。
どこかで「ちゃんと日常に戻れたんだな」と思えた瞬間だった。
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夕方。仕事を切り上げて保育園に向かう。
玄関を開けると、先生が笑顔で迎えてくれた。
「ハルナちゃん、今日はとっても頑張りましたよ。お昼も全部食べて、お昼寝もぐっすりでした」
「ありがとうございます……助かります」
俺がそう言うと、奥の教室から足音がして、すぐに「ぱぱー!」という声が響いた。
俺の名前ではない、“ぱぱ”という呼び名。
たった一人の、小さな誰かが俺をそう呼んでくれること。
それだけで、世界の全部が優しくなる気がする。
ハルナは俺の足に飛びついてきた。
俺はその小さな体をしっかりと受け止め、そっと抱き上げる。
「どうだった? 久しぶりの保育園」
「たのしかった! おともだちが、ハルナのこと、かわいいっていった!」
「へぇ、それはよかったな。でも、ハルナはかわいいからな」
「えへへー」
俺が頬を軽くつつくと、ハルナはくすぐったそうに笑った。
小さな手が、また俺の頬に触れる。
「ぱぱ、また、あしたもくる?」
「うん、ぱぱはお迎え、毎日来るよ」
「やったー!」
日常というのは、こんなにも尊く、愛しいものだったんだと、改めて思い知る。
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家に帰って、夕食を作る。ハルナはその間、絵本を広げてソファに座っていた。
読めないはずの文字を、想像で補いながら声に出している。
「くまさんが……おなか、すいたって……」
違うんだけど、でもそれっぽい。
俺がキッチンから覗くと、ハルナと目が合う。
ハルナはにこっと笑って、俺の方に本を持ってくる。
「ぱぱ、よんで?」
「いいよ。じゃあ、ごはんできたら読んであげる」
「うん!」
そんなやり取りのあと、二人で並んで夕食を食べて、お風呂に入って、絵本を読んで、ベッドへ。
ハルナは、すぅすぅと寝息を立てている。
寝顔を見ながら、俺はぽつりと呟く。
「……ありがとうな、ハルナ。お前のおかげで、毎日が本当に楽しいよ」
そしてそっと、髪を撫でる。
――俺はきっと、前より強くなった。
守るものができると、人ってこうなるんだな。
ハルナの寝顔は、何よりも尊くて、温かかった。