第四話 スタジオM
津久見に詳しく教えてもらったおかげで、迷うことなくスタジオMに辿り着くことができた。ビルの階段を降り、重い扉を開くと、何か言い合いをしていた。それも、かなり緊迫している感じだ。恭一はドアを閉めてこのまま帰ってしまおうかと思ったが、体が動かない。
この前ステージの真ん中に立っていた人が、津久見に向かって、「こんな曲をオレに歌わせようってのかよ」と大きな声で言った。津久見は全く冷静に、「いや。別に歌わなくていいよ」と言う。
「これがオレのやりたい音楽なんだ。歌えないなら歌わなくて結構」
その時、ヴォーカルが恭一の存在に気が付いた。彼は目を見開いたが、すぐに恭一をにらみつけた。そして、恨みを込めたように、
「そういうことかよ」
怒鳴るように言うが、津久見は表情をいっさい変えず、
「そういうことだよ。わかったら、さっさと消えてよ」
「言われなくたって消えてやるさ」
そう言ってヴォーカルは恭一の立つドアまで走るようにして来たが、急に立ち止まり振り返った。
(何を見ているんだろう)
彼の視線を追ってみる。その先には津久見がいた。ヴォーカルの表情が、一瞬弱々しいものに変わったように見えた。が、津久見は相変わらずのポーカーフェイスだ。
「ミハラくん。さっさと消えてって言ったろう」
津久見の言葉にヴォーカルは元の荒々しい表情に戻り、何も言わずに厚いドアを開けて出て行った。
スタジオの中の空気が少し緩んだ時、ドラムとギターの二人が津久見のそばに来て、
「サイちゃん。大丈夫か?」
口々に言った。津久見の表情が、初めて崩れた。泣きそうな顔をしているように恭一には見えた。
「終わったよ」
津久見の言葉に、二人が頷いていた。
何分くらい経ってからだっただろう。津久見がぽつぽつと話し始めた。
「矢田部くん。この、アスピリンっていうバンドはね、さっき出て行ったミハラくんが始めたバンドなんだ。オレはそれまで彼が好きな音楽を聞いたことはなかった。ずっとクラシックピアノを習ってるから、クラシックを聞くことが多かった。本当に全然彼の好きな音楽を知らなかった。
彼にバンドに誘われて、断ったんだけど結局参加することになって、それからそういう音楽を聞くようになった。で、こういう感じの曲を書けばこの人は喜ぶんだろうなってわかった。だから、書いた。彼の為だ。何でそうしようと思ったかなんて、訊かないでくれよ。訊かれても困るから」
津久見が黙ったので、スタジオの中はシンとしてしまった。恭一はどうするべきか考え、ここにいてはいけない、と判断した。
「あの……僕はこれで……」
帰ります、と言おうとしたが、俯きがちだった津久見が急に顔を上げると、
「それはダメ。君はね、今日からうちのヴォーカルなんだ。今から新しい曲やるんだから、帰っちゃダメだ」
「え? それってどういうことですか?」
さっぱり訳がわからなかった。何故自分が歌わなければいけないのだろう。
「どういうこともこういうこともないよ。言ったまんま。君、今日からうちのヴォーカルだから」
二回言われても、わからないものはわからない。
それを見かねたのか、右手にドラムのスティックを持った男が、
「サイちゃん。それじゃわからないだろう。矢田部くん、困ってる」
確かに恭一は困っていたので、強く頷いた。が、津久見は気にした様子もなく、
「だって、高矢。この子を見なよ。真ん中に立つのが似合いそうだろう。オレはそう思う。だから、絶対やってもらいたい。それだけだよ。何も難しいこと、ないじゃん」
「難しくないけどさ、そんなこと急に言われても普通は困るんだよ。決めつけるんじゃなくて、お願いしなきゃ」
隣に立つギターの人も、しきりに頷いている。
「何だよ、二人で。じゃあ、わかったよ。お願いします。うちのヴォーカルになってください」
挑むような顔をして言う。全然お願いをされている気にならない恭一だった。