こうして彼女は病院へと運ばれた
※先日のちょっと死にそうになった時のことをネタに書いたものです。
全6話となります。
後に1、2本追加する予定。
打ち合わせを終え、小会議室から廊下に出た私の目に入って来たものは、トイレに出たり入ったりしている何者かの姿だった。
あのやたらとちっさい体格。間違いなく姉さんだ。
姉さんこと水無瀬コキリコ。私と同期のVtuberだ。
姉御肌の性格もあってか、皆からキリコ姉さんと呼ばれている。もちろん、私と実の姉妹と云うわけじゃない。そもそも私の方が、たかだか10日程だけれど年上だ。
……というか、姉さん、なにをやってるんだろ? 確かこの時間は配信部屋で配信してたんじゃなかったっけ?
あからさまにオロオロしているみたいだけど。
どう考えてもおかしいよね?
私は少しばかり首を傾げながら廊下を進み、姉さんに声を掛けた。
「姉さん、なにしてるんです?」
「え? あ、ミヤコ、丁度いいところに。ちょっと来て」
姉さんは私の手を掴むと、トイレへと引き込んだ。
姉さんの手が異様に冷たいのが少し気になった。
「ちょっ……あ、ごめん、ちょっと待ってて」
姉さんはトイレに入ると扉を閉めた。
……いや、私にどうしろと?
水の流れるような音、シャワー音っぽいのに次いでカラカラとした音が聞こえ、ややあって姉さんがトイレからでてきた。そして隣りの個室に入り、手にしていたトイレットペーパーをそっちで流した。
……いや、なにやってんですか、姉さん。
「ミヤコ、ちょっと見て」
姉さんがいましがた籠っていたトイレを指差した。
「いや、姉さん、私、そういう趣味はありませんから」
「違うから。そういうのじゃないから」
なにやら悲壮な雰囲気の出始めた姉さんにたじろぎ、私は促されるまま便器の中を見ることにした。
赤っ!
便器の中は真っ赤だった。いや、赤と云っても鮮紅色ではない。例えるなら、赤ワインを丸々一本ぶちまけたかのようだ。
そう、あの店頭にならんでいる赤ワインの瓶。一見すると黒といってもいいくらいなのに、なぜだか赤と認識できるあの色だ。実際、便器の白と便器内の液体の境目のところは、しっかりと赤い色であることが認識できる。
あまりのことに呆然としていると、姉さんがこんなことをいいだした。
「ミヤコ、私、死ぬのかな?」
ちょっ!? えっ? あ……いやいやいや。え、でも、これ、血だよね。
生理にしても量が尋常じゃないんだけど!?
「姉さん!?」
「え、えっと、下血っていうんだっけ? こういうの?」
とりあえず症状の名称についてはどうでもいいから!
「姉さん、座りましょう」
私は隣りの個室の洋式便器に姉さんを座らせる。もちろん、ちゃんと蓋をした上でだ。
「いや、私は大丈夫――」
「死ぬのかな? とか云ってる人が大丈夫なわけないでしょう。顔色も真っ白だし。急に倒れたりしそうで心配ですから、大人しく座っててください。いま人を呼びますから」
「う、うん」
姉さんを座るのを確認し、私はスマホでマネージャーを呼び出した。
多分。まだ小会議室で資料をまとめているだろうから、すぐに来るだろう。
連絡をした直後、バタンと扉の開く音が廊下に響き、次いで小走りに駆けて来る足音が聞こえてきた。
我らが頼れるマネージャー。みんなから“出来る女”と称されている彼女だ。
私は簡単に事情を説明しつつ、例の便器を見てもらった。
マネージャーが失神した。
ちょっと!?
「マネージャー!?」
「姉さんは座ってて!」
「あ、うん」
倒れかけたマネージャーを支えつつ、すっかり気弱になっている姉さんを制する。
つか、このマネージャー肝心なところで使えねぇ。“出来る女”とはなんだったのか。これじゃ手間が増えただけじゃん。
とにかく現状だと邪魔なだけだから、とりあえずトイレの床に寝かせておく。今後、トイレの床で寝た女と揶揄われるだろうが知らん。
私はすぐさまスマホで次なる頼れる人物に連絡をとる。今日は事務所に来ている筈だ。
5分と経たずに、彼女はトイレにまでやってきた。
「ミヤコ、どうした? なにがあった」
私が呼び出したのは、我が事務所の社長。皆からは姐さんと呼ばれている、自身もVtuberだ。
もっとも、いまでは社長業が忙しく、配信頻度はめっきり減っているが。
私は状況を社長に説明した。
社長は例の真っ赤に染まった便器を見、次いで私の眼の下を引っ張った。
え、何事?
そして今度は姉さんの眼の下も引っ張って、なにかを確認している。
「うん。マズいな。キリコ、病院に行くぞ。ミヤコ、キリコの配信を終わらせて来てくれ。つか、キリコ、お前どのくらいトイレに籠ってた。
いや、何回下血した?」
そう社長が訊くと、姉さんは顔を強張らせるやまたしてもトイレに籠った。
そしてフラフラとしながらトイレからでてきた。
「今ので4回……あれ、5回目?」
「おま……。ミヤコ、相当配信が止まってる。完全に事故ってる状態だから、なんとか上手く説明しておいてくれ。あと、今後のキリコの配信はすべて休止だ。説明は後日行う。頼むぞ。
キリコ、歩けるか?」
「眩暈がします」
社長は姉さんをお姫様抱っこで抱え上げた。姉さんが小柄とはいえ、本当に社長は男前だな。姐さんと呼ばれるのも納得だ。
つか、雰囲気が完全に極妻な人だから、姐さんって呼ばれてるんだけれど。
「あ、最後にミヤコ、コレはなんでここで寝てるんだ?」
「助けを求めたところ、血を見て倒れました」
「血なんぞ見慣れてるだろうに。ほっといていいから、キリコ……コキリコの配信の始末を頼むぞ」
社長は床で失神しているマネージャーを尻目に、姉さんを抱きかかえて歩いて行った。
いつもなら姉さんはこの状況にアレコレいうだろうに、文句のひとつも云わずにお姫様抱っこされているという時点で、かなりヤバいと思われる。
つか、あのやたらと冷たい手を思い出し、私は少しばかり怖くなった。
「ミヤコ、私、死ぬのかな?」
さっきの姉さんの言葉が頭に浮かぶ。
ダメだダメだ。悪い方向に考えない。
とにかく、姉さんの配信を終わらせてこないと。私の不安を感じさせるような声を出して、リスナーを動揺させるのはよろしくない。
「よしっ」
フッ! とひとつ息を勢いよく吐き出し、私は配信部屋へと向かった。
……マネージャーは、まぁ、このままでいいだろう。
★ ☆ ★
:一時間経過を確認!
:姉さん遅いなー。なにかあった?
:まさかトイレで倒れたとか?
:それは大丈夫だろう? 今日って事務所から配信してるんだろ?
:上の階がやらかして、姉さんの部屋が水漏れで機材が死んだんだっけ?
:水漏れが前座。その翌日に落雷で家電が死亡。ほぼ直後に追い打ちを掛けるように隣りが火事を起こして、消火活動のとばっちりで機材死亡。つか部屋がもう生活不能
:姉さんどんだけ不運なんだよ
火事の話してる。タバコの不始末が原因でお隣が出火したんだっけ? 姉さん打ち合わせで事務所に来てたから無事だったけれど、ほとんど着の身着の儘で焼け出されたようなものだったんだよね。
「こういうのも焼け出されたっていうのか? 通帳とかの再発行とかどのくらい掛かるんだろ? 即日できんのかな?」
姉さん、頭を抱えてたっけ。
さてと、すぐにこのまま私が出る訳にもいかないな。
とりあえず姉さんのアバターを引っ込めとけばいっか。
よし、それじゃミュートを解除と。
「あー、あー、聞こえてるかな?」
:帰って来た!
:おかえりーって、誰!?
:あれ?
:誰?
:ミヤコちゃん?
おー、私の声で分かる人もいるみたいだ。
「はいはーい。猫ノ島ミヤコだよー。えーっと、コキリコ姉さんがちょっーと配信に復帰できなくなったから、私が配信を終わらせに来たよー。
ごめんねー」
たちまちコメント欄が荒れ始める。つか、かなり長いこと放置だったろうに、まだ四桁単位でいるのか。平日昼間だって云うのに。
まぁ、仕事中に見てる剛の者も結構いるみたいだしなぁ。
待っててもらったのに申し訳ないけれど、リスナーとあれこれやりとりすると収集がつかなくなるだろうから、一方的に話して終わらせてしまおう。
「えーっとね。後でお報せの配信を社長……シーマ姐さんがするから、そこで詳しいことが話されると思う。ちょっと姉さん、急病でね。いま姐さんが姉さんを病院に連れて行ったんだよ。
それで、今後の水無瀬コキリコの配信に関してなんだけど――」
リスナーたちがかなり騒ぎ出しているが、とりあえずは無視を決め込む。正直、問い合わせに答えるわけにもいかない。なにより姉さんがどういう状態なのかなど詳しいことはわからない。
後日の報告を待ってくれとしかいえない。
半ばリスナーのコメントを無視する形で、無理矢理配信を終了させた。
終了させ、私は尻餅をつくように椅子に腰掛けた。
つい先ほどの、不安そうな姉さんの顔が思い出される。
なんだか手が震えている。
どうか、また姉さんと会うことができますように。




