6 かくしてその地に狂気が降り立った①
次に意識を取り戻したとき、志穂どこか知らない場所で椅子に腰掛けていた。
床も壁も天井もすべてが白い。というよりも、白すぎてそれらが存在するのかさえもよくわからない。
「おや、気がついたかい」
そして目の前には、白い椅子に腰を下ろす白い男。
白い髪に白い肌。身につけているものはスーツや靴だけでなく、ネクタイなどの小物に至るまですべてが白い。唯一その瞳だけが僅かに青みがかっているように見える。
(誰よこの人……!? ていうか、私なんでこんなところに!?)
常識的に理由を推測するならば、誘拐――もしかしたらカラダ目当てかもしれない。
志穂は反射的に、スカートのポケットにあるはずのスマホに手を伸ばす。
「――えっ?」
なぜわからないが、自分の服も身体も触ることができない。
触ろうとしても、まるで煙のように手応えもなく透けてしまうだけだ。
「どうやらさっそく理解してくれたようだね。――君がもう死んでいるということを」
理解なんてしているわけもない。
もちろん男の言っている言葉の意味ならわかる。つまり志穂はすでに死亡しており、いわゆる魂のようなものとなってここにいるということなのだろう。
だからといって、そんなものはにわかに信じられるような話ではない。
しかし身体のどこに手を伸ばしたところで、やはり結果は同じだった。自分がすでに死者であるという男の言葉が、志穂の中で俄然現実味を帯びてくる。
志穂は混乱する気持ちを無理矢理に抑え込んで、目の前の男に尋ねた。
「いったいどうして私は……?」
「君が駅のホームで死亡事故を目撃していたこと、覚えているかい?」
志穂が頷くと、男は言葉を続ける。
「君はよっぽどそれが楽しかったと見えるね。それこそ、君の身体が生きることをうっかり放棄してしまうほどに。つまりわかりやすく言うならば、快楽の過剰摂取によるショック死――それが君の死因さ」
自分事ながら、なんというブッ飛んだ最期だろうか。しかしながら、その言葉を聞いて志穂はようやく得心がいった。
死んでしまったというのは残念ではある。この世に未練がないわけでもない。それでもあれだけの幸福の中で死ねたというのであれば、それは決して悪い死に方ではあるまい。
「いやはやまったく正気とは思えないね。君のような人間をわざわざ生み出したとするならば、君たちの神はよっぽどの酔狂者らしい」
さり気なく人格を否定してくる男に、志穂は内心で顔をしかめる。
しかしそれよりも気になるのは、男のその言いぶりだ。
「……あなた、何者なんですか?」
「僕は神さ。といっても、君たちいたの世界とは異なる世界の神だけどね」
普段であれば一笑に付すところだろうが、この状況では信じるほかあるまい。死者である志穂とこうして話ができる存在など、それこそ神や天使、あるいは悪魔くらいのものだろう。
「さて、今回は君に頼みたいことがあってここに来てもらったんだ」
まだ気持ちが追いついていない志穂に構わず、目の前の男――神は話を先に進める。
彼が指を鳴らすと、その目の前に地球のような青い惑星が映し出された。
「これは……」
「これが僕の管理する世界さ。残念なことに、この世界は今危機的状況にあってね。『魔王』と呼ばれる存在が復活した影響で、各地のモンスターが活性化している。さらに人の心までもが乱れ、悪しき者たちが蔓延っている状態なんだ」
『魔王』に『モンスター』――そんな話を聞かされたならば、普通であれば戸惑うところかもしれない。しかし荒唐無稽とも思えるその話を、志穂はすんなりと飲み込むことができた。
「なるほど。その世界に転生して『魔王』を倒せ――と、要するにそういうことですか?」
「おや、話が早いじゃないか。そのとおりだよ」
志穂がそんなふうに理解できたのは、友人からの勧めでその手の小説に触れている時期があったためだろう。かといって神の言葉に全く疑問を抱かないわけでもない。だいたいその世界を管理しているという神というならば、そんなもの自分でどうにかしろという話だ。
そんな志穂の心を察したのかはわからないが、神が言葉を続ける。
「なにせ僕は、自分の世界に直接関与することはできないからね。それどころか、その様子を直接見る事さえできないんだ。僕に出来るのは、人々の『願い』や『祈り』といったかたちで間接的に世界の様子を知ること。そして君たちのような者を『英雄』として送り込むことだけなんだよ」
神を名乗る割には、ずいぶんとできることが少ないらしい。
とはいえ一応腑には落ちた。残る疑問は、なぜ自分がそんなことをしなければならないのか、だ。
「それで、なぜそれを私に? もう少しまともな方をお選びになっては?」
先ほど狂人扱いされたことへの皮肉を込めたつもりだったのだが、神は特に意に介する様子もないままに答える。
「まともじゃない者にこそ、『英雄』としての資質があるのさ。ひたすらに魔物を屠り、ときには悪しき人間をも斬る――心が正しいだけの人間にそんなことができると思うかい? だからこそ、君たちのような死に臆さない者こそが必要なんだよ」