第1話 娘、異世界から来る ―祝― パパになりました
第1話 娘、異世界から来る ―祝― パパになりました
朝の光が差し込むアパートの一室。冷えたフローリングの上に座り込み、笹原祐介はしばらく現実を受け止めきれずにいた。
目の前にいるのは、三歳くらいの少女。茶色のふわふわした髪、眠たげな瞳、そして尖った耳。
「パ……パパ……?」
再び聞こえたその一言に、祐介の心臓は音を立てて跳ねた。呼吸を整えながら、彼は何とか声を絞り出す。
「お、お前……ハルナ、か?」
少女はこくりと頷いた。まるでそれが当然のことのように、彼の名を知っていて、彼の顔を見て安心したような表情を浮かべる。
「ま、待って。話が……話が早すぎる。いや、まずおかしいだろこれ……」
そう呟きながら祐介は部屋をぐるぐると歩き回る。朝食のパンも、インスタント味噌汁も、テーブルに置かれたままだ。
彼の職業は、ごく普通の会社員。毎日残業と取引先対応に追われ、年収も平凡。婚姻歴なし、恋人なし、育児経験も皆無。今朝だって本当は、久々に訪れた土日休みを満喫するはずだった。
「な、なんだって俺が……娘を……」
彼の視線がもう一度、ハルナに向かう。
少女はと言えば、布団の端でちょこんと座り、首を傾げながら祐介を見上げていた。警戒も恐れもなく、まるで最初からそこにいるのが当然であるかのような顔だ。
「…………」
混乱しながらも、祐介は試しに声をかけた。
「えーっと……は、ハルナ?」
「ん?」
「お、おなかすいてないか?」
ハルナはきょとんとした顔をしたあと、こくんと頷いた。やっぱり腹は減るらしい。
「……よし。とりあえず、ごはんにしよう。な? 俺も腹減ってるし……うん、そうだ、まずは飯だ。朝メシ食って、頭を整理しよう」
祐介はまるで自分に言い聞かせるようにぶつぶつ言いながら、台所へ向かった。冷蔵庫の中身は、卵、牛乳、チーズ、そして残り物の野菜が少し。朝食としては十分だ。
その間にも、ハルナはとことこ……と祐介の後ろをついてきていた。
「お、おい、待て、危ないぞ。そこ包丁あるから……って、わかんないよな、言葉通じるのか……?」
祐介は冷蔵庫を開けながら、ふと疑問を覚える。
言葉が通じているようで、実は微妙に噛み合っていない気がする。ハルナの「パパ」という言葉も、日本語のそれとは発音が微妙に違っていた。
試しに祐介は、思いついた単語をいくつか口にしてみた。
「これは卵、こっちは牛乳……あー……“たまご”、わかるか?」
ハルナは首を傾げ、ぽつりと何かを口にした。
「……ティール。ウィル・サリオ?」
「……な、なんだその呪文みたいな……」
祐介は頭を抱えた。これは確定だ。言葉が通じてない。
夢に出てきた白髪エルフのこと、あの“託す”という言葉。あれが現実だったのか。だとすれば、この少女は異世界から来た……ということになる。
そうして、台所にしゃがみ込んでいた祐介の背中に、小さな手がそっと触れた。
「……パパ、がんばる?」
異世界の言葉。でも、その響きだけは、なぜか心に届いた。
「……ああ、がんばるよ」
思わずそう返してしまった自分に、祐介自身が驚いた。
――これは現実だ。
目の前にいるのは、夢なんかじゃなく、確かに“自分の娘”として来た存在なのだ。
笹原祐介、独身サラリーマン。
34歳、突然、パパになりました。
そして始まる、まさかの子育て生活――。