3 その空白は血と臓物に①
新東陽線・貝師町駅のホームは、ピーク時の人混みが嘘のように閑散としていた。学生は夏休みに入ったとはいえ、平日の昼間であればいつもこんなものなのだろう。
電光掲示板に目を向けた千路志穂は、軽く溜息をつく。
(次は快速か……)
貝師町は快速電車の通過駅だった。乗車できるのは次の次、十五分ほど後の電車だ。
志穂はホームのベンチに視線を向ける。
ただ突っ立って電車を待っているよりは、座って本でも読んでいるほうが有意義だろう。幸いというべきか、先日友人から半ば強引に押し付けられた小説が読みかけのまま鞄の中に入っている。
それでも志穂は、ホームの整列位置にぼんやりと立ち続けた。ベンチに腰掛けて本を開くだけの行為が、なぜかひたすらに億劫だった。
志穂の生まれは地元では名の知れた名家であり、物質的には何一つ不自由もなく育てられてきた。さらには容姿や才能にも恵まれ、周囲には友人と呼べる者も多い。
そんな彼女の人生は、他人からはきっと羨むべきものと思われていることだろう。
しかし志穂自身にとっては、そんな自らの人生は空虚以外の何物でもない。
志穂は三人兄妹の末っ子であったが、両親の期待と愛情は後継ぎである年の離れた兄に対して注がれるばかりであり、志穂と姉は家を大きくするための道具程度としか思われていなかった。
通っている高校は親に決められたもので、受験する大学も親が決めたもの。そして親が決めた会社に就職して、いずれは親が決めた相手と結婚するのだろう。
それがわかっているからこそ、志穂はこれまでも手にしようとしてこなかったのかもしれない。夢を、希望を、生きがいと呼べる何かを――。
ただ待つ時間というものは、どうしても色々なことを考えてしまうものだ。
受験勉強に没頭しすぎる志穂を見かねた姉の強い勧めで気分転換にと外出したものの、これなら勉強をしていたほうがまだ気分はマシだった。
目の前に敷かれたレールは視界の果てまで平行に伸びている。敷かれたレールの上を進んでいくだけの人生――そんなフレーズが頭をよぎり、志穂は思わず自虐的に嗤う。
ふと横に目をやると、志穂のいる位置から二ドア分離れたところに男が一人立っていた。
くたびれた上下のスーツを纏ういかにもなサラリーマンといった出で立ちのその男は、夢も希望も失われたような虚ろな表情で呆然と立ち尽くしている。
そんな男の姿に今の自分を重ねると、志穂はまた一つ大きく溜息をついた。
「間もなく、二番線を、電車が通過いたします。黄色い線の内側まで、下がってお待ち下さい」
やがてチャイムとともに、無機質な音声アナウンスがホームに響き渡った。
そして程なくして視界に入ってくる、チカチカと輝く銀色の車体。
ホームに向かって段々と近づいてくるそれを、志穂はただなんとなく眺めていた。
その時、視界を一つの影が横切る。
ゆっくりと線路に向かって倒れ込んでいくその姿は、先ほどのサラリーマンのものだった。
死に向かって踏み出したはずの彼の動きは、なぜだかまるでただベッドで休もうとでもしているかのように日常じみていた。そこには恐れも迷いもまるで感じられない。志穂にはその表情が安らかな笑みを浮かべているようにさえ見えた。
そして減速する間もなくホームに入ってきた電車は、そんな彼の身体を地面に着くより早く、バラバラに弾き飛ばしてしまった。
不思議なことに、志穂の知覚はその瞬間を余すことなく捉えていた。
無機物と有機物とが渾然一体となった濃厚で濃密な衝突音――それは、雷鳴のごとき衝撃をもって枯れ池のようだった感情を鮮烈に呼び起こす。
空中に撒き散らされた色とりどりの『赤』――それは、キラキラとした輝きを放ちながらモノクロームの世界を鮮やかに染め上げていく。
地面に飛び散った欠片が車輪に潰されていくそのひとつひとつの音たち――それは、かつてないほどの胸の高鳴りとともに乾いた身体に熱い何かを注ぎ込む。
そして人間の身体が為すすべなく蹂躙されていくその有り様に、志穂は何よりもその心のときめきを抑えることができずにいた。
普通であれば一生涯のトラウマともなりうるだろうその光景が志穂にもたらしたものは、これまで生きてきた中で感じたことのないまでの興奮と喜びだった。
やがて悲鳴と遅すぎるブレーキの音が響いた頃には、もうすべてが終わっていた。
「――はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……!」
心臓の鼓動が破裂しそうなほどに高まり、呼吸が荒ぶる。
志穂は紅潮した頬を血飛沫が濡らしていることにも気付かずに立ち尽くしていた。
ホームの端でようやく停止したその車体には、へばりついている血と臓物が赤く輝いているのが遠目からでも見て取れる。そのおぞましい光景すらも、まるで偉大な芸術作品のごとく美しい光を放っているように感じられた。
虚ろに沈んでいた瞳は、今や爛々とした輝きにあふれている。
志穂はその日、狂おしいほど強烈に『轢死』に魅了されてしまったのだ。