ヘリクツ
「湿っぽくなっちゃって、ゴメンね?」
ハルの胸からリルは顔を上げた。ハルは腕の力を緩め、リルの顔が見える様に二人の体の間に隙間を作る。
「いや」
「笑って別れようと思ってたのに」
ハルと目が合うとリルは、口角を上げて微笑みを見せた。
「リル」
ハルの呼び掛けに応えずに、リルはまた顔を伏せる。
ハルはリルの体を抱き寄せた。リルの額がまた、ハルの胸に付く。
「リル?やはり、一緒に王都に、来てくれないか?」
ハルはそう問い掛けて待つけれど、リルは答えない。
「君がイザン工国に行くと言うなら、手伝わせて欲しい」
「・・・恩返しはいらない」
くぐもった声で返したリルに、ハルは「違う」と首を振る。
「そして、イザン工国での目的を果たしたら、帰って来て欲しい。そう、これは恩返しではなくて、私の我が儘だ」
「・・・帰って?」
「ああ。私が同行するのが嫌だと言うのなら、何年でもこの国で待つから、帰って来て欲しい」
「・・・帰って来て、どうするの?」
「その時にリルにやりたい事があったなら、その実現を手伝わせてくれ」
「・・・やりたい事がなかったら?」
「この国で良ければ、ノンビリと過ごして欲しい」
「・・・この国じゃイヤなら?」
「他の国で暮らす手助けをしよう」
「・・・恩返しに?」
「違う。私の我が儘だ」
「でも、私にそんなにしてくれようとするのは、私を恩人だと思ってるからでしょ?」
「違う。恩返しは、私がリルを忘れる事だろう?」
「でも、忘れてないじゃない」
「リルに向かって我が儘の限りを尽くし、私の気が済んだなら恩返しをするよ」
リルは笑う様に、ふっと息を漏らした。
「ダメじゃない」
「いいや、駄目ではない。別れたら忘れる約束だろう?それまで別れないのだから、駄目ではないよ」
「ヘリクツ」
「そう思われても仕方がない。だが、充分に理屈は通る」
リルは良いとも駄目だとも答えない。
その代わりにハルの胸に頬を付け、ハルの体に腕を回して両手で腰に触れた。
そのまま動かずに、しばらくしてから「ふふ」と息を漏らして口角を上げる。
「・・・どうしたのだ?」
「これはハレンチじゃないの?」
リルの問いにハルも、ふっと息を漏らした。
「破廉恥極まりないな」
ハルのその答えにリルはもう一度「ふふ」と息をもらすと、ハルの背中にまで腕を回す。ハルもリルを抱く腕の力を少しだけ強めた。リルは頭を動かして、ハルの胸に顔を埋める。
「夜中に目を覚ました時に、両親が抱き合っているのを見る事があったの」
リルの言葉に反応して体に無意識に力が入ったけれど、リルを抱く強さは変わらずにいられたので、ハルは安堵してから体の力を緩めた。
「私の両親は、怪我人や病人を治療したら、見送るまでは仲が良いの。でもね?二人だけになったら途端にケンカしたりする事があったわ」
「うん?ケンカと言ったのか?」
ハルは首を傾げる。先程の言葉から甘い場面を想像してしまっていたので、ケンカと言う単語を聞き間違えたかと思った。
「そう、大ゲンカに発展する事もたまに」
ハルの中で、夜中に男女が抱き合う姿が、男女の取っ組み合いに切り替わるが、途端にイメージが不鮮明になる。どうにも上手く、想像できない。
「治療中に治療方法を相談したりするけど、それは冷静に遣り取りをしてるの。患者を不安にさせない様にね。でも患者が帰ったら、あれはこうした方が良かったとか、いいえやっぱりこうよとか、意見交換から議論になって、口論になる事もあったから。いつもこう言ってるだろうとか、あの時こう言ったでしょとか」
「父君は薬師で、母君は治療師だと言っていたな?」
「うん。でもお父さんも自癒魔法を使ったり、お母さんも薬を調合する事があったから」
「自癒魔法?」
「うん」
「この国で言う治癒魔法の事か?」
「え~と、治癒魔法には二種類あって、患者の魔力を使う自癒魔法と、治療師の魔力を使う治療魔法があるから」
「そうだったのか」
「うん。それで、お父さんは治療魔法は使えなかったの。お母さんは両方使えたけど」
「リルは?」
「私?両方使えるけど?」
「普通はそうなのか?」
「普通?・・・どうだろう?普通、ヒーラーが使うのは自癒魔法だと思う。魔獣との戦闘中にヒーラーが魔力を失ったら、ただの足手纏いになるからね。治療魔法を使うのは見た事がない」
「そうか。そうだな」
「うん。だから両方使えるのか、自癒魔法だけなのか、どっちが普通かは分からないな。神殿の神聖魔法は治療魔法に似てるけど」
「似ている?似ていると言う事は、違うのか?」
「だって神官本人の魔力ではなく、神様の神力を使うんでしょ?」
「あ、ああ、そうなのか。なるほど」
ハルは一旦肯いてから、首を捻る。
「リルは神力も見えるのか?」
「神聖魔法も、神官から放たれる時にはもう、魔力になってるから」
「そうか」
リルはハルの腕の中で、「うん」と肯いた。
リルが頭を動かした事で、ハルは状況を思い出す。
「申し訳ない。リルの話の腰を折ってしまった」
リルが顔を上げて、微笑みをハルに向ける。
「ううん。気になったら知りたい質だもんね?」
「いや、まあ、その、申し訳ない」
「申し訳ないなんて、そんな事ないよ。でもハルが自分でそう言ってたけど、その通りだよね」
「だが、その所為で、話を逸らしてしまった」
「ううん。私の話に興味を持ってくれたって事でしょ?」
「そう、なるのか?」
「違うの?」
「いや、リルの話はいつも興味深いし、リルとの会話はいつもとても楽しい」
「そう?」
リルは小首を傾げた。そのリルの様子に、ハルは無意識の笑みを向ける。
「ああ」
「なら良かった」
リルは少しはにかんだ様な笑みを浮かべた。そのリルの表情に、思わず強く抱き締めようとする情動を感じ、ハルは深い呼吸を一つして、自分を抑えた。
「ああ。だが、また、話題が逸れたな」
「ふふ。そうね」
「申し訳ないが、続きを聞かせてくれ。御両親のケンカが気になる」
「ふっ、そうね」
リルはまたハルの胸に顔を埋める。
慣れている筈のリルの匂いに、ゴクリと喉がなってしまったハルは、自分の感情が乱れるのを抑えようと、奥歯を強く噛み締めた。




